二大演出家、軽やかな競演

野田秀樹、蜷川幸夫演出「パンドラの鐘」

今年、小劇場(とは言わないけれど)最大の話題作「パンドラの鐘」を観た。元々の経緯を話すと、野田秀樹(80年代に栄華を極め、未だトップに君臨する脚本家兼演出家)の書いた脚本を、野田自身と蜷川幸夫(小劇場出身でありながら、今や「世界のニナガワ」と呼ばれる大演出家)が同時期に同じ作品を上演するという企画。

 野田秀樹ヴァージョンは、堤真一(TPT等にも出演している俳優)に、天海祐希(元宝塚女優)をメインに、大人計画の松尾スズキ、劇団新感線の古田新太、野田秀樹、富田靖子、銀粉蝶と、どれも一線級役者。かたや、蜷川ヴァージョンは、大竹しのぶ、第三舞台の勝村政信をメインに、そとばこまちの生瀬勝久、蜷川作品ではお馴染みの譲晴彦、芸術家の森村秦昌、元蜷川カンパニーの松重豊など、こちらも豪華。

 とにかく、野田秀樹の新作としても注目だが、この二人の演出合戦と共に、役者陣の比較なども楽しめる。ましてや、これだけのメンツとなれば、作品自体のコラボレーションを、どれくらいまで高めていけるか?等々、注目すべき点は尽きることがないです。

 先ずは注目していた点を整理してみよう。

1、演出

 演出については好みが分かれる所だろう。どちらも、さすがという演出。野田秀樹の方は、舞台衣装をやったのがNODA MAPではお馴染み、日比野克彦(恐らく、彼の奥さんである、元内藤こづえこと日比野こづえも絡んでいると思われる)も素晴らしく、美的な部分での総合力があった。野田秀樹の演出としては、相変わらずと行っても良いクオリティまで行っているが、どちらかというと従来の体のキレという部分では鈍っていたのかな?という気もしないではなかった。片や、蜷川演出は、とにかく蜷川らしいという部分で、「あくが強い」と思った人もいるかもしれない。特に大きな満月は「蜷川マクベスじゃん!」と言いたくなるぐらいで笑ってしまった。しかしながら、花吹雪や、派手な演出は極力抑えていたと思う。あくまでも蜷川にしては、という事だけれど。しかしながら、こうまで作品の解釈というか主眼の置き方が違うとは思わなかった。野田の脚本は直球という感じで、あくまでも王制という、以前から取り上げてきたテーマにこだわり、長崎の原爆を横軸にした。一方、主演の二人の、引かれ合う感情を中心にして、実にシンプルな劇進行を目指した蜷川。こうまで対称的になるとは思わなかった。個人的にはインパクトと、役者陣のぶつかりあいにこだわった蜷川に軍配を上げたい。

2.役者

 これはなかなか難しい。主演のミズオは、圧倒的に勝村政信の勝ち。堤真一は、あまりにもまったりとしていて、ミズオの役回りが生きなかった。野田ヴァージョンではミズオは脇役?と思うくらい影が薄かったが、蜷川ヴァージョンでは、作品の根幹を見せつけるくらいの存在感があった。しかしながら勝村の後半の演技は、少しばかり過剰だったか。問題は王制というテーマを背負って立つヒメジョの役だが、姫である以上、圧倒的な美しさ、立っているだけで作品を支えられるんじゃないか?と思うくらいの存在感を示した天海と、ヒメジョの生まれ持っての悲しみと、無邪気さと賢さを巧く演技で見せつけた大竹は比較しにくい。まあ初見だけに、その存在感に驚かされた天海に軍配。

 王制本来の主役を担うヒイバアは、コミカルにトリックスター的存在に仕立てた野田と、あくまでも正攻法で攻めた譲。これは作品を、より分かりやすくし、その存在の不気味さを引き立てた譲に軍配。もう1人の側近ハンニバルは難しい。譲同様不気味さを醸しながら、コミカルな一面もこなした松重。あくまでも不気味さをおかしさに転嫁させて、自らのアイデンティティを示した(彼は大人計画という毒々しい、お笑い系?劇団の座付き作家でもある)松尾はそれぞれのキャラクターを全うしているだけに、どちらとも言えないかもしれない。

 個人的には、予想外に、遠くから観ると往年のカトリーヌドヌーブか?と思えるくらいの妖艶さを見せつけた森村が凄かったか。それに、あくまでも役者の色気という意味で、古田新太の頑張り。何といっても、美しさと言う意味で超人的な力を見せた天海にMVPを上げたい。演技力から考えれば、大竹、松重、生瀬、譲が技能賞という所。

 単純に二つを見比べた時、まず思ったのが演技だけではなく舞台というのは役者を見せるものでもある、と言うことだ。演技のクオリティから考えれば圧倒的に蜷川サイドの勝ちなのだけれど、野田サイドの「見せる」(魅せる?)という観点にこだわったのは面白い所。何度も言うが天海の美しさは特筆すべき所がある。あれだけでも観る価値がある、と言えるくらいで宝塚侮り難し、という印象を持った。それに古田、野田と言った魅せる役者が、巧みに肉体で魅せるというのも一つの魅力という事を実感した。逆に、役者の層の厚さというのも実感させられたのが蜷川演出。いわゆる小劇場を観ていると、ほぼ年齢差のない役者ばかりなので、自分がそれに慣れている部分があるな、と実感した。この物語の中で、発掘を続ける若手の助手と、ただ名声だけが欲しい教授のやり取りがある。その教授が有能な助手の解釈を盗用し、ましてや助手のフィアンセを横取りするシーンがある。このプロットで、教授をやったのが、実に見栄えのする古田新太と、大衆演劇の雄・沢竜二。いわゆるおじさんと言って差し支えのない沢に対して、むしろフィアンセが惚れてもしょうがないんじゃないか?と思える位魅力的な古田では、フィアンセを奪われた助手のやりきれなさとか悔しさの伝わり方が全く違う。そういう単純に、年齢に相応しい役者も必要なのだなと思わずにはいられなかった。当然ではあるけれど。

 まとめてみると、先ず思うのが、野田の脚本自体が、野田秀樹にしてはクオリティが低いんじゃないか?と言う身も蓋もない意見が、僕としてはあるのだけれど、それは置いておきたい。

 で、作品自体が、前述したように、王制(天皇制)を主題に、長崎の原爆投下を絡めて、(あくまでも、これは個人的に感じたのだけれど)現在の日本の状況をシンクロさせる作品だった。これを巧く隠しながら、それでもテーマをスパイスとして十分に効かせた野田と、ストレートに観客に投げつけ、それを娯楽に転換させていた蜷川と言える。

 その違いは、舞台に象徴的に出ていた。実に美しく、白を基調に見栄えするさらっとした美しさを出した野田秀樹。逆に、舞台上にゴツゴツとした石をばらまき、キャスティング同様、動いたり立ったりしているのさえ何か居心地の悪さを感じさせる舞台を作った蜷川。作品というのが、幾重にもなる演出家のこだわりからも出来上がっていることを分かりやすく観る事が出来た好企画だったと思う、「パンドラの鐘」は。

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