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倒錯する戦闘と右往左往する思考 第二次湾岸戦争が示すものと僕の困惑 |
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別に今だからどう、という訳でもないのだが、DCPRGの菊池成孔の言葉を引用したい。 「僕にとって戦争とは、反対したり推進したり、イデオロギーによってコントロールできるものではなく、ある日突如として不条理にやってきては否応もなく巻き込まれる悪夢的存在で、一度始まったらとにかく命掛けで動き回る以外にすることは何もなく、とにかく自然に収束するまではそれが続く。その間には膨大な意志と遂行、その頓挫と混乱が無秩序に繰り返され、死ぬか致命的な負傷を負うかもしくはかすり傷ひとつなく済む。そういうものだ。戦争はいつか来るだろうが、それがいつで、どうなるかなんて誰にも分らない。軍事アナリストであろうと大統領であろうと役には立たない。僕は戦争をそういうものだと思っている」 どうだろう?ちなみに、この言葉は、決して最近語られたものではなく、2001年の9月に語られた言葉である。9・11も、イラクとのすったもんだも、朝鮮の問題も、それ程までには形となって僕らの目の前に出て来る前の言葉である。 そして、僕は、戦争とはこういうものだろう、とずっと思っていたので、今回の戦争の件も、この言葉以上の事は何も起こりはしないだろう、とずっと思っていた。 ちなみに、僕がここ数カ月で最も刺激的だったのは、通勤電車の混雑の中で、サラリーマンの男が同僚に言った台詞 「あ〜あ、明日から戦争かあ」である。 これ程までに、簡潔に日本の状況を言い切った言葉を僕はニュースの中でも聴いてない。まるで出張か、また一週間の社会活動が始まるか、といった「どんより感」がショックだった。 僕は、彼を批難する気はない。むしろ、今の日本の状況を明確に体現しているという意味では、敬意さえ覚えた。 やたらと深刻な表情で、戦争について語るよりも、余程潔いと思っている。 みんな戦争を舐めてないか?いや、それは僕についても言える。 未だかつて、戦争が正義とか絶対的な平和とかを目的に起きた事があったなんて本気で信じている人がいるのだろうか?いや、もう少し言えば、第二次世界対戦以来、世界で戦争が無かった日はないという説さえあるのを知っているのだろうか? 確かに日本は、過激なまでに平和な時代を過ごして来たが、その中でさえ、オウムとのプチ宗教戦争とも言うべき時期もあった訳だし、西成での暴動だってあった。 ましてやパレスチナとイスラエルの問題だって、スロバキアだって、何処ででも戦闘は起こって来たのだ。確かに規模は違うかもしれないが、生き死にをかけた闘いは繰り返されているのだ。 ここまで来れば、戦争とは人間の業なのだ、きっと。 事実、戦争とは言え新聞テレビ週刊で垂れ流されるにつれて、その衝撃は日常へと埋没を始め、四方山話の種程度まで堕しているのが現状ではないのか? 僕は、「人間の盾」というのが、どうにも解せなかった。いや、彼等は本気で戦争を止められると思っていたのか?その勇気というか、行動はある種の賞賛に価するのかもしれないが、戦争という政治活動の最終手段において、「一市民の命」が、どこまでも尊重されると思った時点で、何かが歪んでしまっている気がしたのだ。 命をかけるなら、もっと有効な手段があって、あの緊張感の無い名前が素晴らしいキャンプデービットにでも潜り込んで反戦を唱えたって良いと思うのだがなあ。 政治というドラスティックな活動の中で、残念ながら僕ら市民の命など、ほぼ価値を持てずにある事くらいは、認識しておいた方が良い気がする。そうそう甘くはないのである。 何より戦争が始まって、先ずショックだったのは、日本がアメリカの属国だとハッキリと分かった事である。小泉首相が、その場限りの対応しかしないと言っていたが、アメリカの意志こそが日本の意志という図式は、日米安保条約の下では、ある種当然の行動であったと思うしかない。 最早独立国でもなんでもないのである。 僕にとって、この戦争が始まって感じた恐ろしさは、そこにあった。 かの地で人が死に、傷付き、様々な思惑が事態を様々な方向に向けているが、単純に政治の延長戦上の出来事にしか思えない。いや、正直、戦争が無くなれば良いとも思うが、それはないだろうと思っている。 むしろ、戦争とは茫漠とした空気みたいなもので、どこからともなく湧いてきて、一気に一帯を覆い尽くす人間が引き起こす最も強力な天災に近いものにちがいない。 巻き込まれたら最後、そこにいて、関わってしまった事を後悔し、途方に暮れるしかないのだろう。 むしろ、僕が痛感したのは、この国の在り方である。薄々は分かってはいたが、ここまでとは。僕は、戦争とは全く違う意味で、くらくらと目眩が起きそうだ。 世界の平和を憂えている場合じゃないのである。 |