新しいものは不思議に懐かしく、

古いものは不思議に新しい

〜川上弘美の傑作「センセイの鞄」を読んで〜

しゃべくってばかりいた僕は、中学生の頃、絶好の先生の標的になっていた。今考えれば、その理由は歴然としている。先ず、クラスの中でムードメイカー的な存在だったこと。生まれつき声が大きいというより、やたらと響くこと。そして、これも生まれつき頭が大きいせいで後ろを向いたり、横を向いたりすれば、嫌というほど目立っていた事だろう。数人で喋っていたとしても「高市、黙らんか!」と叱られた。大体が仲の良い者同士で話す訳だから。メンツは同じなのだ。それらの連中と話ているにも関わらず、先生は開口一番に「高市黙らんか!」と言った。

さすれば、得意の「何で俺ばっかり!」で応戦する。拙い、あまりにも拙い反抗だった。でも、当時は真剣にそう思った。先生は俺を嫌っているんだ、とか、ひいきしているとか。まあ、それもなかったとは言わないけれど、結局、喋るからいけない。この一言に尽きる訳で、大人しくしていれば良かったのだが、喋る事が止められなかった。集中力もなかったのか、先生の顔や素振りを見て面白い事があると、ついつい口にして叱られる。中学生特有の不条理な妄想で面白くなると誰かに喋りたくなって口にする。そんな事を続けていた気がしてならない。

つまりは、静寂が嫌いだったのだ。

静寂に興味を持ったのは、多分演劇を見てからの事だ。賑やかに、そして、目にも止まらぬスピードで台詞を吐き続ける演劇が主流を占める頃に、それらの反動のように静かな芝居が増えた。専門的な事を言えば、太田省吾の「水の駅」という芝居の頃から、そう言ったものはあったそうだが、それらの影響の下流に「静かなる演劇」というものが生まれた。岩松了の在籍した東京乾電池や、平田オリザ率いる青年団の一連の作品、宮沢章夫が伝説のユニット、ラジカル・ガジベリビンバ・システム〜遊園地再生事業団で描いた「砂漠監視隊」シリーズ等が、僕が好んだ「静かなる演劇」だった。余り設定が動かない、役者も動かない、訥々と舞台は進行し、愛でるように台詞を丁寧に積み重ねていく。小津安二郎の映画みたいだと思ったものだ。

ただ、それらの作家達のインタビュー等を読んでいる内に、それらの作品の静寂は、かなり意図的なものだと気が付いた。つまりは物語や、ドラマを紡いでいくのと同様に、丁寧に人々の営みを穏やかに退屈にならない程度に巧妙に仕組んでいく芝居が「静かなる演劇」のあり方だと思った。普通の生活でも、もう少しドラマがあるだろう、と感じる類の、そんな芝居だった。

そして、僕は影響も受けやすい性質なので、静かに対話することのスリリングさや面白さに傾倒していった。人々の話す言葉には幾つもの背景がある。通りで会った友人と挨拶を交わすとすると「どうしたの?」「いや、そこでちょっとね」という素気ない会話でさえ、友人に会う前に、交通事故に鉢合わせたのだけれど、足止めを喰らうのが嫌だから知らんぷりして来たんだ。なんてドラマが潜んでいる可能性だってあるのだ。

静かなる演劇と言われた芝居にあったのは、人の言葉や素振りに、もっと目を向ける事だったのかもしれない。「ありがとう」や「ただいま」の底に流れるのは、悪意だったり、感謝だったり、歓迎だったり、皮肉だったり。そんなシンプルな言葉に対して感受性を豊かに持つ事の大切さや楽しさを僕は教わった気がしている。

で、前置きが長くなったが、「センセイの鞄」だ。訥々と、静かに流れる、主人公とかつての恩師のゆったりとした恋愛劇は、生活や見慣れた風景の輝きをさり気なく差し込みながら続いていく。その観察眼や描写に溜息が出る程だ。川上弘美のデビュー作「蛇を踏む」は、不思議な印象を与える小説だった。岸和田葉子の「犬婿入り」と奇しくも同じ設定、同じ雰囲気だと後から知ったが、民話風の成り立ちが面白かったのと、何より独特の空間感覚と言葉の使い方が印象的だった。古風な小説と言ってしまえば、それまでだが、何故か頭に引っかかっていた。行き着けの喫茶店で、日曜版の書評で「センセイの鞄」を見つけた時、何故かピンと来た。中学時代の恩師と女性の淡くも切ない恋愛小説。とあって、何故か読みたくなった。こんな事は、松浦理英子の「裏バージョン」以来だ。

読んでみて、独特の感触に引き込まれた。多少作為的なものもあり、鼻につくこともあったが、生活していく中で見えてくる些細なものや出来事を丹念に書くことが、実にドラマティックに感じられる。勿論、「雨戸をたてる」なんて表現に感動しつつ、雨戸自体が無くなりつつある事に気付いたりするが、それでも楽しい。今は生活から消えつつあるモノや表現が幾つも出てくる。作為的に仕組まれているのは明白だ。ただ、だからこそ非現実的な設定やキャラクターが出てくるSFよりも非現実的で、憧れる世界のようにも思えてくる。旅行に出掛けた主人公と先生が民宿の床で二人で寄り添う。浴衣ごしに胸を触る先生と主人公は、ただそのまま眠りについてしまう。「ツキコさんは、いい胸をしている」と言いながら。そんな胸締め付けられるようなやり取りが、風情があり、なんとも言えない感慨がある。

強いて上げれば、かつてあったかもしれない恋情の風情をディフォルメしたものとでも言うのだろうか?かつての恩師とOLと言う、ちょっと奇抜な設定は、こういった「かつてあった風情」を描くために必然だった設定なのかもしれない。今の若者の恋愛で、浴衣ごしに胸を触り・・・、等という設定自体、ギャグにしかなり得ない。

センセイと主人公の会話は、微妙なジェネレーションギャップを含みつつ、淡々と続く。言葉も相手の気持ちも、周囲の人々との関係や、視線も全てを慈しむように続く。その繊細なやり取り自体、前時代的とも言えるが、それでも感動を誘い、伝わってくるものがある。先生が用心深く繰り出す言葉の一言一言に無防備に反応し、次第に理解し飲み込んでいく主人公のあり方は、作者である川上弘美が、この作品を紡いでいく姿に重なる。失った何かなどと言うと陳腐になるが、人と人がつながる上での繊細な配慮や心配りや、障害を越えていく幾つもの徒労。実は、これこそが大変でもあり、楽しい事でもあることを改めて感じさせてくれた。

ラストは、意外というよりは唐突にやってくる。さほど飾った表現もなく、さほど意外なラストでもない。ただ、しっかりとした人物描写と主人公とのつながりが、作品を通して体に染み込んでいるが為に、そのラストに涙が止まらなくなる。決して哀しいだけではない、豊かな感情が湧いてくる。ラストは実際に読んでみなければ感じることが出来ないラストだ。最後の数頁、じわりと涙がこみ上げて来て困った。飄々と閉じられる終幕に、そのさりげなさが一層涙を誘う。300頁弱、主人公とセンセイと共に時を過ごしたものだけが共有出来る静かなドラマティックさが印象的な一作だ。