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全ての行き着いた野郎どもに捧げる讃歌 映画「ピンポン」を見て、ふいに思い出したエジプトの花屋に捧ぐ |
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エジプトの花屋、ラシュワン。 覚えている人がいるだろうか? そう、日本の柔道最強の一人、山下とオリンピックの決勝で闘ったエジプトの花屋、いや柔道家である。 ラシュワンとの決勝戦で山下は、怪我を克服して金メダルを勝ち取った。美談の一つである。 そして、その試合で、もう一つ大きく取り上げたのが、このラシュワンが怪我をした山下の足を攻めなかった。彼は人間的にも出来た人である。という美談である。 そうか、花屋は、やっぱり良い人だったんだあ!などと、当時の僕も感心したものだが、この話は、十数年後、ふいに見たドキュメンタリーでひっくり返される。 ラシュワンは、決して怪我をしたから攻めなかったのではない。仮に相手が右足を怪我していたら、もう片方の足を攻めるのが常套手段なのだ、と言った。びっくりである。 いや、よくよく考えてみれば、それは十分ありうる。 もう片方の足を攻められれば、特に無差別の100キロ以上の選手であれば、怪我をした足に全体重が乗る。これは相当きついだろう。 でも、日本のテレビや新聞は、ラシュワンをそんな美談で括ろうとしたのだ。すっとこどっこいな話である。 それが日本では、当たり前のように一般に流布し、それに対して敬意を払ったのである。 なんともおめでたいのである。
以前、人間描写がマンガチックである事が、ある種の日本のドラマ、映画のダメな所だ的な発言を、このページでした所、ちょっとしたメールを幾つか貰った。 大概が「私は、あの映画が好きな人間です」と言う話で、「すみません、好きな映画にケチ付けちゃって」と申し訳なく思いつつも、その映画の欠点だと僕が言った部分への反論がなくて、ちょっぴり寂しい思いをした。 いやいや、別にケチを付けたというより、その映画が安易に笑いに転嫁するストーリー展開。現実的と思えない人物像の数々が、どうにも見ていて僕は居心地が悪かったと言いたかったのだ。 ところが、ネットでは、もっともらしい反論もなかったのだけれど、ふいに、ある映画を観ていて反論されたような、そんな気分になった。 映画「ピンポン」である。 何を今さら。と言われてもしょうがない。だって、映画を取り巻く雰囲気とかが、どうにも嫌だったんだもん。なんだかフワフワしていてさ。同じ思いをするのも嫌だったし、窪塚の人気も、なんだか上滑りで、ちょっと敬遠していたのよね。 脚本は、大人計画のナンバー2。「池袋ウェスト・ゲート・パーク」で才気を爆発させた気鋭、宮藤官九朗。松尾スズキも友情出演、竹中直人も出演とくれば、殆ど僕の好みと言っても良いのだけれどね。 結局、この映画の窪塚の演技もマンガチックなのだけれど、この映画の原作がマンガだから仕方がない、などと言う安易な事は言わない。 ましてや、井筒監督が言うように、人間が描けていないなんて言うつもりもない。 むしろ逆だ。 この映画は、ある種の厳しさと冷たい現実を振払うように明るく振舞う切実さが窪塚の演技にはある。脚本や物語の背後に、どっしりとした裏打ちがあれば、マンガチックな演技でも十分に感動する事が出来る。当たり前の話だ。アニメで人間を描く事が可能であるように、コミックめいた演技や展開でも、それが必然的な表現にもなりうる。 怖いのは、裏打ちもなく、無闇矢鱈に非現実的な演技が繰り広げられる事なのだ。 この映画は、見ていてドキドキした。 この国の古くから伝わる文化背景までひっくるめて、この映画の登場人物は、確信犯的にマンガチックに振舞っている。 特に、チャイナとドラゴン、アクマといった充実した脇役達が、そう言ったある種の文化背景を体現しているのが良い。 一つは、正しくヒーローの話だ。 ヒーローとは何か?勇者か、強い者か。 この映画でのヒーローは高い所に連れて行ってくれる者である。より高みに連れて行ってくれる人。それは、ある種の夢を見させてくれる人と言って良い。 スマイルにとって、ペコがヒーローだったように、終盤、ペコはスマイルのヒーローになる。膝を壊したペコは、スマイルを思い、慰められる。片やドラゴンは、エゴとも言える試合の最中に心底楽しいと思える試合を体験し、ある種の感動を味わう。スマイル、ペコ、ドラゴンは、互いに刺激し合い、互いに高みに上がって行く。素晴らしい人間関係を映し出しつつ、それぞれのヒーローを描いている。 その一方で、生易しい同情や優しさ。敗者に対する視線こそが、この映画の大きなテーマの一つである。 弱者、敗者に対する、この国の見方は二通りある。 「がんばったんだから良いよ。君は美しい」これは、オリンピックで言えば、ラシュワンや、ぐでんぐでんになりながらゴールしたアンデルセン等である。 そして、もう一つは完全無視。これは、今では格闘技のヒーローとなった小川直也である。 この極端過ぎる反応に、僕は戸惑う。 前者には、なんだか優越感や他人事といった風な無責任さや、感動に群がるハイエナのような、ひたすら消費する為の感動が見え隠れする。 そして、後者には、妙な迫害。村八分にも似た嫌な物に似た何か。 負けるという事は、美しいことでも醜いことでもない気がするのだ。ただ、負けがある。 そして、それらを処理するのは当事者だけで充分であり、それを分かるのは敗者に勝った勝者だけなのではないか?第三者には伺い知る事の出来ない意識の共有が、それこそハイレベルな場にはあるのではないか?という思いである。 その「やった者にしか、到底分かり得ない共振」が、絶対ある筈なのだ。 主人公に負けるドラゴンもチャイナも、負けを通過しつつも潔く事実を受け止める。その潔さは見ていて気持ちが良い。 もっと厳しい形で敗北を体現するのは、ナイロン100°の奇怪俳優、大倉孝二扮するアクマである。 どうにもならない現実。才能がないという事。 それを受け止め、ある種潔く卓球から身を引く彼の姿も、感動を誘う。 徹底的な敗北を受けて、やけっぱちのアクマの「何処を歩けば誉めてくれるんだよ!」という切実な悲鳴は、確実に心を刺す。 誰だって同じなのだ。自分が誇らしく居れる場所を探して彷徨うのだ。それが人生に当然ある一場面である。 ただ、アクマが潔くそう言えるのは、ある種の限界まで行ったからである。ある限りの力を振り行き着いた先で絶望しているからこそ、アクマもヒーローの一人なのだ。 色々言ってきたが、この映画は主人公ばかりの映画である。ある種の限界まで突っ走った者は、勝っても負けてもヒーローである。 自分の背丈を知っている人々。素晴らしいじゃないか。 この映画は、自分の限界まで突っ走った人々に捧げる讃歌に溢れている。
そうそう、エジプトの花屋ラシュワンは、その時のインタビューで、こんな事も言っていた。 決して怪我をした足を攻めなかったんじゃない。怪我をしていない足を攻める方が有効だからこそ、そちらを攻めた。オリンピックの決勝で、そんな甘い事はしない。第一、そんな事をしたら山下選手にも失礼だ。私は柔道家なのです。 その言葉を聞いた時、僕は、子供の頃以上にラシュワンを好きになった。 そんな思いで映画「ピンポン」も好きになったのだ。 |