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ロックが眠っている間に・・・ 〜音楽の地殻変動。吟遊詩人に一種の決別宣言、その名もTPC〜 |
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言葉が信用出来ない位に汚れてしまったのは何時頃だったのだろう?振り返ってみると良く分からないが、これは別に個人的な見解ではなくて世界中に散らばった感覚かもしれない。何かを言葉で表現する事の空しさ。重ねれば重ねる程に標的から離れていく無力感を感じた人は多いのではないかと思う。 そう思うと日本の音楽チャートなど呑気なもので、未だインストゥルメンタルがチャートに上る事がないというのは驚くべき事かもしれない。未だに「君が居れば」とか「一人で居ると寂しさに」とかケミストリー状態なのは、ある種世界から遅れ過ぎている。 9・11。あの事件を23人の思想家が振り返るという本があって、サルマン・ラシュディやジャック・デリダなど、錚々たる面々が言葉であの事件を語るのだが、これが新たな発見があると同時に空しさを引き起こしている。言葉で世界は変わらない。当然、音楽で世界が変わるなどと言ってるのは更に重傷で、平和ジャンキーの末期的症状と言って良いだろう。 でもって、言葉が雄弁ではないと気付いたのは、フィッシュマンズが初めじゃないかと思ったりするのである。佐藤伸治は「歌詞を書くのが下手だから」と広言していた。名曲「ロングシーズン」も歌詞が揺るぎないどころか、音と共に一緒に揺らいじゃっていたりするのが衝撃だったのかもしれない。決して万人受けする声ではない佐藤の歌声は、良い意味で演奏の中に埋もれていく。「僕ら半分夢の中」とか「風邪薬にやられちまったみたいな」と言った刺激的なフレーズは演奏がヒートアップするに連れて、サウンドの中に埋没し、意味を失って行った気がした。 むしろ多くを語っているのは演奏である。フェイドインのタイミングや楽器の音色。それに数々の楽器が重なり合って行って一つのうねりになっていく瞬間。この音による快感こそが、聴くものに強烈なイメージと漠然としているが故に包容力のあるメッセージとなっている事に知らず知らず気付いた人は多いんじゃないだろうか?断定を一切しない大らかな表現。これこそがインストゥルメンタルの中毒性の気がする。 ともすれば歌が煩わしくなり始めた昨今。聴く物と言えば、かなりインスト率が高い。レイ・ハラカミ、DJ・シャドウ、ニティン・サウニー、コルトレーン、渋さ、wunder、MMW、ギャラクティック。これらはインストであるだけでなく、ある種のイメージを激しく喚起するという意味で共通している。ロックだとかJAZZだとかというジャンルではなくて、イメージの誘発性が高いという共通項。下手をすれば歌物以上に雄弁に何かを表現している物ばかりである。 これらの音楽がメインストリームに出てくるのも、そう遠くはない気が今はしている。表現手段としての言葉が、「超」とか「激」という修飾語を付けなければ激しい感情を表現出来ないから言葉を一生懸命重ね過剰になっているのが現在だとしたら、その先は無言や隙間に依存して行くしかないのかもしれない。音楽に於いて、僕の感性はそういった不感症めいた所まで来ていると言われても否定する気はない。むしろ、何も言わない事、何かを断言しない事が、あたかも神様と同じように聴く物に漠然としたイメージだけを与え刺激し続けている気がしてならない。 9月に行われるジャムバンド大集合のイベント「TPC」は、そういった高いイメージ誘発性を持ったバンドが集合するイベントと言った方が早いかもしれない。M・デイヴィスのバックも務めたエルメート・パスコアールやMMW、サン・ラアーケストラ、スリップ。そして日本からはレイ・ハラカミやROVOの勝井&山本のユニットやボアダムズ。それにUAである。勿論MMWやスリップも楽しみだが、それ以上に興味が湧くのはUAだ。日本の歌い手の中では頭一つも二つも抜きん出た存在である彼女が、こういった歌以降のシーンに注目したイベントで、どんなパフォーマンスを見せるのか?全身楽器となって、どんな表現を見せるのか楽しみでならない。テクノもロックもJAZZもあったもんじゃない。このイベント自体が、言葉を突き抜けたポストロックの可能性を見せてくれそうな予感がしている。ロックは、あらゆる方面から包囲網を敷かれて身動きが出来なくなっていて可哀想に思えて来るのである。冗談ではなくて。 |