

初めて釣りをしたのは、いつだったのだろう? 釣り好きの父親の影響で、小学校の低学年の頃には始めていたように思う。最初は、父親に連れられて、家の近くの「東横水郷」(今の川崎市等々力緑地の釣り堀)で小鮒釣りをしたことかな? 今から35〜6年前、実家のある川崎の中原周辺にはまだ農家がいっぱいあって、用水路にドジョウやタナゴが泳いでいたりもした。ザリガニもカエルの足やスルメのゲソを凧糸に縛り付けて、用水路の水が濁っているところに落としてやると面白いように釣れてきた。学校から帰ると、毎日のようにそこへ行って、夕暮れまで遊んでいたものだ。
小学校の高学年になる頃、次々と田んぼが埋め立てられ、用水路もコンクリートで囲われたドブと化して、ドジョウやタナゴはもちろんのこと、ザリガニまでも姿を消してしまった。それからは、行動範囲を広げて、家から自転車で10分程度の多摩川に行くことが多くなった。当時は河川敷にゴルフ場があって、時々ゴルフボールが近くに飛んでくるという危険な場所だったけれど、ヤマベや小鮒、時にそれらの魚に食いついた雷魚なんかが釣れたものだ。

小学4年の時、ヘラブナ釣り一辺倒だった父が、海釣りをやるようになり、時々船釣りに連れて行ってもらうようになった。初めての船釣りは、今はもう埋め立てられてしまった東神奈川の船宿(たしか岡田丸だったと思うが)からのカレイ釣りだったと思う。1968〜9年、公害による内湾の汚染が問題になっていた時期だったが、20〜35cmのカレイがそこそこ釣れてきた。
夏場のキス釣りで合間にコマセなしのサビキ釣りをしたことがあった。数は釣れなかったが、サビキの動かし方で釣果に差が出る面白い釣りだった。何より海を汚さないきれいな釣りであった。(今のコマセ釣りでは、1人あたりいったい何キロのコマセを使うのだろうか? 釣りの後のコマセ臭さ、魚をさばいたときに腹から出てくるコマセは食欲を減退させる。) 数が釣れなければ、面白くないというのも分かるが、苦労してあげた1匹の魚の方がコマセに寄ってきて勝手に針に掛かった魚よりも釣ったという実感を与えてくれると思う。
父の釣りの対象が広がるにつれて、イナダ(当時はシコイワシで釣った)、カワハギ、フッコ(エビ餌)、ハゼ、スミイカ、メバルと私の釣りの経験も広がった。
船に乗っての釣りなので、乗船料がかかるため、父親と一緒の時限定の釣りであった。1人で行くのは、もっぱら多摩川とか東横水郷というのは変わらなかった。
高校に入った頃からは、父親の行くのがほぼ鯛釣りだけになった。横須賀の鴨居港の赤穂丸という仕立て専門の船宿に行くようになった。当時の船は木造の小舟で、それまで乗り合いの大型船にしか乗ったことがなかった私にはとても心細いような気がしたものだった。ここ鴨居の鯛釣りは、昔ながらの「エビで鯛を釣る」いわゆる鴨居式の釣りで、観音崎の沖を中心に釣っていた。数はそんなに釣れた記憶はないが、釣れるのは1〜1.5kgの鯛が中心だった。今では、そのサイズでも年間に数えるほどしか釣れなくなってしまったが…
年間5〜6回程度の釣りだった。
大学に入ってからもだいたいそんなペース。サークルの活動や、友人と過ごす時間、そして恋愛の方に関心が向いていた時期だった。

大学を出て最初に就職したのは、静岡の養護学校だった。歩くことが好きな私は、予定のない休みの日には、欠かさず海岸まで散歩に出かけたものだった。当時私が住んでいた長屋(相当古いところだった)から海岸線までは、だいたい3kmくらい。大谷海岸というところに出て、久能山から清水の美保の灯台あたりまで、あるいは大谷海岸から逆方向に安倍川の方に向かって、半日かけてゆっくり歩くのが好きだった。
そんなときにテトラポットの上から竿を振る黒鯛ねらいの釣り人たちや、砂浜で投げ釣りをする人たちの様子をよく見かけたものだった。まだこのときには、こういった「丘っぱり」の釣りにはあまり関心がなく、せいぜい近くに行って釣っている様子をしばらく眺めているくらいだった。
静岡での生活が3年めになったころ、同僚に釣り好きな人たちが多くなって、職場でも釣りの話題を耳にすることが多くなった。もともと釣りが好きな私だったから、そういう話題には敏感に反応。やがていっしょに投げ釣りに出かけるようになった。釣り場は、散歩コースでもあった久能海岸や大浜海岸、時々遠出して焼津の海岸に行くこともあった。休みの日の朝(というよりも深夜)2時とか3時に迎えに来てもらって、夜釣りのスタート。グチ(ニベ)が結構釣れたものだった。日が昇るとキス釣りに変更。秋には波打ち際で、数釣れたこともあった。
休みのたびにほとんど毎週、釣りに行くようになり、それにともなって部屋の中には釣り道具が徐々に増えていった。投げ釣りを始めた頃には、釣り竿といっても実家にあったそうとう年季の入ったリール竿とこれまた使い古しのスピニングリールだけ。そんなに遠くまで仕掛けを飛ばす必要がない釣り場だったからそれでも何とか釣りにはなったけれど、周りの人たちの道具を見ていて、次々と買うようになった。
この釣りの難点は、冬場にはあまり行けないということ。1年中ジャリメや青イソメといった餌が手に入る東京とはちがって、冬になると釣具屋が活き餌を扱わなくなるからだった。
静岡で6年間、教員として勤めた後、昭和最後の年(63年)に東京に戻ってきた。住んだのが海から離れた所だったから、休みの日になると無性に海を見たくなって、二宮の海岸によく行ったものだった。ここも静岡の大浜海岸と雰囲気が似ていて、キスを中心に夜には、カサゴやアナゴ、時々黒鯛が釣れた。
ボートの釣りもこのころから始めた。横須賀の伊勢町や金田湾のボート屋によく通ったものだった。夏場から秋にかけては主にキスをねらい、冬場から春にかけてはカレイをねらった。伊勢町一帯の沖に秋になると海苔の養殖用の網が張られるが、その周りに寄ってくるいろいろな魚と出会えた。