DEF LEPPARD

デフレパ簡単年表
現在入手困難なバイオ本からのエピソードを中心にまとめました

[1970年代][1980年代][1990年代]

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1970年代

1977年 イングランド北部の工業都市シェフィールドで、高校時代の友達同士のSav(g→b)とTony(d)とPete(g)がATOMIC MASSを結成。しばらくしてから近所のJoeがヴォーカルとして参加して、DEAF LEOPARDというバンド名を提案したものの、数週間後にメンバーから文句が出て今のDEF LEPPARDの綴りとなる(笑)。

1978年 前の年にPeteが地元図書館で知り合い、練習を見に来るように誘っていたSteveが数度のバックレの後、練習にカオを見せ、もう一人のギタリストとして加入。この年の7月にそのSteveが「練習ばっかなんだったらもう辞める」と皆を脅したお陰で、地元の学校のパーティーではじめてデフレパとして演奏。この時にアンプのスイッチが入っていなくて、Steveが最初の曲で"じゃ〜ん"と腕を振りまわして弾いても音が出ず、観客に笑われたのは有名なエピソード。「他の皆のようにバンドに身を捧げる決心がつかなかった」Tonyが脱退し、他のバンドのドラマーFrank Noonに手伝ってもらったり、Joeが家族や友人に借金したりて自主制作のEPを完成。その後当時15歳のRickが新しいドラマーとして加入。この時付き添いで来ていたRickのお兄さんは、その後バンドのスタッフとなり、Pyromaniaの頃あたりまでは一緒にツアー周ってました(今どうしているのかな?)。

1979年 EPが好評で、この年に今のレコ-ド会社や今のマネージメントと契約。サミーヘイガーの英ツアーをサポートしたりAC/DCとツアーするなどして活動が本格的に。

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1980年代

1980年 1stアルバム"On Through The Night"リリース。イギリスをツアーした後、パット・トラヴァースとジューダス・プリーストのサポートで初めてアメリカへ。夏にイギリスへ戻ってレディングフェスティバルに出演する頃にはすっかり「アメリカに身売りしたバンド」(当時はこのような風潮があったようで・・・)としてウケず、このあと長い間イギリスでは"鳴かず飛ばず"の状態が続くのでした。

1981年 2ndアルバム"High 'n' Dry"リリース。ここからRobert John 'Mutt' Langeがアルバムのプロデューサーとしてお馴染みの存在に。オジー・オズボーン、ブラックフットとアメリカをツアーし、レインボーやジューダス・プリーストとヨーロッパツアーも。10月のある日のデンバーでのショウではメインのブラックフットから前座でなくトリをやるよう言われたり(もうすっかり先輩を食っちゃってた)、アメリカでは人気が上がってきた頃。

1982年 4月から3rdのレコーディングが始まり、途中お酒の問題でPeteが脱退(というかクビ)。以前から飲み過ぎで問題行動が多く結構仲が悪かったところへもって、レコーディング中も改善されずにギターが弾けない状態だったために決定的になったよう。後任には1980年からバンドと知り合いだった元GirlのPhilが加入。ロンドンの一部と日本で人気のあったGirlは、雑誌に載った写真が元で日本ではレコード出る前にファンクラブができたとかできないとかの伝説アリ。Def Leppardの他にも実はアイアン・メイデンからの誘いもあったのはよく知られている話です。加入の依頼の電話をJoeから受けた翌日、他のメンバーと顔合わせするためにマネージャーのピーター・メンチの家に行ったPhilの車が壊れたのでJoeと外で修理したところ、ギアレバーの入れ方を間違い、後ろ向きに発進して、もうちょいで居間の窓を突き破るところだったとか・・・。

1983年 3月にめでたく3rdアルバム"Pyromania"がリリース。ここからの快進撃はもう有名。アメリカでバカ売れして、ビルボードアルバムチャート最高2位(1位はマイケルジャクソンのスリラーでしたね)そりゃーもう大人気になったのでした。一方この時もまだイギリスでは冷たい反応・・・でも全英チャート最高15位。ツアーが終わる頃には600万枚というセールスの記録が。ハードロックバンドとしては当時驚異的な数字で(←もちろん現在でも買う人のいるアルバムなので、今はもっと伸びて倍近くなってます)これを書いているKumaがHR/HMを聴き始めた80年代後半には、ハードロック系のバンドがビルボードチャートにガンガンでていてメジャーなジャンルとして誰でも知ってるような存在でしたが、こういう流れのハシリが彼らのこの時期の健闘にあったのでした。

1984年 1月に初来日!東京と大阪で演奏しました。オーストラリア、タイのバンコクでも初公演。そしてPyromaniaツアー終了。他のスケジュールでMuttが空いてなかったので、オランダのウィッセロードスタジオにてジム・ステインマンをプロデューサーに4枚目のアルバム制作に入るものの上手く行かず、ジムを切った上で作業したものを一度白紙に戻す。12月の大晦日にニューイヤーズの休暇のため、シェフィールドの実家に車で戻る途中のRickが、他の車にあおられて振りきろうとカーブを曲がり損ねて事故に。取れてしまった左腕は一度手術で縫合されるものの、結局取ることになる。Rickはこの時まだ21歳。

1985年 予定より6週間も早く2月にはRickが退院。彼は早速新しいドラムセットの構想を練ったりして、誰もドラマーの入れ替えは考えてなかったそう。他のメンバーはMuttのアシスタントエンジニアだったナイジェル・グリーンとの共同プロデュースで自分達でレコーディングを進めてみたり、試行錯誤の苦しい日々を送ります。この時期はパリで作業をしていて、Mattはアドバイザー的に関わっていました。Joeのヴォーカルをプロデュースすることにはなってたよう。この間に残りの4人はきたるべきツアーに備えてリハーサルしたりもしてました。この時すでに、Rickの選んだ助っ人(アシスタント)ドラマーとしてジェフ・リッチが合流してます。しかしアルバム制作に終わりが見えない状態で、ツアーの予定は未定のまま・・・。

1986年 場所をアイルランドに移して、ひたすら作業。当時は何年もアルバムをリリースしないことは珍しいことだった上、音楽の流行も移り変わり、他の新しいロックバンドの活躍も目立ち始めて、メンバーは相当アセっていたと同時に、世の中に置いてきぼりをくったような感じに意気消沈していた時期。そんな中、モンスターズ・オブ・ロックに出演決定し、リハーサルを兼ねた小さな街でのギグでウォーミングアップをします。その時にアシスタントドラマーとして数回ギグに出演してたジェフ・リッチが既に正式加入していたステイタス・クオーの仕事から戻ってくるのに飛行機に乗り遅れ、これを切っ掛けにRick1人でもライヴをこなせると判明。バンドのドラマーは正真正銘Rick1人に戻りました。そしてフェスティバルで久し振りに大勢の人の前へ。この時メンバーは久々のことでオーディエンスの反応が不安だったそうですが、ものすごい声援が飛んで、後に何度もこの時のことを印象深いとか思い出深いと語っています。特にRickyを紹介した時のオーディエンスの叫び声は物凄かったそうです。しかし、この時もまだ新作の完成予定は未定でありました。

1987年 8月に4thアルバム"Hysteria"をついにリリース!そして気が付けばプロデューサーはマット・ランジ。発売当初はアメリカでの反応イマイチでファーストシングルのWomenはビルボード初登場90位で最高でも80位。その次のAnimalも初登場84位・・・このシングルが最高位19位になったころにはもう12月26日だったりします。ちょっと厳しいスタートながら、アルバムの方は2週目からこの後ずうっとTOP10内に。皆の度肝を抜いた360°ラウンドステージで地道にアメリカをツアーします。

1988年 5月に2度目の来日!東京・横浜・大阪・名古屋で公演。丁度その直前の4月にシングルカットしたPour Some Sugar On Meが日本公演の後のカナダツアーを終えてまたアメリカに戻った頃に、最高位2位を記録。一度11位あたりに後退したアルバムも1位に!!ここから先、アメリカでこれまで以上にブレイクすることになります。Kumaが思うのは、アメリカ人の人にデフレパのことを言うと「ああ!」というような"誰でも知ってる状態"を確立したのはこの頃なのではということです。この年の10月に14ヶ月に及ぶツアーが終了する頃にはアルバム売上枚数1200万枚なんいていうスゴいことになっていました。(ちなみに、このアルバムも3rd同様今でも買う人が絶えない作品なので、今でも数字は確実に伸びているものと思われます)イマイチだったイギリスでも汚名挽回の兆しがチラホラ。個人的にはこの年のバンドにとても思い入れがあります・・・

1989年 前の年にカットされていたArmageddon Itが1月末に最高位3位を記録。その後のRocketも3月過ぎまでチャートに入っていました。とりあえず前作の様に何年もブランクを開けたくないという思いから、バンドはツアー終了後、速攻アイルランドに戻って、次の作品作りに入っていて、たまにインタビューを受けることがある程度だった記憶が。←ここからは日本語訳のヒストリーが無いため、インタビュー等を参考にしています。当時彼らの口からよく言われていたことは、今度はマットとではなく、自分達とエンジニア、マイク・シップリーとアルバムを作り"Hysteria"とは全く違う方向の作品になるであろう、ということ。世界中の沢山の人が楽しみにしていたものです。

と言う訳で結局アルバム"Hysteria"からはWomen(最高80位), Animal(最高19位), Hysteria(最高10位), Pour Some Sugar...(最高2位), Love Bites(最高1位), Armageddon It(最高3位), Rocket(忘れちゃった)と7枚のシングルカットがあったのでした。このように一枚のアルバムから沢山のシングルヒットが出たため、計らずも管理人Kumaはこの時期のアメリカンTOP40モノにメチャ詳しい人間に育ってしまいました(笑)!今のようにネットがなかった頃なので、本国より1週もしくは2週遅れのチャートを日本の番組でやるのを毎週楽しみにしていたものです。

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1990年代

1990年 引き続き新作のレコーディング・・・・と当時は信じていましたが、実際のところはSteveの問題でみんなイロイロとハマっていてそれどころではなかった時期。もちろん当時は私を含め多くの人がそんなことは知らなかったわけですが。めでたい話といえばPhilと奥さんの間にローリー君が1月4日に誕生したこと。

1991年 1月8日、Steveがロンドンのアパートメントで死亡しているのをガールフレンドが発見。ドラッグも絡んでいたようですが、直接の原因はアルコール中毒。アルコール中毒という事実は、本人が隠したがっていただけに、ファンの人そのほか多くの人にとって衝撃でした。このあたりからKumaはデフレパに関して記憶喪失気味。すっかり生きる気力を失っていた暗い時代

1992年 Steveが弾くはずだったパートを全てPhilがプレイして5thアルバム"Adrenalize"が3月にリリース。ビルボードで5週連続1位を記録。アルバム発売当初は後任ギタリストはまだ決まっておらず、プロモーションは4人で行っていました。写真も4人だけで写っていたりします。5月からのツアー(最初はヨーロッパのクラブツアー)にあたって後任としてVivianが決定。その前の4月にフレディーマーキュリー追悼コンサート出演したのがVivian初お披露目。

1993年 6月に普段はスポーツ関係のイベント中心のシェフィールドのドン・ヴァレースタジアムでライヴを行い、当時コンサートとしては唯一ソールドアウトとなり、故郷に錦を飾ったのでした。6月13日には3度目の来日!仙台・横浜・大阪・広島・東京(だった気がします。違ってたらスミマセン!)で公演。この来日では仙台でJoeが客席に降りて、会場一周走ってファンを狂喜乱舞させました。また、PhilとJoeが「タモリの音楽は世界だ」という今はもちろんやってない番組にクイズ出題&"Two Steps Behind"のアコースティック演奏で出演、デフレパなんて知らないKumaの友人がジャンジャン電話を掛けてきてくれてウレシイ悲鳴、という思い出も。これでお茶の間人気が拡大したのかどうかは分かりませんが、この年Adrenalizeの日本でのセールスはHysteriaを抜いています。B面曲や未発表を収録した"Retro Active"もリリースされました。

1994年 (この年はデフレパは何をしていたかな・・・Kumaちょっと記憶喪失。情報大募集!!)

1995年 グレイテストヒッツ"Vault"リリース。地元シェフィールドにて(とはいえPhilはロンドンだし、Vivianはアイルランドなんだけど)その功績を称えられ、名誉市民として表彰されます。10月にはギネスブックに挑戦。"Three Continents In A Day"と銘打って時差を利用し、1日に3つの大陸でギグを行うという強行プロモーションもありました。モロッコ・ロンドン・ヴァンクーバーの3都市でアコースティックギグを行いましたね〜。11月には日本にもプロモーション来日して、渋谷でシークレットギグ(アコースティック)をしました!

1996年 きっと延期とかイロイロまたあるのではという心配は無用でした。5月に(通常のアルバムとしては)6枚目にあたる"Slang"がリリース6月には来日公演も!日本に来る前は韓国でも公演していました。ところがアメリカではラジオ等で曲がかかることはあまりなく、セールスではイマイチの結果に。ここでまた苦しい時代がやってきたようなヤ〜な予感←by Kuma。その辺りを考えてきっと95年あたりからアジアにも目をやるようになったのでしょうか。前の年に夫婦ゲンカがこうじて空港のトイレで奥さんの頭を壁に打ち付けるという暴力で空港警察に逮捕されたRickが告訴されるというニュースが。結局暴力撲滅キャンペーンCMみたいなのに出演したり、街の落書き消しの刑が言い渡されました。あイタタタ・・・と言う感じ。

1997年 (この年はデフレパは何をしていたかな・・・Kumaちょっと記憶喪失。情報大募集!!)

1998年 (この年はデフレパは何をしていたかな・・・Kumaちょっと記憶喪失。情報大募集!!)

1999年 6月に待望の"Euphoria"リリース!さらに9月には来日公演決定!!

と言う訳で、山アリ谷アリのバンドの歴史を簡単にご紹介しました。簡単といっても結構長くなってしまったことからも、このバンドの波乱万丈ぶりがよく分かりますね。メンバーの結婚→離婚の歴史等プライベートなことは(ローリー君のこと以外)一応ここでは書かないでおいてます。でないと、とんでもなく長くなってしまうので。そのあたりはまた別の機会にご紹介できたらなと思います。まとめながら思ったことは「本当に彼らは休んでいないな・・・」ということです。これだけ長い間バンドに身を捧げているのだ〜というのが改めて良く分かりました。JoeとかSavなんてDef Leppard勤続20年を超えてます(笑)。これから先もどんどんこのページが長くなって収拾がつかないくらいになってくれることを祈ります。頑張ってね〜デフレパ!!

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