|
「宮崎駿に、こんな話を書かせちゃいけない」 と言いたくなる名作〜「千と千尋の神隠し」を観て、思った随分と煩わしいお話〜 |
|
これだけ緻密に書かれた「今の日本」を切り取った、ある意味不愉快な「昔話」が、ヒットするなんて、良いか悪いかどっちかだなあ、というのが見終わった時の感想でした。宮崎駿が、引退宣言まで撤回して作らなければならなかった作品とは、こんな作品だったのか、と思わず唸りました。極上のエンターテイメント。同時に辛辣な批評精神。僕にとっては極上の娯楽作品でした。 あの「となりのトトロ」で牧歌的な良き日本の風景を切り取った人が、ここまで日本を揶揄する話を巧妙に書かなければならない現実。そして、根底に横たわるものを目を逸らさずに見据えたある意味厳しい作品が、「タイタニック」以上の観客動員に手を掛けている現実が、ここまで大ヒットしている事が、ちょっと信じられませんでした。 この映画を見て、少し僕はどんよりしました。勿論、物語自体は楽しくて、想像力をフル稼働させる、実に理想的なエンタテイメントだったのです。その凄さに圧倒させられるのと同時に、その事自体が、逆に何かをぼやけさせているからこそ、ここまでの大ヒットになったのではないか、と思ったのです。 村上龍(実は、僕はこの人が余り好きではありません)が言っていた「世の中は、最早文学など必要としていないのかもしれない。文学がしてきた実に回りくどい物言いは、それを把握する受け手が存在しないとしたら、もっと直截的な言葉を使って文章を書かなければ意味がないのではないか?今となっては、文学的表現なんて知的遊戯の一つにすぎないかもしれない」というような事を言っていたのです。そして、本来芸術とは楽しみながら、そういう事を描ける、もっとも刺激的で楽しいメディアだと思っていた僕にとってこの発言は何となく頷ける、でも、とても悲しい事に思えました。 で、村上龍に習って、これは本当に野暮だけれども直截的に僕が感じた事を書こうと思っています。野暮ったくて読めないかもしれないのは覚悟の上です。ただ、こんな見方がある程度に読みたい人は読んで下さい。さあ、野暮ったくなります。 先ず導入部分。バブルの時に建てられたテーマパークの残骸(と千尋の父が言う)を通って抜けた所にある、もう一つの世界の温泉(神が集まるという)が舞台となる事が、既に今の日本を描いている、と分かる時点から、ちょっと憂鬱でした。 そこが温泉であり、ぬくぬくとお湯に入り、飯を喰らい、快楽に溺れる場所としての温泉として描かれている所がミソ。中にいる神様達は、ほぼ肥満体であり、言葉を交わしません。ただ闇雲に食べ物を喰らい、湯に浸かり、大騒ぎをしている。 その上に住んでいるのが湯婆で、これはアメリカを示唆している、もしくは資本主義経済と言えるかもしれません。彼女が千尋と契約する事を第一に考えている事。来るものから金をふんだくる事を第一としている事。空を飛んで街を見張っている事(これは人工衛星と称したスパイ衛生とか、今回の戦争で明るみになった戦闘機からの映像とかの比喩として読んでも面白いですね)。そして、千尋の親(先祖)を豚に変えてしまう事などからも分かるかもしれません(日本を飽食の国に変えた?)。つまりは湯婆は両親(先祖、もしくは日本の古の文化を?)を千尋から奪うのです。 そして、千尋は湯婆と契約を結び温泉(日本)で働き始めます。 初めにやってくる腐れ神をあてがわれるのも読みようによっては色々読める。例えばマクドナルドとか、環境によろしくない洗剤だとか、要は本当なら害のあるものを金が入るからと言って受け入れるという事。そして、実は、人々が捨てたごみで塗り固められた尊い神だという落ちも、人々が手に入れる事で失ったり見失った大事なものという読み方も出来る(もしくは環境破壊?)。そして、実は尊い(非常に良い)顧客を接待出来た手柄を挙げる事で、初めて千尋は湯婆から認められるというのも実に面白い物語の展開です。 契約を交わし、成果を挙げた者だけが受け入れられる。しかし、主人公であり、価値観が自由な千尋は、無闇に喜びません。そして、尊い神から与えられた汚らしく、まずい団子を大事に持ち続けるのです。この団子が後半重要な小道具になっているのも味噌です。 さて、ここで引っかかるのは「働かない者は入れない」と言われていた千尋が、実は映画全編を通して、資本主義経済上で考えるならば「ほぼ働いていない」というのが興味深い。ストーリーを飛ばしますが、千尋が映画全編でやった事を列挙しましょう。「尊い神を十二分に接待した」「厄介者である顔無しを旅館?に入れた」「金をばらまく顔無しの差し出す報酬を拒否して怒らせた」「顔無しを暴れさせて旅館?をめちゃめちゃにした」「主人の言いつけを無視して遠くへ行ってしまった」「契約があるのに仕事を辞めた」唯一、雇用主である湯婆の利益になったのは、実は初めの一つだけなのです。更に付け加えるならば「湯婆の敵である双子の妹を招き入れる」わ、「傷ついた龍になったハクを助ける為に旅館に招き入れて器物破損」までしている始末。千尋は資本主義経済に悉く背く行動をしている。 ただ、千尋は経済上ではなく、道徳を遵守しているのです。「人を助ける」「引きこもり状態の湯婆の息子?の坊に説教をし外に連れ出す」「意味不明な金銭を受け取らない」。 さて、ここで坊、並びに顔無しの役回りが問題になります。明らかに坊と顔無しは、資本主義経済、バブルが生み出した奇形という捉え方が出来るでしょう。顔無しは、金を与える事で世間から受け入れられます。それに群がる従業員達は、法外な利益を手に入れます。顔無しとは、観ている観客達、もしくは、不特定多数の人々です。金が出る所に群がる。大人(これも観客)である従業員達は金を出すという事だけで食べ物も、サービスも分別なしで与えていきます。そして、その従業員の幾人かは、顔無しに飲み込まれる。つまりは、本来奇形の筈の顔無しも、せっせと労働を続け、金銭に群がる労働者も同一化してしまった。 坊も一緒です。湯婆が分別なしに物を与える事で、立つこと(自立?)も、外へ出て現実を見つめる事もなく肥満化し、泣き叫び、食べるだけの存在に成り下がっているのです。 その二つのキャラクターが、千尋を慕うようになるのが、この作品の希望です。千尋は、本来お客である顔無しには要求拒否、坊には説教を垂れます。それは子供に対して、本当の事を言うという辛辣な優しさで接しているという事かもしれません。ここが大事な所です。決して、要求を飲み込むだけではない、本来正しいと思える事をする、という行動のあり方。千尋は、顔無しを受け入れる訳でもなく、拒否するでもない。ただ、後からついて来る分には拒まないのです。 さて、湯婆の双子の妹が、沼の底(随分憂鬱な名前ですね)という駅に住んでいる事。そして、森の奥でひっそりと住んでいて、質素な(清貧な?)生活をしているのも象徴的です。もしくは、この婆がハクを攻撃するのに使ったものが、平安時代の式神(陰陽道参照)のような和紙で出来たものである事にも失われた和を感じるかもしれません。自分で自分の事をやり、そして、来た者を受け入れている。湯婆の事を「どん臭い」と言い切っているのも面白い。彼女は裕福に装飾品を身に付ける湯婆を「間違っている」とか「愚か」と言うのではなく「どん臭い」と言い切るのです。彼女が、千尋に与えるのは「皆で紡いだ糸で作った髪結い」です。大事なものだと言い切ります。僕は、ここでウルッときました。 顔無しも、坊も、そして千尋も慕うのは、大人の人間なのです。拒否するのでもなく、肯定するのでもない。ニュートラルな、ごく当たり前の事実を彼らに伝える人物(この物語上での真の大人)。手のひらから作り出す金で、人にもてなしてもらう顔無しが、接待する人間は冷酷に飲み込み、坊は何でも与えてくれる湯婆の言うことを実質的には聞いていない。逆に否定、もしくは命令する人間には従うのは、子供と大人の正しい関係を本来は望んでいるという事なのかもしれません。(千尋が与えた糞まずい団子を食べて、総てを吐き出す顔無しのエピソードからは『良薬は口に苦し』なんてシンプルな教訓も見え隠れしますね) 顔無し、坊が子供であり、千尋と湯婆の妹を大人として関係性を成り立たせている所が露骨過ぎると言えば露骨過ぎるのかもしれません。でも、此処が宮崎監督が、ストレートに描いた関係性なのかもしれない。そこにこそ、今の日本で失われた人間関係の根本がある事を示唆していると思いました。 最後に、資本主義経済上、労働を殆どしていなかった筈の千尋の労働が、実は価値あるものになる事も「昔話」らしい教訓です。顔無しが渡した金は、実は泥だったので、あれ以上食事を出さなかったのは旅館の損害を食い止めました。それに、無闇な職場からの脱走は坊の自立を促し、雇い主である湯婆に大きな利益をもたらしたとも言えます。一見、無謀な行動が、実は有益な行動となっているのは宮崎駿が意図したラストでしょう。 どうです。野暮ったいでしょう。「千と千尋の神隠し」は、こんなに堅物でつまらない映画だったっけ?と観た人は思ったかもしれません。恐らく多くの人がそうでしょう。書いておいて何ですが、僕は、観ながら十分楽しみました。そして、凄いなあ、と思うと同時に、何故か責められている、とか非難されているという気がしてならなかったのです。見終わって、牛が草を咀嚼するように、ストーリーを反芻すると、これだけの事柄が綺麗に合致(?と僕は思うけれどなあ)するが、更に面白かった。そこに宮崎駿が伝えたかった事柄が横たわっていると思えたのです。 さて、最後ですが作家というのは、自らを投影した登場人物を作ると言います。強いて宮崎監督が、どれなのかと言えば、地下でせっせと仕事をする窯爺だろうと思ったのです。人の見えない所でせっせと働き、手を何本も使って、人々に元気を与える薬湯を送り続ける人物。彼こそ、宮崎駿だろうと。傷ついたハクにそっと毛布を掛ける、そんな優しさを持つ人物こそ宮崎監督自身の理想像ではないか?直接的には何もしない。だけれども元気の源はここにある。 素晴らしいスタンスを心得ているアーティストなんだなあ、と敬意を感じずにはいられなかったのです。そこに思いが辿り着いた時、僕は「良い映画だなあ」と心底思いました。名作「グッド・モーニング・バビロン!」が、尽きない映画への愛情をラストで突きつけたように、この映画も宮崎駿監督の愛が溢れているのです。 |