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「おれは鉄兵」 〜不朽の名作「あしたのジョー」の影に隠れた少年漫画の金字塔〜 |
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「おれは鉄平」は、名作「あしたのジョー」を完成させたちばてつやが、今度は純粋な少年マンガを書きたいと思って書いたという。つまり、「あしたのジョー」は、純然たる少年マンガとして書かれたものではなく、初めから青年マンガとして書かれたと考えた方が良いのかもしれない。 矢吹丈を高度成長期の日本と捉えると、あのマンガがすっきり理解出来るというのは、よく聞かれる説で、ドヤ街から始り、終生のライバルとの対決、海外の選手との死闘、そして最後には豊かな家庭を持つ強者、ホセ・メンドーサとの闘いに至る。常に闘う相手を探し、苦悶しながらも徐々に豊かになる丈の姿は、なるほど高度成長期の日本が抱えていた葛藤を表現していたのかもしれない。豊かとは何か?ハングリー精神のみで闘って来た矢吹が「何故闘うのか?」という疑問を突き付けられたり、幸せな家庭生活を営むホセ・メンドーサの姿を見て戸惑ったりするのは、実に象徴的で、戦後日本の企業戦士を描いたという説は、ある種の説得力を持つ。今の日本で多くの大人に「何故働くのか?」と問えば、丈と同じ反応を示すのかもしれないなどと夢想するのだが、これはまた別の話である。 さて、話を戻して「おれは鉄兵」である。「あしたのジョー」が神格化するに至って、直後の作品となる、このマンガは余り評価どころか話題にも上る事が少ないが、ちばてつやを知るものにとっては、むしろジョーの方が特殊な作品で、「おれは鉄兵」の方がちばてつやらしいと思う人の方が多いのではないか? 私が初めて、このマンガに接したのは小学5年の時。近所の町道場で、それこそ剣道を習っている時だった事もあって、同級生の井上君に貸して貰った時は、貪るように読み、続きを楽しみにしたのを覚えている。 父親と共に山奥で育ち、礼儀も常識も知らいし、勉強も徹底的に出来ないが、体力と根性と頭の回転だけは非常に良い鉄兵が、実は大金持ちの子息で、名門学校に入学し、剣道にのめり込むというストーリーだ。 ただ、このマンガが特殊なのは、いわゆるスポ根ものとは違い、ユニークに努力していく事で、当時のスポ根ものにありがちなウェット感がなく。小粋な海外のコメディのように爽快感のある笑いに満ちた作品に仕上がっている。 例えば、間近に迫った対抗試合の選抜も兼ねた剣道部の強化合宿に出向き、鉄兵率いる下級生と対立し、代表の座を争う先輩達の猛烈なしごきを受けながらも「先輩達がしごきに現を抜かしている間に、俺達は着実に実力とスタミナをつける事が出来るのだから、明日はどんな風に先輩を怒らせるか考えてるんだ」なんて、ちょっと発想の転換というか、ビジネス書にでも乗せても良いくらいのポジティブシンキングで読者を魅了する。 この作品の魅力は、鉄兵が上昇志向を持ちながらも、日本特有のウェット感に陥る事なくサラリとステップアップしていく痛快な展開にあると言って良い。興味深いのは、この作品は「あしたのジョー」と同じで、一段一段ステップを駆け上がるサクセスストーリーという同じ構造を持っている事だ。「あしたのジョー」のラストは、丈の生死が極めて曖昧に描かれているが、このラストについて原作者の梶原一騎とぶつかったらしく、死をラストに置いた梶原に、ちばは徹底的に刃向かったが為に、ああいった曖昧なラストになったという。ちばてつやらしいエピソードであり、「少年漫画はかくあるべし」というちばの梶原に対する「アンサーソング」ならぬ「アンサーコミック」として「おれは鉄兵」があったのかもしれない。などと思うと、増々、この作品は興味深くなるのだ。少年マンガに現実を描く必要はない、ありったけの夢と希望があれば良い、というちばてつやの信念が、この作品には詰まっている気がするのだ。 ちばてつやが言う「純粋な少年マンガ」というのが、どんな物だったかは、今となっては分からないが、夢、希望、努力など、ありていに言えば少年・少女達の専売特許とも言える要素を入れながらも、決して説教臭くならずに、それを伝えているという意味では、このマンガは突出したものがないか?齢30を過ぎて尚、このマンガを読むと、無性に何かに打ち込みたくなる。 今のマンガに足りないのは、こういった素朴な要素かもしれない。 また、物語の失墜を嘆くものが多いが、何故今の日本に物語が成立し難いのか?もしくは、根性ものとなると水戸黄門と代わり映えのしない我慢した挙句の本当は凄い人だった的な展開の「ツッパリもの」になってしまうのか、不思議でならないのだが、改めてこの作品を読むと、なんとなくそんな疑問の答が見えて来る。 山奥から降りて来た鉄兵という主人公は、まるでカスパー・ハウザーのように、名門エリート校の学生達の価値観を揺さぶる。「ルールがない事に喜んでみたり」「剣道の強豪校の実力を目の当たりにしても、めげる事なく勝機を伺ってみたり」といった行動の一つ一つが、周囲の人間をことある毎に揺さぶり続ける。 それを拒否する者、畏怖する者、否定する者。反応は多種多様ではあるが、それぞれが鉄兵という他者を目の当たりにして、自らを顧みて何かしらの激しい反応を示す。 ここに物語が生まれているのだ。 物語の喪失というのは、日本から他者が減ってきているという事にちがいない。いわゆる「平等」に重きを置いた教育は、他者を排除し、全ての人を平等という名の無個性に陥らせているという気がしてならない。いわゆる落ちこぼれを無いものにし、目に見える落ちこぼれらしきは、不良ばかり。愛すべき落ちこぼれが希望を持てるような隙間が消えているのかもしれない。 「おれは鉄兵」は、そんな見せ掛けだけの平等を軽く否定して見せる。全く価値観相容れない主人公が暴れ回る事で、周囲の者達は変化し進歩する。そこに物語が生まれているように思える。 ずぶの素人である鉄兵が、ある事件をきっかけに剣道を始め、盲滅法な努力と爽やかな努力と知恵を持ってステップアップしていく姿は、痛快そのものである。 確かにヌーベルヴァ−グかアメリカンニューシネマ的な衝撃的なラストと巧みな展開で、今をもって輝きを失う事のない「あしたのジョー」は名作の名に恥じない傑作であるが、「おれは鉄兵」の王道少年マンガとしての魅力も今だからこそ評価されるべき、というか、全ての少年達の必読書にしても良いと思うのは過大評価だろうか? 「おれは鉄兵」は、今や出涸らしのお茶以上に使い古された「夢を見、希望を持ち、進み続ける面白さや魅力」を伝える、ちばてつやが全精力を傾けて描き切った愛すべき作品だと断言出来る。 |