とぼけてはいるけれど・・・

〜これこそ貫禄。井上陽水、フジロックに見参〜

芸術家カナリア説というのがある。炭坑で事故があるとカナリアを先に飛ばせる。カナリアが死んでいれば、その一帯は危険だと分かるのだと言う。芸術家は、僕ら一般人の数歩先を歩いているという一種の例え話である。

今年のフジロックの中で、最もロックで刺激的な人選と個人的には思っていた井上陽水は「大分涼しい季節になって来ましたが、もっと暑い国の歌を一曲」と言いながら「コーヒールンバ」を唄った。7月の終わりに素っ頓狂とも思うが、陽水は常人の数歩先を自然と歩いてるんじゃないか?と本気で思ってしまう瞬間だった。

そろそろ陽が傾き始めた時、陽水は何気なくステージに現れ、観客は大きな拍手の後、その強烈な手入れをしないドン・キングと言った風情の髪型にどよめいた。

「フェスの雰囲気をぶち壊すみたいに傘がない歌ったりして」等と笑っていると、いきなり唄ったのが「傘がない」だった。流石である。滅法暗い歌詞の不可思議なラヴソング。断定を避ける歌詞に不思議と浮かび上がるのは、ちょっとした空虚な感覚である。「傘がない」が歌われた時は、そういう時代だったのかもしれない。では何故響いたのだろう?圧倒的に美しいメロディというのもあるのだろうけれど、それ以上に歌詞の中に見え隠れする陰鬱とした空虚で茫漠とした感覚が今の時代にピッタリなのかもしれない。

僕は陽水のライブは二つの内のどちらかになるだろう、と思っていた。殆どの観客が全く世代が違う以上、ヒット曲を連発しサービス精神旺盛なステージに徹するか。もしくは、シュールな選曲で時代を撃つようなステージを見せるか。陽水が選択したのは、その二つをなんとかバランスを持たせようとしたのかもしれない。中盤に「アジアの純真」から「飾りじゃないのよ涙は」までヒット曲を連発すると観客はその度に歓声を上げた。近くの女の子も「リバーサイドホテル」が始まると「懐かしい!」と声を張り上げた。しかし、僕には「傘がない」の余韻でいっぱいだった。

夏の祭である。楽しければ良いというのもごもっともである。しかし、それだったら徹底的にショーアップされた音楽を聴けば良い話なのではないか?底抜けに明るい夏の恋を歌い上げるチューブや、振り付けから演出、楽曲からルックスまでプロの技を見せつけるスマップまで。目の前にいるのは手入れを怠ったアフロか雷様かといった風体の男である。一体彼に何を求めているというのか?ましてや、20代そこそこの連中が「懐かしい」等と懐古モードになるのもどうなのだろう?

一連のヒットナンバーを歌った後、思わず息を呑んだ。「氷の世界」「最後のニュース」(ディランの「風に吹かれて」というより、ニール・ヤングが轟音ギターのカヴァーに勝るとも劣らない感動。日本語だけに感動もひとしおだった)この怒涛の三曲は、ショーアップやエンターテイメントとは違う次元に突き抜けていた。そのシュールさ、凡人には想像出来ないメロディ。いつも思うのだが、陽水のヒット曲は非常に分かり易いメロディだ。ところが、その裏には絶対に真似が出来ないシュールな曲がある。個人的にはアヴァンギャルドな人のポップナンバーにはまりがちな僕が、小学生の時から陽水が特別だったのは、そういう部分だったのだと確信した。彼のヒット曲が、ありきたりにならないのは、結局初めの頃から奥底にアヴァンギャルドな面を持ちつつ明快なメロディの曲を作る。結局匂い立つのは、そこはかとないシュールさだ。

歌詞も同じだ。「ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド」という一見普通に思えて、苦笑せざる得ないくらいしょーもない繰り返しをしているだけなのだが、ここに彼の基本があるのかもしれない。歌う対象を角度を変えて執拗に表現する事で立ち上がる新たな意味。川沿いとリバーサイドは似て非なる物として並べるある種の批評性。(何でも英語にする事で全く別物に見せる世界)彼の歌が不条理に聞こえるのは、ひょっとすると現実世界が不条理だからかもしれない。

 薬漬けにされて治るあてをなくし 痩せた体合わせどんな恋をしているの

 地球上のサンソ、チッソ、フロンガスは 森の花の園にどんな風を送ってるの

陽水の歌詞は断定口調にしない、というより出来ないのかもしれない。酷く抽象的で難解になりがちな内容を、はっきりとした基本的な言葉だけで綴り、解釈を拒む。ある種の問題提起をするだけである。

冷たい風が僕の心に滲みる 君の事以外は考えられなくなる それは良い事だろ?

陽水の魔力は、このアヴァンギャルドの有効性を日常にまで引き下げた上で聴く側に突きつける意地悪な親父のパンクな精神にあるのかもしれない。