オルセー美術館とカルナヴァレ館のアルフォンス・ミュシャ

    今回の旅行のメインテーマではないが、忘れずにチェックをしておかねばと思っていたのが、アルフォンス・ミュシャ。彼の絵は、日本での未公開作品を見るためにチェコ語を習って(もうドブリデン以外は忘れた)チェコの地方都市まで出かけたというくらい好きなのだが、その理由は書くと長くなるので、いつかチェコ旅行の話をするときにでも書くとして、今回は省略。

    パリに訪ねたミュシャゆかりの場所は2ヶ所。
ひとつはカルナヴァレ館に彼がデザインをしたフーケ宝飾店の再現があり、もうひとつは1900年のパリ博覧会のボスニア・ヘルツェゴビナ館の内部装飾の復元がオルセー美術館のミュージアムショップの中2階の壁にあるのだ。
アルフォンス・ミュシャによるボスニア・ヘルツェゴビナ館の内部装飾の復元
はい、見た記憶のある人もいらっしゃるでしょう。これがオルセー美術館のミュシャです。
  フーケ宝飾店は孔雀がモチーフで、孔雀の羽根模様のステンドグラス、羽根模様を図案化したモザイク、孔雀が部屋にたたずんでいるような像を置いている。孔雀本体と扇のように広げた羽はブロンズで、羽根の楕円模様部分のみが黄色い光でぽっかり光っているステンドグラスは、人造孔雀を作っているような楽しさがある。丸いガラスケースは残念ながら空で、イミテーションでも置いてくれたら往時の雰囲気を彷彿できるのだろうが、しかしながら純粋に復元を見たい人には空の方がいいのだろう。

オルセーの方はといえば、おそらくオルセーに行った人は誰もがあのミュシャの絵を目にしているはずなのだが、いったいどれだけの人が気がついているのか。目立つけれど気がつかない場所にあるというのが愉快である。

オルセー美術館というのもおもしろい建物である。この美術館が元駅舎であることは有名だが、駅舎が建てられる前は会計検査院があり、それも1871年の火事で焼けてしばらく放置され見事な廃墟であった時期がある(英国人が見たら泣いて喜びそうだ)。駅舎として現役で働いていたのが1900年から1939年までの40年間、その後は捕虜収容所と使われたり、映画の撮影所、競売場と数奇な運命を送っているのだ。と、ここで数奇な運命と書いたが、これは逆に貸しホールと考えてみるといいかもしれない。もともとこの建物は巨大な空間があり、時代に合わせて貸し出す相手を替えて営業をしているだと。

欧州というと、古い建物をずっと使っているという固定観念が我々日本人にはあり、確かに大部分においてはこれは正しいのだが、例外的に壊すことを前提にした博覧会の建物というものがあることを思い出してもいいだろう。コンコルド広場やエッフェル塔周辺は幾度となく博覧会の建物が造られては壊されていたのだ。

カルナヴァレ館にトロカデロ宮の模型が残っているが、その建物の造作を今のシャイヨー宮の場所に置き換えて考えてみると、本当にこんな建物を壊してしまったのかと驚きがあるほどの立派な建物だ。そもそもエッフェル塔も期間限定の建築だったのだから、建てた時点で既に決められていた破壊がいかに大きいものか分かるだろう。(現在は、コンコルド広場の観覧車が解体されるのを待っている)

こんなことを思い出してみると、パリというところは博覧会都市という性格があるのではないだろうか。オルセーは図らずも生き残った博覧会のパビリオンというところだろう。実際、1900年のパリ博覧会の会場輸送のために造られた駅舎なのだし。そのようなオルセーにパリ博覧会会場を飾ったミュシャの絵が掲げられているというのは、本当に似つかわしく思う。

一方、フーケ宝飾店を見ていると、宝石が置かれていないだけに、その空間の性格が純粋化し、物を売る場所としての夢をふくらまし、物を買うという欲望をふくらませる空間として機能が高度化した場所のように思えた。物を陳列して売るという商業スタイルと、殖産興業を押し進めた博覧会とはどちらも商品を目の前にして吟味し、購入することができる(または見るだけで購入しないでも許される)という点においてとても似たものだ。

19世紀中頃以降の消費社会の発展と度重なる博覧会の開催は、互いを補完する関係にあるが、この2つにミュシャの足跡がそれこそ実物そのものというより復元、再現という形で残っていることが興味深く思えた。ミュシャはパリで華々しい活躍をしたが、彼の作品そのものの大部分はチェコにあり、パリにはアール・ヌーボーという様式の中に取り込まれているようだ。これが消えることを前提にした博覧会、消費社会の幻のようで、そのころのパリの姿を映しているような気がするのだ。




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