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こんな話があってもいい 〜クリント・イーストウッド監督「スペース・カウボーイズ」に寄せて〜 | |
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僕が、その劇的さゆえに身を震わせる程感動した演劇。そして、最も再演を希望する作品は、つかこうへいの「飛龍伝」である。 主演には、3度の上演で富田靖子、牧瀬里穂、石田ひかり。それに共演するは、今やテレビでも活躍する筧利夫が演じている。 全学連のリーダーに担ぎ挙げられた上京してきた女学生と、それに敵対する機動隊の隊長の禁じられた恋。 あれだけ涙をボロボロと流した作品は珍しい。 この作品が上演された時、つか自身が、こういう事を言っていた。 「学生運動に参加した団塊の世代に言いたい。私達は、あの熱い時代を駆け抜けていったと胸を張るべきだと」 確か、そのような事を言っていたと思う。 確かに、70年安保闘争を通して、人々は大きな敗北感を感じざる得なかった。その大きな敗北感「所詮権力に立ち向かっても無駄だ」と言った感慨が、後にしらけ世代を生んだとか良く言われている。そして、当の団塊の世代は、おし黙ってしまったと。 ただ、敗北感を引き継いで、何もしなかった連中より、敗北した世代はみっともないのか?むしろ、男として、女として命を懸けて何かを出来た時代を過ごした事を誇りに思うべきだ、と言ったつかこうへいは、めちゃめちゃ格好よく見えたものだ。 「飛龍伝」は正に、そういう人達に向けたオマージュだった。 男が男として立てた時代。女が女として立てた時代。その時代に、運動の敗北で影に葬り、または、隠れてしまった人達に対して、向けた応援歌だった。 懐古趣味ではない感動が確かに「飛龍伝」にはあったのだ。 ☆ 現在ロードショー中のクリントイーストウッド主演、監督作品「スペース・カウボーイ」を観ていて「飛龍伝」を思い出した。 現役を引退した、かつての宇宙飛行士候補者だった4人が、ロシアの衛星の故障で召集をかけられ、夢にまで見た宇宙へ旅立つ話。ちょっと「アルマゲドン」を彷彿とさせるが、この作品は、ああ言ったバカ映画とは違う。 イーストウッドの作品としては荒い映画かもしれない。特撮とかは優れているし、ユーモアもたっぷりあって好感が持てる。老宇宙飛行士それぞれのキャラも立っていて、ちょっとしたラブストーリーも、なかなか小粋な感じだ。ただ、イーストウッドの作品の魅力である叙情性も、あの静謐とした緊張感もないのは、ちょっと寂しい気はする。 しかし、この作品は、ファンタジーとして素晴らしいと思うのだ。 もう、ラストなんか「う〜ん、出来すぎ」ってラスト。とどめの「ザ・ヴォイス」ことフランクシナトラの「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」で締めるなんざ、「いやあ、こっちが照れちゃうよ」てな位の展開だ。 でも、全部許せるのは、イーストウッド他の老宇宙飛行士達の、俺達は長い間頑張って来たし、俺達の時代には俺達の時代の誇りがある、という自信がみなぎっているからだ。 ロシアの衛星のシステムが、当時の古い機材の為に、現在のエンジニアでは手に負えない設定自体に、無理矢理ではなく、イーストウッドの気概を感じるのは思い込みすぎ? とにかく、彼らが恐ろしい迄の大活躍を見せる事も、むしろ、老年の「まだまだ若いじゃて」的な主張ではなく、「俺達には俺達の熱い時代があったんだ」という気概に他ならない。その主張に賛同するか、どうかが、この映画の評価の分かれ目かも。 自分達の世代の誇りを、胸を張って提示している、その気概こそが、この映画のテーマだと、そう思った。 きっと今の日本には、こう言ったイーストウッドのような誇りを誇示するオヤジがいないのが、何か哀しい気がする。良いじゃん、開き直ればと、見ていて思った。 だから、この映画のヒーローとなるトミー・リー・ジョーンズが、信じられないようなラストシーンで登場しても「そんな話があっても良い」と思えたのだ。 つかこうへいの「飛龍伝」で投げ掛けられたものも、「スペース・カウボーイ」で投げ掛けられているものも根底は一緒だと思う。 ただ、そう言った主張が、これだけのスケールで作れるアメリカは、やっぱり夢見るだけの余裕があるなあ、と羨ましく思う。 ちょっとした壮快感を感じる映画だった事は確かだ。 |