夏休みとフリッパーズ

 夏休みの話を、こんな冬に考えていた。夏休みは特別な存在だと思いませんか?熱すぎる直射日光が余りにも眩しすぎて大人の私には、既に幻想の世界です。まるで白昼夢のような、一瞬で消えてしまいそうな、そんなモノになってしまいました。

 しかしながら、夏休みは、それほど素敵だったのだろうか?と最近考えるのです。時間を持て余すような午前中のダラダラとした時間。それに戯れに見る「あなたの知らない世界」。親しい友達の不在を知って、世界には僕が一人でいるんじゃないかと感じる孤独感。真剣に孤独を感じたのは、夏休みが初めてだったのではないか、と最近感じるのです。あの瞬間の耐えきれない痛みは、今でも残っています。

 ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みは もう終わり

 フリッパーズが感傷的に歌った、この歌は、恐らく小沢と小山田の二人がフリッパーズという愉快な時に楔を打ちつける決意を、奇跡的なまでの美しさで歌い上げた傑作だと思います。彼らの夏休みは、愉快なだけだったのだろうか?それとも・・・。と思うのです。確信犯的傑作アルバム「ヘッド博士の世界塔」は、日本のロックのターニングポイントとして歴史に残ると思います。元有頂天のケラはフリッパーズを聴いて「こんな事をして良かったんだ」とショックを受けたそうです。

 しかし、あの二人は「こんなこと」をしなければいけない状況に追いつめられていたのではないか?と思うのです。

 夏休みの最後の日、宿題の残りに途方に暮れた時、今まで禁じ手としていたはずの終わりの方に付いている解答を夢中になって写した瞬間。あの時に自分の中にある悪を感じて、自嘲的に微笑む瞬間。そんなものを「ヘッド博士」には感じるのです。

 少年のユーモアと残酷さと美しさを描かせると天下一品の作家にスチュアートダイベックと言う人がいます。その人の「右翼手の死」と言う作品を読んだ時、僕はフリッパーズの「ドルフィンソング」を思い出しました。

 「そして、我々は帰路についた。だがもう遅くなってしまっていた。もうすぐ夕食の時間だった。もうじき夏休みも終わりだった。大学とか、仕事とか、身を固めて家族を持つとか、ほかのことをする時間が迫っていた。」(スチュアートダイベック「右翼手の死」柴田元幸訳)

 フリッパーズの二人が解散を決めたとき、こんな気持ちだったのではないか?と思ったのです。楽しい時間の終わりを、ふとした瞬間に感じてしまった。その瞬間は、本人にとっては余りにも残酷ではあるけれど、それだからこそ美しい。そして、その先の事を考える「あざとさ」を自分の中に見たときの不思議な罪悪感と、自嘲的な感覚。この感覚こそ「ヘッド博士」の中核にあるような気がしてならないのです。それはドリルの解答を写した時に感じる自嘲的な罪悪感に似ている。少年と大人の狭間の時間。それこそが「ヘッド博士」が奇跡的に描いた世界だったのでしょう。

 その後、フリッパーズはツアーも中止しました。ポスターも会場も全てそろっていた幻のラストツアーは、二人の自嘲的な悪意によってかき消されたのだと思います。そして、それら全てを含んでフリッパーズは日本のロックを確実に変えていった、と僕は思うのです。