LET THE MOVIE DO THE TALKIN'!
1938年10月30日のハロウィン前日、当事無名の俳優だったウェルズはこの小説を臨時ニュース風に演出し「火星人襲来」としてラジオ放送した。全米でウェルズの迫真に迫る放送を聴いて、事実だと思い込んでしまった人々が各地でパニックを引き起こした、あまりにも有名なエピソードがある。
1938年というと、翌年ドイツによるポーランド侵攻をきっかけに起こる第二次世界大戦の前の年にあたる。
ドイツではナチが台頭、ユダヤ人の迫害が始まり、オーストリアを合併。日本はアジアへと侵攻、37年から始まった日中戦争の最中にあった。国民総動員法が発令され、世界が再び戦火の渦に巻き込まれようとしていた。
その中で、アメリカ国民の中にも、「戦争」「侵略」といったものに対する不安や恐怖心が芽生えており、そうした感情が見事に「宇宙戦争」とシンクロした結果が先のパニックだったのではないだろうか。
第二次世界大戦が終わり、今度はアメリカにとっての脅威がナチスドイツから「ソ連」や「核」となった50年代〜70年代にかけて、映画の世界でも「原水爆によって巨大化、凶暴化した生物の恐怖」「何者かに侵略される恐怖」を描いた作品が数多く登場した。
折からの宇宙開発競争によって人々の目が宇宙に行き始めるに従い、「侵略者」は「宇宙から来た何者か」と描写される様になった。
「得体の知れない宇宙人」は、「アメリカ民主主義を脅かす得体の知れない共産主義」の脅威に対する不安感と、絶妙にマッチしたのだろう。
そんな中で1953年に制作されたのが、最初に映像化された「宇宙戦争」。宇宙人の描写や、地球軍との戦闘シークエンス、地球人と異星人のコンタクト・・・等、後の作品に対する影響力は物凄い物があると思う。
この作品がなければローランド・エメリッヒの「インディペンデンス・デイ(なんといっても反撃のきっかけが『コンピューター”ウィルス”』だし)」もティム・バートンの「マーズ・アタック!」も生まれなかったのだ。
アカデミー賞特殊効果賞も受賞した。
何よりも強烈なのは、原作と共通したオチである「結局火星人を撃退したのは、人類が作り出した兵器ではなく、自然に存在していた微生物だった」という点ではないだろうか。これは暗に、「競争によって進歩したテクノロジーが必ずしも人類を豊かで平和にするとは限らない」というメッセージではないか、と思う。
核開発、宇宙開発をはじめ、身の回りのあらゆる物が進歩していく一方で自然は破壊され、人類を何回も死滅させる事の出来る大量破壊兵器の開発は止まる事を知らない・・・そんな中で鳴らされた警鐘とも言える。
さて、時は巡って2005年。 ふたたびスクリーンに現れた「宇宙戦争」である。 監督はかつて「未知との遭遇」「E.T.」で友好的な宇宙人とのコンタクトを描いてきたスティーヴン・スピルバーグ。
そのスピルバーグが、何でまたこのご時世に「宇宙戦争」なのか???
今作を観て一番感じたのは、極限状態に晒された「人間」の恐ろしさだった。
自分(とその家族)さえ生き残れば良い、そのためなら嘘をついたり、他人を押しのけ、傷つけ、命を奪い事もいとわない・・・それは、ごく一部の特殊な人間に限った事ではなく、我々が当たり前の様に持ち合わせている心の闇の部分でもある。
愛する人を抱きしめ、慈しむ手は、同時に人を傷つけ、殺し、取り返しのつかない大量破壊兵器のボタンを押す事も出来る得るものなのだ。
地上を跋扈し、人間を次々と灰にしてしまう宇宙人の脅威は、もはやそれらをいぶり出すための触媒に過ぎない。
そもそも原作が書かれたのは、イギリスがまだ「大英帝国」として世界を席巻していた時代である。
原作者のH.G.ウェルズは、数々の国々を植民地として支配していたイギリスの帝国主義に反感を持っていた。そんな彼がイギリスを「侵略者」になぞらえた、帝国主義に対する批判という意味合いが根底に流れているのが本作である。
それを考えると、9.11以降の2005年というこの時期に作られた作品の意図が見えてくる様な気がして来ないだろうか?
今現在のアメリカが世界のあちこちでやっている事と、今作の宇宙人と、どれほどの違いがあるというのだろうか?
このままの状況は続けば、作品中の宇宙人のごとく、思いもかけない原因で手ひどいしっぺ返しを食う事になるのではないか?
そして家族が社会(国家でも良いけど)の最小単位であるとするならば、愛する家族を守る、という事はどういう事なのか・・・。
そんなスピルバーグの問いかけを感じるのは俺だけだろうか。
トム・クルーズ演じる主人公レイは、労働者階級の、カミさんに三行半を突きつけられ、息子と娘の事を理解しようともしない、父親失格のダメ男だ。
当然息子からは反抗され、娘は父親よりもむしろ兄の方を頼りにしている。
間違ってもF-14に乗り込んでUFOを撃墜したり、オネーチャンにキャ−キャー言われながらカクテル作ったり、インポッシブルなミッションを成功させたりする様な、「スペシャルな人間」ではない。
当然、ごくごく一般人の彼に出来る事は、子供達を連れて逃げ回る事だけ。 強大な脅威の前に、ただただ無力な姿をさらし続けるのだ。
その中で次第に彼は「父親」としての成長を求められていく。
彼に求められているのは、脅威に力で立ち向かう事ではなく、脅威から家族を守る事なのだ。
終盤にようやく「父親」としての気概が芽生えた時、娘に子守唄を歌って、とせがまれても歌自体を知らない事に気付き、今までの自分の愚かさと無力さに涙するシーンは切ない。
なぜなら「彼」は、スペシャルな人間ではない「俺」であり「あなた」でもあるからだ。
・・・それにしても、ダコタ・ファニング、演技上手すぎ。