僕は、時々彼を無性に愛したくなる

きっと悪い人は居ないんだろう。僕が夢想する斉藤和義を取り巻く空気。

ずっとずっと憧れる事がある。一人のアーティストを愛し、他のアーティストなど必要がないというか目に入れない、ある境地。様々な音楽を貪欲に聞き漁るのとは全く逆のスタンス。一人のアーティストから、多くの事を感じ取って行く。レコードラックには、一つの名前しかなく、その名前だけがひたすら並んでいる。

そして、そのアーティストと共に日々を重ね、あらゆる事柄が、全て一人の歌い手と共にある。そんなスタンスに、時々憧れる。

中学生の時、佐藤健、通称サトケンと呼ばれる男がいた。小さな公園の前の立派な家に住んでいて、なぜか話していると殿様ガエルを思い出す、落着いた風貌。時折、僕にチェスのやり方を教えてくれたけれど、僕は最後まで覚え切れなかった。ごめんね。

サトケンは、矢沢永吉のファンだった。初めて家に行った時に、レコードラックを見せてくれた。ずらりと並んだ矢沢永吉。しかも、そのレコードは、全て一度しか針が落とされていないと言う。買った日に、最高級のメタルテープに録音した後は、ひたすらテープを聞く。レコードが削れてしまうから、というのがサトケンの言い分だった。

その時思ったのは、こうだ。矢沢がレコードを発売した時。サトケンの喜びは、どんなものだろう?きっと大きな喜びがあるにちがいない、と。

その頃、僕は、それなりの量の音楽を聞いていて、60年代のロックとかを聞き漁っていたからだろう。サトケンは、僕に矢沢の魅力を教えようと、何度か彼らしくもなく、熱心に矢沢の魅力を語ってくれた事がある。

何度か矢沢を聞かして貰ったけれど、結局矢沢のファンにはならなかった。ごめんね。

そう、矢沢を聞くと、今でもサトケンを思い出す。きっと今でも矢沢を聞いているのだろう。飽くまでも、想像の域を出ないが、ライブに行くとかではなく、ひたすら矢沢のアルバムを聞いて「良いよな、エイちゃん」とか言ってそうに思える。

色々な音楽を、どんどん聞いていく僕にとって、サトケンのようなストイックな聞き方は出来ない。その日の気分でジャズから、ロックから、テクノから聞く雑食の僕にとって、サトケンのように一つのアーティストに収斂していく事は不可能だと、初めから諦めている。

ただ、世界中のあらゆる音楽を聞いて行くのと同様、一人のアーティストをひたすら聞く事は、音楽の究極的な楽しみ方の一つだと思う。

様々な音楽に精通して行く事が宇宙に飛び立つ事とするならば、一人のアーティストにひたすら聞き込むのは、海底の世界を研究して行く事だったり、ナノテクノロジーに似ている気がする。余り良くは知らないけれどね。

行き着くと、あら不思議。同じゴールに辿り着くような。そんな感じがするのだ。

で時々、本当に愛してくれるファンしかいないのだろうなあと思うアーティストがいる。

斉藤和義は、そんなアーティストの一人だ。

大ヒット曲がある訳でもないし、マニア受けするアーティストという訳でもない。ましてや時代を象徴する曲を書く訳でもない。失礼な話だが、ルックスに惹かれる事も、まあないだろう。

極めてオーソドックスでありながら斉藤和義色の曲。聞けば、良い曲だなあ、と心底思える曲を書く。

彼のマイペースな活動も、なんだか素っ気なくて愛せる感じがするのだなあ。

時々思う。斉藤和義の大ファンになれたら幸せだなあ、と。途切れる事なくアルバムが発売され、落着いていて、安定した人気があり、新曲をリリースすれば、素敵な曲ばかり。ロックっぽい曲もやれば、フォークっぽいしっとりした名曲やら、胸に迫るバラードもお手のものだ。いつの間にか、武道館でライブをやっていたり、室内楽団と一緒に、ちょっと豪華なライブをやっている。

彼の朴訥とした顔が、全てを表しているようにも思える。

そんな彼を愛する人々は、こんな感じではないだろうか?

ちょっとおとなしそうで、流行りに流されるでもなく、かといってマニアックな風貌でもない。周囲の人は、誰も彼や彼女が斉藤和義のファンだとも余り知らない。

ただ、斉藤和義のライブがある時は、こそっと学校や会社を早目に切り上げて会場に、ちょっとしたお洒落をして出かける。帰り道、落着いた雰囲気のお店で、ライブを振り返ったりして、ささやかな幸福感に浸り、言葉少なに同好の仲間と、いかに素敵な時間を過ごしたか微笑みながら話し合う。

僕の斉藤和義のファン像は、こんな所である。なんて素敵なんだろう。きっと悪い人はいないにちがいない。そう信じる。いや、誰が「そうじゃないよ!」とデリカット調に言われても聞かないし、認めない。

僕は、時々無性に斉藤和義の大ファンになりたくなる時がある。