僕が一人暮らしをしている所の近くに、中華料理屋が出来た。大通りから、少し入ったところにあって、場所的にも少し目立たないところにある。店内は、たぶん4.50坪と言った感じである。テーブルの数は4人掛けが4つと、9人掛けの丸テーブルが2つ。こじんまりとしていて、家庭的な感じのお店である。
ここが、非常に良い中華料理屋なのだ。営業は11時まで。夜も定食をやっていて、一人暮らしの身としては、非常に助かる。値段もリーズナブルな上に、牛肉のウマ煮とか、八宝菜とか、エビチリといった定食メニューが嬉しい。
そして、何よりもうまいのだ。
たぶん、中国人家族で経営しているらしく、少し変わったイントネイションの日本語はもちろん、時として中国語も聞こえてくる。
夜遅くなったりすると、ここで食事をすませることが多くなった。夜遅くても、結構客がいるし、経営自体は良好なのだろうと思いたい。しかし、よくよく見ると、ここの店員の人数は少し多すぎるようなのだ。厨房にいるコックさんにしても、僕が見ただけで、4人はいるようだ。それに、接客をする女性も4人はいて、常に2人は店にいる。果たして、これで経営が成り立っているのだろうか。余計な事ではあるが、少し心配してしまう。
そして、美味しい上に、リーズナブルすぎる値段も心配の種だ。八宝菜など食べてみると、エビも、イカも、肉もきっちり入っている。色々な種類の野菜だって、しっかり入っていて本格的なのだ。それで780円。ザーサイのみじん切りと、スープと、杏仁豆腐が小皿でついてくる。
食べていると、満足感と同時に、更に余計な不安感が襲ってくる。大丈夫なのだろうか、この店は、と。実直そうな中国人の店員達の笑顔がますます不安をあおるのだ。この人たちは、のんびりしすぎなのではないだろうか。日本の社会を少し甘く見てないか。中国ののんびりとした所とは、この生き馬の目を抜く大都会東京は違うんだよ、と考えてしまう。
ましてや、夜も更けて、お客もまばらになってきた頃に店員が気に入っている中国の歌謡曲らしい曲をかけながら、ぼんやりと立っている姿なんか見ると、ついつい「俺だけでも100円余計に払いましょうか」と言いたくなるくらい、妙な罪悪感と不安感にかられる。
あまりにも良い店というのも困りものである。
そんな僕の心配を余所に、店員達は非常に楽しそうである。楽しそうに中華料理を運んでくるおばさん。かなり流暢な日本語を駆使して、レジうちをする少し若めの奥さん(と勝手に思っている)。ぺらぺらと話しながら中華鍋をガシャガシャと動かしている太った料理人。彼らは、中華料理店を楽しんでいる。それは、とても見ていて気持ちが良いのだ。
最近話題のフィッシュマンズは、方法論で語られることが多い。世界の何処を探してもないような音楽。不可思議な音で魅了する最新型の音楽。ダブか、テクノか、アンビエントか?
もちろん、僕も初めはそうだった。「なんだ?この音は」と言う驚きから入っていった。ダブでもない、アンビエントでもない、とにかくフィッシュマンズにしか出せない音に、すっかり魅了された。密度の濃い、何かビジュアル的なものを喚起させる音づくり。いちいちつぼにはまった演奏。(ここだ!って時に絶妙のギターが入ったりする)とにかく、軽いトランス状態にひきずり込まされるような音づくりに感激しまくった。
しかし、新しく出たライブリミックス盤「八月の現状」を聴いていて、少し見方が変わった。僕は、これを出張先の小さなレコード屋で購入して、地方の暗闇の中を駆け抜ける特急列車の中で、何をするでもなく聴いていた。真っ暗な中で時々辺りを照らす街灯や、何かの看板や、車のライトが通り過ぎていく電車の窓を見ながら耳に入ってくるフィッシュマンズの音は確実に僕を安らかにさせてくれた。「ナイトクルージング」の、か細いギターソロが始まると、不思議と、目の前に広がる風景と歌がぴったりときたのだ。まるで、目の前の光景のためのBGMとしてフィッシュマンズが、その歌を作ったようにさえ思えた。それは、何も僕が見た光景に限った事じゃないと思う。
フィッシュマンズの音楽は、とにかく色々なものを吸収していく。例えば、僕の部屋に心地よい涼しさをもたらしてくれる風鈴。庭に咲いた小さな花や雑草。前の通りを歩く人たちのたわいもない会話。全てが、フィッシュマンズの音楽がかかっていると時は、フィッシュマンズの「うた」の一部になってしまう。
同じような現象がフィッシュマンズの野音では起きる。 都会の真ん中にぽかっと空いた大きな緑の空間。その中で聴くフィッシュマンズは単なる音楽ではない。辺りの虫の鳴き声や、吹き抜ける風、はたまた木々の間から見える夕焼け空さえフィッシュマンズの音になる。その自然現象との一体感をひっくるめてフィッシュマンズの「うた」になる。
何故、フィッシュマンズの歌は、そのような力を持つのだろう?
フィッシュマンズは「今」を、飾りも、悲観的な脚色もせずに、フィッシュマンズなりの誠実さで忠実に切り取っているからではないだろうか?ごく平凡な日常を切り取った音。それは、フィッシュマンズが感じている日常の時間感覚と視点に他ならないと思う。以前、聞いた話ではあるが、佐藤伸治は下北沢の路上に座ってボーっとしていることがあったと言う。まばらに通り過ぎていく人々。耳に届く知らない人達の会話。
忙しく行き交う人達とは、全く異なった時間軸で、全く異なった光景を佐藤伸治は下北の路上で見ていたように思う。それこそが、フィッシュマンズと作り上げる音の根幹にあるように思えてならない。
だから、僕達は、その時間感覚と視点に驚く。音として表現された、圧倒的に緩やかな時間感覚。目の前にある光景を忠実に受け取り、それを美しく感じる恐ろしい程の肯定的な視点。僕らが感じている生き急いでいるような悲観的感覚からは、数億光年離れた、穏やかなフィッシュマンズの感覚を仮想体験して、その落差に驚くのだ。
そして、フィッシュマンズを聞いている時に、その感覚が少しではあるが、体の中に芽生えてくる。そして、今まで感じたことがないような時間感覚と視点で周囲のものと接しているのだろう。
フィッシュマンズを聴くことは、同時に、フィッシュマンズの驚くべき五感能力を仮想体験することでもあり、それは同時に、今を最大限に感じる体験でもある。
先日、日曜日の朝に、例の中華料理屋の前を通りかかった。中華料理屋は、未だ開いていなかった。ひっそりとした店の、ちょっとお洒落な木製の扉には、小さな木の板が取っ手の所にかかっていた。その板には、少し稚拙な字で、こう書いてあった。
「まだだよ」
中華料理屋の人たちは、きっとフィッシュマンズみたいな感覚を自然と持っているのだろう。
不安にならなければならないのは、きっと僕の方なのだ。