|
紅テントが熱かった「あの時代」。決して憧れる事なく、僕らは僕らの時代に誇るものを 渋さ知らズ、4月27日上野水上音楽堂に参上、そのシンクロシニティを記念して |
|
ネットが縁で、上野水上音楽堂で行われるイベント「自由のための大さわぎ」。渋さ知らズのライブの紹介文を掲載させて貰う事になった。なんだか嬉しいものだが、この話がきた時、僕は「紅テント風雲録」という本を読んでいた。ちょっとしたシンクロシニティと言っても良い。 上野の水上音楽堂。 余り多くはないかもしれないし、知らない人の方が多いと思うが、ここから紅テントこと状況劇場率いる唐十朗を連想する人もいるだろう。 60年代から70年代にかけて、日本のアンダーグラウンド、小劇場演劇の先頭を突っ走った未だ語り継がれる劇団である。 親しみのない方に説明すれば、根津甚八、小林薫はこの劇団でスターになったし、状況劇場を主催していた唐、李麗仙夫妻は、大鶴羲丹の親である。 それはそれとして、70年代の初頭、水上音楽堂は、状況劇場は定期的な公演の場だった。 状況劇場は、元々がゲリラ的に至る所にテントを張り、街自体、世界自体を劇場とした。現在の渋谷のパルコのあった場所、新宿の西口公演、花園神社、はたまたバングラディッシュや最近ニュースを騒がしているパレスチナで上演をした事さえある。 唐の周囲に集まった文化人は数知れず。その独創性と常識を軽く撃ち破る想像力、アジアを常に意識し、極東日本の文化を普遍的な美へと昇華していった力量は、演劇界では伝説と言っても良い。後の小劇場演劇に大きな影響を与え、渡辺えり子や、野田秀樹、つかこうへいなどにも影響を与えていると言っても良い筈だ。 もちろん、僕は状況劇場の芝居を見た事がない。 ある一定の世代の、強い思いでもって語られた熱いエピソードの断片を掻き集めて、熱かったにちがいない芝居を夢想するのが関の山である。 荒唐無稽なエピソードと切なさと時代を軽く飛び越えるフットワークのよいストーリー展開。従来の演劇の枠組みを飛び越え、全く新しい流れを作り上げた劇団である。西洋の文化を馬鹿正直に再生する新劇の流れからも外れ、アジアであった戦後日本が持っていた独自の失いつつある文化を再構築し、時代の最先端に開けっ広げにしたのである。 唐には独特の原風景があるらしく、それは紙芝居のおやじやチクロ、魚屋にぶら下げられた蠅取り餅やバラック。そういった戦後の荒廃した東京の下町。何でもありで、混沌としながらも復興しつつあったアジア日本のダイナミックな姿であるようだ。 そんな唐のイマジネーションを刺激した場が、水上音楽堂だったという訳だ。 壕にも似た水の中から、机を背負った役者が姿を現わしたり、アジアからやってきた売春婦の象徴としての行李が浮かび上がったり、状況劇場の劇的なシーンの数々が浮かび上がったのが、「そこ」なのである。 唐の芝居の話を聞いたり読んだりするにつけ、ジャンルは違えど、渋さ知らズと近いものを感じる。 状況劇場が唱えた「特権的肉体論」は、役者の存在感を何よりのものとしたらしいし、権力をあざ笑うかのようなゲリラ的興行しかり、無闇やたらな海外進出、自由を求めさすらう姿勢といい余りにも共通点が多い。 幸か不幸か、僕らは唐の状況劇場を体感する事は出来ない。芝居とは一瞬の宴。再生不可能な「時」と「場」に支配された産物なのだから。だからこそ美しい記憶として、一層輝いて残っている。 ましてや唐のように芝居を上演する「場」に固執した場合は尚更である。時代と密着した芝居を続けた唐の70年代を体感する事は不可能なのである。 どっこい21世紀には状況劇場は勿論ないが、渋さ知らズがいる。そう捨てたものじゃない。 渋さ知らズも玉石混交、荒唐無稽、システムで捉える事など不可能な集団。これだけ情報が溢れているに関わらず、その場に立ち会わない限り、その魅力を完全に掴む事など不可能なのだ。 70年代の状況劇場を見るには、生まれて来るのが遅過ぎた僕ら。だからといって、幾ら夢見たところで、なんだか空しいばかりだ。 だからこそ、70年代の初め、多くの人々が紅テントに足しげく通ったように、21世紀の渋さ知らズが気侭に繰り広げる場へ面倒臭がらずに足を運ぶのもありだ。 東京ドームや武道館、横浜アリーナが渋さ知らズに似合うとは思えないが、むせ返る程のアジアの息吹きを乗せた状況劇場が愛した水上音楽堂とくれば、渋さ知らズに相応しい。 仮に「場」の力や思いがあるのなら、この水上音楽堂には、唐と状況劇場が残して行った残り香の一つも落ちていてもおかしくない。 そんな70年代の唐と状況劇場の「思い」と、21世紀に同じような振舞いで音楽を続ける渋さ知らズの「思い」がシンクロする瞬間。 そんな夢想でもしながら見るのも、乙じゃあないだろうか。 再生不可能な伝説や無闇やたらな伝説願望よりも、現在進行形の「何か」に、ニヤニヤしながらも目を向けている方が、やっぱり健全なのだ。 |