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  日本語で考えて、日本語で作品を書き、東京近辺に在住していた彼は、作品の舞台に東京のイメージを投影したはずだ。ほとんど同時代の、私が住んでいる、同じこの町だ。にもかかわらず、安部氏の作品は、数多くの言語に翻訳されている。英語・ロシア語・ポーランド語・チェコ語・ドイツ語・スウェーデン語・フランス語・ハンガリー語・ウクライナ語・スペイン語・・・・・・調べればもっとあるかもしれない。世界中にこんなにも多くの読者がいるということは、もしかしたら私だけでなく、これらの言語を使う誰にとっても、安部氏の表現するイメージは、平凡に感じられるのではないか。どこの国の人々にも、さらに、どこの町の住人にとっても。それはなぜだろうか。安部氏が、『死に急ぐ鯨たち』所収のインタビュー「子午線上の綱渡り」においてこんな発言をしている。「特殊をあげつらうことより(それは茶飲み話としては愉快なことであっても)普遍の由来に思いを馳せることのほうがはるかに(困難ではあるが)重要なことでしょう」
  その結果が、多数の翻訳に現れている。キーワードは、「都市」という言葉だ。彼のエッセイ『発想の周辺』にこんな文章がある。
「都市のおこりは、マーケットですよ。都市でないものは農村。つまり、都市の原型は、農村社会の辺境なんじゃないか。現代では、都市が農村を逆包囲しているけど、それは物質的側面にすぎず、魂は大地にあるというのが、いぜんとして近代国家の国家理念でしょう。」
  自筆の略年譜の中ではこう述べている。
 「原籍と、出生地と、育った場所とが、三つとも違っていることのために、その後私はますます過去に関して口が重くなった。たとえば、一口に出生地と聞かれて、いったい何と答えればいいのだろう?たぶんこうした経歴が、私を私小説的発想から遠ざけることになってしまったのかもしれない。」
  略年譜によると、安部氏は1927年東京府北豊郡(現東京都北区)に生まれる。後に満州に渡り、奉天千代田小学校2年の時、1年あまりを北海道の東鷹栖村で過ごし、再び渡満。当時の外地、満州の小学校教育の特殊性について『死に急ぐ鯨たち』所収のインタビュー「錨なき方舟の時代」で次のように語っている。
「・・・・・・そういえば、ぼくの場合むしろ小学校の教科書だろうね、体験の特殊性を言うなら。つまり原型となる風景というのが、地平線までのっぺりとして何もなくて・・・・・・ところが学校で使っているのは日本の教科書だろ。日本の教科書に出てくる風景というのは、家のすぐ裏に山があったり、川があったりする。・・・・・・谷川があって、せせらぎがあって、そこに魚が泳いでいたんじゃ、こっちはコンプレックスにおちいるしかないだろう。まさにファンタジーだ、あこがれだよ。窓からひょっと見たら山が見えるなんて、まるでチョコレートの箱の絵みたいじゃないか。」
1936年、奉天第二中学校入学。1940年、東京の成城学校理科乙種に入学。高校時代の、1941年、日米開戦の時の記憶を、後にエッセイ『テヘランのドストエフスキー』の中で、「パールハーバー奇襲のニュースよりも、図書館の『カラマーゾフの兄弟』が誰かに借りられてしまっているのではないかということのほうが気掛かりだった」と書いている。このころ「成城有史以来の数学の天才」と言われ、卒業後は大学の数学科に行くよう数学の教師に薦められる。
  1943年、19才のとき高校を繰り上げ卒業し、東京帝国大学医学部に入学。戦争が悪化するにつれ精神状態も悪化。2年間ほとんど学校へは出なかった。無為に日々を過ごす中、リルケの『形象詩集』を読む。1944年の年の暮れ、海軍のある上級将校から敗戦が間近いという話を聞き、急に行動への情熱に駆られる。奉天時代の友人と語らって、学校に無断のまま肺結核の診断書を偽造、憲兵の監視の目をくぐって、満州の自宅に帰る。その友人の知人が馬賊に知り合いがあるというので、「馬賊の仲間入りをさせてもらうつもりであった」という。帰路、立ち寄った北朝鮮の町の印象が、後に最初の戯曲「制服」の素材となる。
  自筆年譜より。1945年、21才のとき。「・・・・・・満州は意外に平穏だったし、一向に戦争が終わる気配はない。はぐらかされたような、落ち着かない気持で、無為の日を過ごした。当時父は(病院を)開業していたので、その手伝いをしたりした。脱落者の意識に悩まされた。8月になって、急に戦争が終わった。ふいに、世界が光りに包まれ、あらゆる可能性が一時にやって来たように思った。だが、つづいて、苛酷な無政府状態がやって来た。しかしその無政府状態は、不安と恐怖の反面、ある夢をわたしにうえつけたこともまた事実である。」
 「敗戦体験は、国家とか郷土とかに帰属しないで、なおかつ人間の存在とは何かを考えさせた。」
 『死に急ぐ鯨たち』所収のインタビュー『破滅と再生』より。「当時(敗戦直後)ぼくは満州にいた。ある時期、文字どおりの完全な無政府状態が続いたんだ。その時のことだけど、あれは奇妙というか不思議なものだね。無政府状態というのはつまり無警察状態でもあるわけだ。ぼくらは当然、ひどい混乱と暴動を予期していた。ところが違うんだな。すくなくも、日常は日本が軍事占領していた時期と少しも変わらない。相変わらず商店では品物を売っているし、食べ物店には料理の湯気が立ちこめている。もちろん日本人の立場は悪くなったよ。軍事力と警察力を背景にしてさんざんうまい汁を吸ってきたんだから、植民地支配の崩壊と同時に立場が逆転するのが当然だろう。でもその逆転ははっきり目に見えるものではなかった。金さえ払えば、何でも自由に買えたし、品物を売りに出せば、相応の値段を支払ってもらえる。つまり市民社会の基本ルールは、そっくりそのまま維持されたわけ。首をひねったものだよ、確かにインフレはひどかったけど、すくなくも通貨が・・・・・・通貨といってもはっきり覚えてないけど、旧満州国紙幣やソ連の軍票や、なんだかよく分からない紙幣なんかが、ごちゃごちゃに使われていたような気がするな・・・・・・いったい何がその貨幣価値を保証していたのだろう?そもそも貨幣価値とはなんなのか?まぁ、何であろうと流通している限りはそれでいいわけだ。手に入れた金で物が買えれば、その金の素性なんか二の次で構わない。あのときくらい国家権力の存在理由を疑わしく思ったことはないな。」
  安部公房の作品の中にある、あらゆる地域の人々に同時に理解可能なイメージ、それはこの体験から来た部分がある。彼が言うには、現代は世界が地域性を越えて同時代化しているせいではないか、というのである。大きな視野で見た場合、時代の流れは確実にこの方向へ向かっている。しかし、ここは誤解を招きやすいので、反対に子細な視野で見た場合の事を、身近な例で述べると、例えば、私達がベトナム戦争映画を切実な気持ちで観たわけはないし、観れるはずがない。それはその当事国の人が観るべき映画であり、アメリカとかベトナムの映画を日本人が観て感じた事は、誤解の積み重ねの上に成り立っている部分が確かにある。もちろん作っている社会背景は想像できるが、やはり分からないこともあるだろう。だが、このような事情は、安部氏の求めた「普遍」とは次元が違うのは述べてきた通りだ。
  通信手段の発達により、地域性に縛られる度合いが減少した1990年代後半の現在においては、企業のネットが地球を覆い、情報化が進み、安部氏の発言は有効度を増し続けている。パソコンや通信カラオケが個人レベルで浸透し、生活環境を徐々に変えている。ドラスティックな技術革新がもたらす理想の未来社会、といった情報スーパーハイウェイ構想の嘘臭さをよそに、普通に電話線等を使ってできることが、文化の枠組みを変えていく。たとえ部屋に閉じこもっていても、世界に手が届いてしまう。身の回りのものが、密接に世界とかかわりあっている。
  エッセイ『異端者の告発』のなかにこのような文章がある。「現代の都市は、どこへ行こうと、いずれ同じようなものだろう。ヒューマニズムの上に、完全な個人の理論で設計され、金塊の代わりに紙片が通用し得る町・・・・・・必然性と可能性を信用貸しで両替できる町・・・・・・湧いてくる矛盾を公理主義的な循環論法によって生理学的に排泄する下水装置・・・・・・観念と行動の分裂を非難しながらその合致を嘲笑する選良たち・・・・・・」これが書かれたのは1945年の敗戦直後、昭和20年代である。
それでは、私が見てきた1980年代以降の都市は、どのようであっただろうか。1990年代初期の東京は、バブル景気で、形態がどんどん変わるのが特徴であった。人々のあいだには、都市の変化のスピードに対し、自分の感覚が遅れてしまうことへの恐怖が蔓延していた。しかし、私が子供のころから見てきたイメージからすると、この町は、膨れ上がるだけ膨れ上がって、パンクするか、緩やかにしぼんでいくかの、どちらかへの折り返し地点にきていると感じられる。
  安部氏の作品の一部には、そのような都市にどう対応するかということへの、ヒントが示されているように思える。それは、大友克洋の劇画(童夢・AKIRA)のように、ただぶっ壊してしまえというようなヒステリックな表現ではない、別のやり方だ。
  人間というのは、都市の風景のような、どんどん変わってゆく風景にはなじまない。しかし、安部氏が表現しようとするのは、エッセイ『モスクワとニューヨーク』の中で述べられる、「それを当たり前の事として受け止め、それを進んで引き受け、未知の新たな通路を模索しようとする」者だ。安部氏の思索を貫く方法は、世に横行している全ての既成観念やイデオロギーを徹底的に批判し、常識の固い地盤を打ち壊すことを試みることである。
 

  『燃えつきた地図』の主人公は興信所の職員である。あるとき、失踪した夫を捜して欲しいという主婦からの依頼を任される。主人公は、依頼人の態度に、今までの典型的な客とは違う何かを感じながらも捜査に専念しようとする。この依頼人のイメージが作品読解の鍵になる。
  安部氏の、「おのれの地図を焼き捨てて、他人の砂漠に歩きだす以外には、もはやどんな出発もなり立ち得ない、都市の時代なのだから」という言葉を、私なりに解釈すると、つまり、出会いというのは他者に会うこと。誰かに会うということは、自分を壊し、もう一人の自分に会うことである。ではその他者とは何かというと、それは一人一人が自分の中で探すことだろう。
  私はこの作品の中で、安部氏の言う都市的なものが、どう表現されているかに興味がある。哲学的な理性と、詩的感覚が同居している表現に魅力を感じた。以下はすべて『燃えつきた地図』からの引用である。
 「妙に遠近法が誇張され」
 「またたきを忘れたような水銀灯の列」
 「白い水銀灯の遠近法」
 「虚ろな遠近法」
 『都市への回路』を読む限り、安部氏はどうやら都市という言葉を比喩としても使っているようだ。このエッセイの中で、土着主義に対する嫌悪をあらわした次の文章がある。
 「言葉を変えれば、都市の国家に対する自立性の回復と保証ということかな。だからといって現実の都市にすぐ未来や希望があるといっているわけではない。ただ人間が脱出する方向が仮にあるとすれば、その方向しかないだろうということなんだ。人間の脱出とは何か、いったいどこに抜け出して行けるのか、僕には答えられないし、答えられる人がいるとしたら、たぶん詐欺師だろう。抜けた先の世界を言葉にできるのは宗教だけさ」
 『燃えつきた地図』で、いまだに分からないのが、最後の章において、主語が失踪した根室氏に切り換わり、喫茶つばきにおいて、そこで働いている依頼人の主婦と顔を合わせているはずなのに、氏の方は記憶喪失のようになっているからともかくとして、婦人の方はなぜ気付かなかったのだろうか。
  文庫本でいうと、184ページ12行目から、186ページ14行目までの文章が何を象徴しているのか、今の私にははっきり理解できたとは言い難い。適当な時間が経ってからもう一度読み直せば分かるかもしれない。
(中略・推敲中・・・・・・)

  安部氏が嫌悪感を抱くのは、都市的なものに対して、それを否定したり、また否定的発言に便乗しようとする人間である。都市を否定できる人間というのは、どこかに自分の場所を持っている人間、古い農村構造の中で安定していられる人間である。都市が諸悪の根元であるという考え方があるが、本来、都市というものは人間に自由な参加の機会を約束していたはずの場所だ。たとえば、一人の人間が一日のうちに出会う人間の数にしても、農村に比べると問題にならない量である。人間と人間が組み合わされることによって何かが生まれる、その組み合わせ方の多様化は、絶対に人間にとって可能性の展開である。
  農村構造というものは、そのもとへ人間の帰属を強制するわけだが、人間の歴史はその帰属を和らげる方向に進んできた。しかし、最終の帰属として国家が残った。ここだけは破れない。法律もモラルも、すべて帰属したワクの中だけにある。しかし今、その最終的な国家への帰属自身が問われはじめている。帰属というものを本当に問いつめていったら、人間は自分に帰属する以外に場所がなくなるだろう。
ある意味、生きるとは、既存の精神風土の中に生まれ、そこで既存の規範を学び取って、それに従いながら生きるということである。慣習は無意識のうちに人の心をとらえ、人はいわば慣習のなかに眠ることによってのみ、いわゆるひとつの健全な生を営みうるといっていい。
  1966年2月の『文芸』誌上で行われた三島由紀夫との対談で、こんな発言がある。
 「僕は率直に言って伝統という観念がほとんど無いのだよ。観念がだよ?自分の中にあまりにそれが欠如しているということに対する不安感、恐怖感さえあったよ。だけどね、もう自分に率直になっていい年だと思うよ。(笑)そこで率直に言うとね、僕にはやはり伝統という観念が無い。もう完全にと言っていいくらい無いな。」
1990年代後半の、アジア地域の経済発展をみて、安部氏は、ある意味植民地支配の傷が今になってやっと癒えてきたともいえる、と発言していた。この視点は先に引用したような観点からでないと導き出せないものだ。
  以下は、『死に急ぐ鯨たち』の中の対談『錨無き方舟の時代』からの引用である。
 「・・・・・・最近よく南北問題だとか、発展途上国と先進国といった問題の立てられ方がされるけど、結局は植民地支配国と被支配国の対立が解決されないまま尾を引いているんじゃないかという気がしはじめているんだ。(中略)植民地主義の展開は、どうもヨーロッパのルネサンスと照応しあっているような気がして仕方がない。ルネサンスから産業革命へといくプロセスの中で、次第に近代国家に向けて権力による統合が進められた。ヨーロッパの中でも、分割や支配がブルドーザーみたいに駆け抜けた。王権から国家権力への移行だね。同時に生産効率が飛躍的に向上する。王権と国権では、馬と機関車くらい効率の差があるからね。海外からの収奪にも拍車がかかる。自分の国の中では民権をすすめながら、国外で奴隷の再生産を試みる。(中略)血も凍るほどの第1期の植民地時代、皆殺し政策だからね。(中略)収奪の効果は短期的には上がるけれど、いずれ枯渇してしまう。昔のスペインなんかのやり方だ。再生産きかないんだよ。その結果、侵入者自身が干潟のヤドカリみたいに干からびて自滅していく。今の中南米がそのいい例だね。(中略)その次にやってくるイギリス、フランス式の植民地スタイルを考えてみたい。はるかに合理的だし、効率も高い。つまり種をまいて収穫を刈り取るという、永続性のあるシステムだ。人間に関しては、徹底した奴隷の再生産マシーン。だから本格的な第2期の植民地収奪は、それ以前の略奪時代よりもはるかに深く根を下ろしていると言える。やられた国の受けた傷の深さは、たぶん皆殺し政策以上じゃないかな。そうした組織だった植民地政策の犠牲になったのは、やはりアジアに多い。アフリカっていうのは、もっと古くから収奪され続けているから、これはもうなんて言うか論外だね。中南米どころじゃない。
けっきょく世界は植民地支配国と、被支配国の二つに分けられる。ヨーロッパにも派手な植民地支配はしなかった国もあるけれど、しょせんは強大な支配国のおこぼれにあずかった周辺国だ。ところがなぜか日本は植民地化されなかった。地政学的には当然侵略の対象になってしかるべきアジアの一角にありながら、なぜか支配をまぬかれた。必然か偶然かはさておいて、恐らくアジアでは唯一の植民地化されなかった国だろう。
  だからもし日本の特殊性を言うなら、文化だとか風土だとか伝統なんかではなく、きわどいところで植民地化をまぬかれたという点・・・・・・」
(中略・推敲中・・・)
  消費優先の生活こそが、貧困国に対する暴力である。コストの低い農作物・原材料と、工業製品の貿易を続けて、経済学者リカードのいう比較生産優位の原則のように、世界全体の富が均等に伸びていくものではない。情報の均等化を目指す高度情報化社会を迎えても、知的財産所有権(特許)が先進国側にある限り、発展途上国は先進国のような多元的な文化を発展させることができない。世界経済は互いにもたれ合いの関係であり、一国が崩れれば将棋倒しになる。そんな中で一国だけの繁栄はありえないはずだ。
  第1次世界大戦前の国際金本位制の下では、国際流動性の供給は金の絶対量により制約されていた。基軸通貨国であるアメリカを金センターとし、ドルを金為替とすることによって国際流動性の拡大がはかられた。すなわち、IMF加盟国の通貨は、必ず金平価を設定するよう義務づけられた。ドルは金と結びつき、ドルを減価しない限りは、アメリカの金保有量が、国際流動性の絶対的な制約条件になっていた。他方で、IMFからの国際流動性供給は、各国の出資金(クォータ)からなる基金の枠内にとどめられていた。発展途上国はクォータが小さいために、それだけIMFからの資金供給も制限された。そうした中で、IMFは国際流動性を増強する手段として、実体はないが、支払手段を持った特別引き出し権(SDR)を創出し、それを外貨準備に含ませるよう加盟国に配分した。しかし、SDRが加盟国のクォータに応じて配分される限りは、クォータの少ない発展途上国にとって、SDRは国際流動性増大にわずかしか寄与しなかった。このように、金・ドル本位制としてのブレトン・ウッズ体制は、途上国の国際流動性不足を解消すべき有力な手段を持っていなかった。
1971年、ニクソンの金・ドル交換停止声明以後は、金平価に基づく為替平価の設定は不可能になる。変動相場制により、各国の国際収支の不均衡を調整しようとしたが、途上国は国際金融市場からの借り入れに依存せざるをえず、累積債務問題は深刻化した。この状況下、途上国は国際金融システムを改革する動きを示す。かれらはまず、IMFからの国際流動性供給を、コンディショナリティ(条件制限)の緩和などを通じて拡大する要求を行ったのである。それは、IMFを援助機関化するよう要求するということであった。
  このように、成長と利潤を追求し、格差と不公平をもたらす資本主義と、本来平等な人権と社会的公正をめざす民主主義との間には、明らかに矛盾がある。しかし他方で、そのどちらもが国境を越えて地球化しつつあるという点では共通している。
  ここから二つの問題が生じてくる。第一は、資本主義の世界化は民主主義の世界化に先行するという意味で、この二つの間に不均等発展があるということである。その結果、国家は、国家の枠をこえて世界化する資本主義と民主主義との、強いインパクトにさらされざるをえない。そこで、世界化する資本主義と民主主義に有効に対応するためには、国家自身が国際化する必要に迫られることが少なくない。それが、さまざまな地域統合の動きである。

  しかし「すでに第2次世界大戦という計算不能に近い代償を支払っている」。
『死に急ぐ鯨たち』所収の「子午線上の綱渡り」の中で、安部氏はこう述べている。
恐れというのは元来、自己保存という固体化の原理と結びついていたものであるが、いまや、この固体化の原理そのものが、自己の必然的な帰結として、自己自身を抹殺する。一人一人の生命はどうでもよい、代替可能なものになった。どうでもよくなった自我以外には何も持っていない。たとえば、企業が必要とするのは人ではなく人手である。この世界の法則は、どこでも普遍的に個人的利益そのものである。この形式的自由は、強制収容所の電流の通った壁のようで、この枠組みから脱出できる可能性はない。
  自己保存の原理、この罪科にまみれた原理は、持ちこたえ、今なお残っている。おそらくは、脅威が止むことなく存続しているため、この原理は強化されたのかもしれない。だが、この自己保存が居座っている、この生そのものが、自己保存にとっても戦慄すべきものと化している。生は妖怪と化し、目覚めた意識なら、存在しないものであることを見抜くような、一場の冥府と化しているのではないか。生はすでに生であるという事実ゆえに他者の息の根を止めている。圧倒的な数の、虐殺された人々がいるという統計に相応しているわけである。それはあたかも、確率統計で予定されていたかのようだが、こうしたものとしての生の罪科は、生そのものと、もはや和解することができないものである。
  そしてこの罪科は、どんな瞬間においても完全に意識に上ることのないものであるだけに、絶えず再生産されている。他ならぬこの事態こそが、私を哲学へ向かわざるをえなくさせている。しかし、哲学が事柄に深く、また力強く参入すればするほど、現実から遠ざかっていくのではないかという疑念が沸いてこざるをえない。もしひとたび、本質なるものが露呈されたなら、本質をめざす物の見方ではなく、最も浅薄で、月並みな物の見方こそが正しかったということになるかもしれない。
  生は、拷問にあっているものが泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には、自己を表現する権利を持っている。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。私が生き続けていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそ、市民的主観の根本原理である。それは殺戮を免れた者につきまとう罪科だ。報いとして私は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、1945年に広島市で死んでいるのではないか、現在の生活全体は単に想像の中で営まれているにすぎないのではないか、つまり、虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想なのではないかという悪夢である。広島・アウシュビッツは文化の失敗をいかなる反論も許さないかたちで証明し尽くした。この状況下で、生ける者には二者択一である。望まぬままに無感覚・無感動の境地、弱さから生じる審美的態度を採るか、事柄に巻き込まれたものとしての残酷さを採るかだ。前者の態度は、市民的冷淡さともよく結びつくものである。そのような態度を採ることで個人は、その段階では何の不安も抱かずに、自己の存在の空無性を最も素早く自覚しうる。しかし、傍観者として距離をとり、自分を一段高く置く能力を持つ者たちこそ、人間性にかなった不滅の存在であるという言い方も全く説得力を欠いているわけではない。人間は呪縛されているという点では、例外がない。愛する能力はもう誰も持っていない。だからこそ皆、自分はあまりにも愛されていないと思い込んでいるのである。だが、幻惑された主体が、自分では重要な存在であると思い込みながらも、結局は貧弱性以外のなにものでもなく、また、その感情的興奮も動物に等しいつかの間のものでしかない事態にあって、それでも、観客のような態度を採るのは「はたしてこれがすべてなのだろうか」という懐疑を表現しているのである。
  しかし、述べてきたような表現、形而上学的なものが声高に表明されても、自分には理解しえないものは何一つ押しつけられたくないという、自立的主体の欲望の前では無力である。そこが文学の持っている限界でもある。
とはいえ、すすんでこの葛藤を受け入れない限り、目を開いて現代を生きることは不可能である。『終わりし道の標に』の序文にあるように、「終わった所から始めた旅に、終わりはない。」のである。
 「ごく少数の読者によってでも確実に読み続けられればそれでいい。じわじわ燃えつづける泥炭の炎みたいに、それはそれですごいエネルギーなんだよ」と、安部氏は言う。


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