[MICK RONSON 〜 BIOGRAPHY 〜]
ミック・ロンソンがこの世を去ってから、早い物で7年の月日が流れた。
7年というと、初めての制服を着て、ピカピカのランドセルを背負った小学生が、詰め襟の学生服に着替え中学生を向かえる
といえば、どれだけの年月が流れたか理解しやすいだろうか?
しかし、今でもテレビや、新しいアルバムが発売されると、ついついプロデューサーのところに
「Produced by Mick Ronson」の文字を探してしまうのは、僕だけだろうか?
そんな、今でもどこかで活動していそうな彼の偉大な功績をたたえ、トリビュートとして
改めて彼の活動を振り返ってみたいと思う。
〜Chapter 1「運命的なギターとの出会い」〜
本名 マイケル・ロンソンは1946年5月26日父ジョージ・母ミニーのもとハルでうぶ声を上げる。
世間体を重んじていた彼の良心は彼に音楽の教養を身につけさせる。
それに報いるように早くから一通りの楽器をこなすようになる。
当時、彼はクラッシクのピアニストになりる事を夢見ていたが、10代のころには次第に運命的なロックギターリスト
を目指すようになる。
そして、いくつかのバンドを渡り歩いた彼は、1967年地元ハルで「ザ・ラッツ」といバンドに参加する。
その「ザ・ラッツ」のアルバムは、ここの「Discography」でも紹介している
「The Rise And Fall of Bernie Gripplestone And The Rats From Hull」の音源で耳にすることが出来る。
しかし、そんな彼も1969年には「ザ・ラッツ」を脱退し、一時音楽活動から身を引き、地元ハルで「庭師」になる。
それは、ミュージシャン時代にできた借金を返すためであった。
だが、既に運命的なロックギターリストの道を歩き始めた彼には、もうその道から外れることは出来なかった。
〜Chapture 2 「それでも、彼はギターを引き続けた」〜
そんな彼の元へ再び音楽への挑戦が訪れたのは、友人のマイケル・チャップマンから彼のアルバムに
「ロンドンへ来てフォークをやらないか?」という誘いであった。
彼曰く、「ブロンドのロングヘアーの、一見おとなしそうに見えるロノが、ギターを握るやいなや、
みんなを圧倒するプレーを見せるんだぜ!」。
また、ロンソンは、チャップマンの高音の延びを良くするために塗装をはがしたギブソンのアコースティックギターに入れ込み
自分の古いブラックレスポールの塗装をはがし、ウッドが見えるようにしてしまった。というのは有名な話である。
その後再びハルに戻ったロンソンは、元ラッツのジョン・ケンブリッジから運命的な引き合わせを引き受けることになる。
〜Chapture 3 「デビッド・ボウイとの出会い」〜
元ラッツのジョン・ケンブリッジがデビッド・ボウイのドラマーを引き受けたことから、彼はロンソンをにも声をかけた。
当時妊娠していたガールフレンドのデニスの勧めもあり、彼は運命的なデビッド・ボウイとの出会いを果たすことになる。
そして、初めてのBBCライブに出演することになり、「ロックンロール」の道へ進むことを意識する。
また、地元では「元ラッツのミック・ロンソン! ロンドンにてビッグチャンスをつかむ!」と題して、彼のインタビュー記事が
載せられた。
「これこそ、僕が本当にやりたかったことなんだ! いままで、何度も壁にぶつかっていたような気がしていた。」
そして、彼はフィアンセのデニスと一緒にロンドンに移り住むことになるが、結局は彼女とは結婚はしなかった。
そのときに彼女との間にできた息子のニコラスは現在でもハルでギターリストとして活動している。
その後、ボウイの「Space Oddity」「The Man Who Sold The World」とのアルバムづくりに懸命に取り組む。
中でも「The Man Who Sold The World」の「The Width of A Circle(円軌道の幅)」や「She Shock Me Cold」においては
彼に寄るところが多かったにもかかわらず、アルバムに彼の名前はクレジットすらされなかった。
これに拍車をかけるように「The Man Who Sold The World」は全く商業的なヒットとは無縁で、ロンソンはハルに戻ることになる。
ハルに帰ったロンソンは、バンド名を「ハイプ」から「ロノ(後のミック・ロンソンのニックネームとして使われることになる)」とし、
シングルをリリースするが失敗に終わる。
そのころ、時期アルバム作成に向けて曲を準備していたボウイは、もう一度 ミック・ロンソンに話を持ちかける。
彼は、ドラムのウッディー・ウッドマンシーとベースのトレバー・ボルダーを引き連れて再びボウイと仕事をする事になる。
そこでのロンソンの役割は、バンド・リーダ兼アレンジャーということに決定した。
そして、ボウイのアルバム「ハンキードリー」が完成する。ボウイは言う
「彼のアレンジは他の誰もがマネを出来ないようなすばらしい物だったよ。」
〜Capture 4 「ジギースターダスト&スパイダース・フロム・マース」〜
ボウイとロンソンの見事なパートナーシップが確立され、ロンソンのロックギターリストとしての知名度と、
力強いギターサウンドを聴かせるようになった頃、彼の人生での最大の表舞台での活躍といって良い
「ジギースターダスト」の作成に取りかかる。
「ジギースターダスト&スパイダース・フロム・マース」とは、ボウイがもう一人の別の自分のを、
「宇宙からやってきたロックスター」というコンセプトの元で物語風に仕上げられた
「架空のロックンロールスターバンド」である。
このコンセプトはボウイのバイセクシャル的な容姿との相乗効果からイギリスではたちまち話題になり、
商業的にも大成功を納める。
その後、「アラジン・セイン」というアルバムも大ヒットを重ねるが
1973年7月3日。「ジギー(ボウイ)の突然の引退宣言!」から、その後の「ピンナップス」
というアルバム作成の後、ロンソン以下ボウイ以外は職を失ってしまうことになる。
〜Chapter 5 「ソロアルバム」〜
ボウイと分かれてからもとトニー・デフリーズはロンソンをRCAと契約させた。
ボウイとロンソンを両立させデュアルで売り込むつもりだった。
そんな中、ロンソンのソロアルバム「スローター・オン・10th・アベニュー」が発表される。
このアルバムの代表曲といっても良い「ヘイ・マ・ゲット・パ」をやり終えたロンソンは
ボウイに聞かせに行ったという。そのときのボウイは「本当に感動したよ!」と良い
彼の「グローインアップ」を書き直した「グローイングアップ・アイム・アンド・アイム・ファイン」を
ミックのために書いてあげたという。
〜Chapter 6 「ソロツアー そして...挫折」〜
1974年4月 ロンドンのレインボーを封切りに彼はソロツアーを結構する。
だが、「大きなステージでしかやらない!」という彼の意気込みとは裏腹にツアーは失敗に終わってしまう。
その当時、容姿や女性人気ではボウイよりも上であったとしてもフロントマンとして、彼にはステージを
魅了するにはボウイにはかなわなかった。
そんな中、ツアーを途中で中断せざるを得ない状況になってしまった彼は、完全に自信を失ってしまう。
こんな心境の中、2枚目のソロアルバム「プレイ・ドント・ウォーリー」をリリースするが、
統一性のないアルバムになってしまい、彼のソロワークとしての地位を伸しあげるには至らなかった。
〜Chapter 7 「アレンジャーとしての活動」〜
「自分は、フロントマンではない」と言うことに気づいたロンソンは、アレンジャーとしての新たな道を進むことになる。
以前、「すべての若き野郎ども」という、モット・ザ・フープルのヴォーカリスト、イアン・ハンター
と会ったことがあったロンソンは、モット・ザ・フープルに加入。
しかし、イアン・ハンターが倒れた後、ロンソンは脱退してハンター&ロンソンバンドを始めることになる。
ひとつ。エピソードとして、ハンターがロンソンに、
「バラード”シー・ドライヴァー”をアレンジしてくれ! アレンジ料はいくらだ?」
と聞いたところ「20ポンド(今で言う2万円ぐらい)でいい。」と答え、100ポンドぐらいを予想していたハンターは
すっかり彼の人の良さを気に入ったという。
これをきっかけに、以後15年間にわたり二人のコンビは続くことになる。
それと、並行して、ボブ・ディランの「ローリングサンダー」のレビューにも参加している。
〜Chapter 7 「アレンジャーとしての円熟期・名プロデューサーとしての功績...そして...」〜
アレンジャーとしてイアンハンターの右腕的存在になった彼は、プロデュースにも力を注いだ。
そんなロンソンも、実はひどい腰痛に悩まされており、妹のマギーの勧めにより、病院へ行くことになる。...そして....
〜最終章 「偉大なギターリストのタイムリミット」〜
単なる「腰痛」のための通院が彼に大きな衝撃を与えることになった。
1991年8月。精密検査の結果、手術不可能な肝臓ガンであることが判明。...もう、長くは生きられない...
彼は人生の整理に入った。
別居中だった妻のスージーとよりを戻すことにし、痛みを押さえる治療を施しながら、
皮肉にも、エイズでこの世を去った「フレディーマーキュリーの追悼コンサート」に参加する。
しかも、ロンソンがガンであるという告知を受けて8ヶ月後のことである。
そこでは、デビッド・ボウイと再び共演。
初めて彼の”ヒーローズ”をロンソンがギターを弾く姿はみているだけで、熱い物がこみ上げてくる。
そして、ハンターとボウイ。そして、ロンソンのギターで「すべての若き野郎ども」では、下まぶたにたまった
涙がこぼれるぐらいの感動的な力強いギターサウンドを聴かせてくれる。
その後モリッシーの「ユア・アーセナル」をプロデュース。
この中で、「アイ・ノウ・イッツ・ゴナ・ハプン・サムデイ」は、ボウイの「ロックンロールスイサイド」を
パロった感動的な編曲を聞かせてくれる。
その後、ボウイの「ブラックタイ・ホワイトノイズ」というアルバムでは、ボウイが「アイ・ノウ・イッツ・ゴナ・ハプン・サムデイ」
を、カバーし また、「アイ・フィール・フリー」では、久々にボウイとの共演が実現することになる。
そして...1993年4月29日(英国時間4月30日未明)。
名ギターリストであり、名アレンジャー・名プロデューサー・名サイドマンのミック・ロンソンは
次の舞台、「HEAVEN」へ、レスポール片手に旅立っていった。...享年46歳。
彼の一周忌の1994年4月29日。彼の昔からの友人であった、デフ・レパードのジョーエリオットの手によって
完成された、ミック・ロンソンからの最後のプレゼント「ヘブン&ハル」が地上へ届けられた。
英国BBCで放映され、「グラムロックの夜明け」というビデオで、彼はこう言い残した。
「僕は、死ぬまで、ギターを引き続けるしかないんだよ...」
しかし、彼は天国でもレスポール片手に、「ジギースターダスト」を引き続け、今でも我々の心の中に
あの、力強いギターを聞かせてくれている。...ほら。耳を澄ませてごらん? 彼の弦をミュートする音が聞こえてくるでしょう?