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ライブレポート





なまものファンの皆さん、こんにちは。
日本にいるときから、ミュージカルやストレートプレイ、THE ALFEEにさだまさし、クラシック音楽、たまには野球と、
”なまもの小屋”に通い詰めていたわたくし。
ドイツに引っ越して、自分の収入がなくなったからとて、なまものに対する情熱を消すことが出来ましょうか。
……というわけで、なまもの報告です。日本で見たなまものの感想文も、古い話ですがどうぞ。



【芝居・ミュージカル】
 ミュージカル「エビータ」(劇団四季/映画)1997年

 ミュージカル「all need you is love!」(ハンブルク)2001年


【ロック・フォークのコンサート】



【クラシックコンサート・オペラ・バレエ】



------------0xKhTmLbOuNdArY Content-Disposition: form-data; name="userfile"; filename="Melody_of_silence.html" Content-Type: text/html 静寂のメロディ

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静寂のメロディ

THE ALFEE
『壁の向こうのFreedom-24th March,1989-』
『哀愁は黄昏の果てに』
          より

確かな重みを伴う振動が、全身を揺さぶる。たった今まで空中にいた飛行機は、減速しながらもその巨体を弾ませるように滑走路を走っている。決して混んではいない機内に、解放感を含んだ安堵の溜息があちこちで漏れる。
少し後ろで、舌の回らない幼い声が早口のドイツ語で何か一生懸命喋っている。それを意識の何処かで捉えながら、真緒は窓の外の夕闇をぼんやりと眺めていた。
六年にわたる長い年月を過ごしたこの街に、再び戻ってきた……何のために? 何故、この街なのだろう? 自分はこの街に「帰って来た」と言えるのだろうか?
真緒のそんな葛藤には何の関りもなく、飛行機はやがて静かに動きを止めた。国際線の乗客達は口々に自分の国の言葉を話しながら通路をゆく。考えてみればもう長いこと、相手の顔を見ながら日本語を話していない。
ゆっくりと腰を上げ、真緒も出口に向かう。別れの言葉で見送るスチュワーデスの脇を目礼ですり抜け、空港内へと歩いてゆく。何かに背中を押されて無理やり足を前に出しているかのような倦怠が体全体を包んでいる。
右肩に食い込むボストンバッグの把手を左手でかけ直す。
(俺に残ったのはたったこれだけの重みなのか)
そんな虚しさが胸を満たし、息苦しさに襲われてうつむいたとき、ふと懐かしい声が呼びかけてきた。
「マオ」

真緒は顔を上げ、声の方を見た。柵の向こうで小柄な黒髪の女が手を振っていた。
「萌」
真緒は口の中で呟いた。彼女は、柔らかく微笑んで真緒を見つめていた。真緒がゲートに進む間、ずっと真緒を見ていた。
ゲートを抜けると、真緒はゆっくりと萌の方に向かって歩いた。萌は小走りに近寄ってきて、真緒の前に立った。
「お帰りなさい」
萌の声は優しかった。その優しさが胸を突き、何かが崩れ落ちそうな気がした。
「……終わったよ」
真緒は小さく呟いた。萌は、静かに首を横に振った。
「髪が伸びたのね……」
手を伸ばして真緒の髪に触れ、そのままそっとサングラスを取る。
「見せて……」
決して泣いていた訳ではないのに、目が充血しているような気がして、照れ臭くて真緒は目を伏せた。萌は左手でサングラスを持ち、右手でそっと真緒の顎に触れた。
「ねえ、私を見て。笑って」
言われるまま笑顔を作ろうとして口元をこわばらせ、真緒はただ立ち尽くす。今まで自分が彼女に強いたことの数々が、脈絡なく頭の中を回転し、とてつもない罪悪感が胸を締めつける。
そんな真緒の心中を見透かすように、萌は微笑んだまま小さな溜息をついた。
「行きましょう」
二人はゆっくりと、タクシー乗り場へと並んで歩き始めた。真緒の手が、萌の手に軽く当たる。真緒は無意識にそっと掴んだ。冷たい指が握り返してきた。少し震えていた。萌もためらいと不安を抱いている、それをその手の震えに感じ、自分と彼女との距離が少しだけ近づいたような気がした。
タクシーに乗ると、萌はかすれ声で、しかしはっきりとしたドイツ語で運転手に行き先を告げた。タクシーが発進する。無言のまま、二人はシートに身を沈めている。
どんな顔をして萌に会えばいいのだろう、そんな戸惑いが、あまりにも自然な萌の微笑みに行き場を失ってしまったようだ。視界の端に、萌の髪が揺れるのを捉え、そう言えば萌は髪を切ったのだな……そんなことに今更気づいた。
窓の外を、見慣れたベルリンの街が、当たり前のように過ぎ去っていく。真緒の葛藤を笑い飛ばすように。
二年前のあの日も、自分はこうしてタクシーに乗っていた。ある記憶が、痛みと共に脳裡をよぎる。

あの日は一人でタクシーに乗っていた。
「急いでくれ」
ぶっきらぼうに運転手に告げ、焦りを必死で押さえながら坐っている真緒の心の中では一つの言葉が渦巻いていた。
(どうして、今こんなときに)
十分前、真緒は一本の電話を受けていた。萌が働いている新聞社の同僚の女性が、スペイン語なまりのドイツ語で「モエがついさっき倒れて病院に運ばれた」とまくし立てていた。
「イザベルはアクションが大袈裟なのよ」
萌はいつも彼女のことをそう笑っていたが、突然激しい腹痛を起こして倒れたと取り乱した声で訴えるその様子からは、決して楽観できる事態ではないのだろうと推察できた。
(どうして……こんなときに)
前のシートの背もたれに拳を叩きつけたい衝動を理性で抑えつつ、真緒は唇を噛む。どうして、こんなときに。
やがて、タクシーは病院の前に滑り込んだ。料金よりも少し多めの札を運転手に押し付け、病院に駆け込む。受付で
「さっき運ばれた、サワグチモエはどこにいるか」
と急き込んで尋ねると、手術室の前に案内された。
とてつもなく長く感じられた三〜四十分の後、萌は着せられているシーツと見分けのつかぬほど蒼白な顔でストレッチャーに乗せられて出てきた。
「萌」
呼びかけたが彼女は目を閉じたままだ。その後から出て来た医者が、
「家族の方ですか」
と声をかけてきた。真緒はそうだと答えた。
「手術は成功です。安心してください」
大柄で赤ら顔の医者は、そう言って微笑んだ。多くの患者やその家族を安心させてきたであろう、暖かい瞳だった。しかし真緒の焦燥は、別のところにあった。もちろん萌が心配でなかった訳ではないが、それだけではなかった。
麻酔が醒めたら、大きい声で名前を呼んで話しかけるようにと看護婦に言われ、病室に二人残されると、真緒は窓辺に立ち、中庭を眺めた。じりじりするような苛立ちで居ても立ってもいられなかった。煙草を吸う人ならこういう時に吸って少しでも心を落ち着かせようとするのだろうが、真緒には煙草を吸う習慣がなかったし、どちらにしろ病室で吸う訳にはいかなかった。
「真緒……」
か細い声に、はっとして振り返ると、萌がうつろな目で真緒を見ていた。
「萌」
真緒は急いで、萌の枕元により、その手を取った。そして看護婦の注意を思い出して、大きい声で話しかけた。
「萌。どう? 気分は……」
「駄目だったのね……赤ちゃん」
「気付いてたのか」
萌は目だけで頷いた。
「子宮外妊娠だったそうだよ」
「そうなの……」
小さな溜息をひとつついて、萌は呟いた。
「すごく痛かったのよ。体をいきなり雑巾みたいにぎゅっと絞られた感じ。死ぬかと思ったわ……」
「もう大丈夫だよ。さっき、お医者さんがそう言ってた」
「そう……」
萌の冷たい、力のない指が、真緒の指を玩ぶ。
「ごめんね……」
「どうして謝るの」
「こんなときに倒れるなんてって、思ってるでしょう」
「それは……君のせいじゃないから」
萌は答えなかった。
「いつから気付いてたの……?」
「自分の体だもの。わかるわ」
「どうして黙ってたんだ」
「言ってもどうにもならないと思ったのよ」
「どうにもならないって……だって、二人の問題じゃないか」
形通りそう返しながら、真緒は
(確かに、言われてもどうにもならなかった)
と納得せざるを得なかった。
来週から、真緒は単身でパリに行くことになっていた。

二人が出会ったのは、ベルリンの短い夏が終わりかけた頃だった。北の街に冷たい風が吹き始めていた。
その頃ベルリンは、まだ二つの区域に壁で隔てられていた。その壁に囲まれた街で、二人は運命に引き寄せられるように出会った。真緒は音楽大学の作曲科の学生で、萌は語学留学生だった。二人はすぐに恋に落ちて、長い冬が終わりに近づいてきた頃には結婚を決めていた。萌の留学期間は終わり、帰国予定が迫っていたが、二人は離れられなくなっていた。家族はとにかく帰国するように散々説得したが、萌は帰ろうとしなかった。
「今家に帰ったら、二度と戻ってこられなくなるような気がするの」
確かに、先の保証など何にもない音楽家の卵と、自分の娘がしかも遠い異国で結婚するなどと言ったら、両親は萌を軟禁してでもドイツに返さないだろうということは見当がついた。
萌の両親はついに娘を連れ戻しにベルリンまでやって来た。両親は怒り、泣き、萌を引きずるようにして連れ去ろうとしたが、萌は聴こうとしなかった。最後には真緒が彼らの前で土下座して許しを乞い、漸く彼らは諦めて帰って行った。
「私達の娘は、悪い新興宗教にでも取られてしまったんだ。この世にいないものと思うことにする」
萌の父はそう言い残して、まだ泣きじゃくっている妻と一緒に出て行った。
冷たい霧雨の降る日だった。真緒と萌は、傘も差さずに街に出て、手をつないで壁づたいにゆっくりと歩いた。萌は、強く強く真緒の手を握りしめていた。一人娘の萌がどんなに両親に慈しまれ、可愛がられて育ってきたか、真緒は彼女の言動の端々から感じていたし、実際に彼らに会ってそれを確信してもいた。真緒の肩には、萌に自分のせいで親子の縁を切らせるようなことになってしまったという責任が重くのしかかっていた。
それでもよかった。世界中を敵に回しても、萌が欲しかった。
しかし、萌も同じことを感じていたのだろうか? 実際に世界を敵に回してしまったのは、萌の方だったのだ。生まれてこの方、自分の最大の味方だった両親と訣別し、真緒と一緒にいること以外何の必然性も持たないこのベルリンの街で、真緒だけを頼りに生きていくことを決めた萌。壁に囲まれ孤立してしまったのは、萌だった。
三月の終わりのあの雨の日のことを、二人は一生忘れることはないだろう。つなぎあった互いの手の感触のほか、確かなものは何もないような気がしたあの日。雨に濡れるまま、声も立てずに泣いていた萌。一番欲しかったものを手に入れたはずなのに、脆い氷の上を歩いているかのような不安。言葉もしっかりとは通じない、祖国から遥か遠く離れた壁に囲まれた街に取り残されることを選んだ二人。
萌は、学生時代からのアルバイトである、現地の新聞社での翻訳の仕事に加え、旅行者の通訳やガイドなどで自分の生活費を稼いだ。まだ学生だった真緒は、自分ひとりがやっていくだけの奨学金しか持っていなかったのだ。
真緒は今迄に増して精力的に勉強した。作曲に没頭し、ふと我に返ると、真空状態の世界に自分だけが取り残されているかのような気持ちになることがあったが、そんなときでも振り返ると萌が優しく微笑んでいて、安らいだ気持ちになれた。たくさんの曲を作り、コンクールにもできる限り出品したが、いつもいいところまで行くものの、賞は全然取れなかった。
曲が出来るとすぐ、ピアノで弾いて萌に聴かせていた。萌はいつも
「素敵な曲だわ。あなたってどうしてこんなにきれいなメロディーが書けるのかしら」
などと褒め、時には涙して聴いてくれていたが、コンクールで結果を出すことはできなかった。
やがて真緒は、萌の賛辞を疎ましく思うようになった。いくら彼女が褒めてくれても、専門家には評価されない。所詮、萌は素人なのだ。
しかも萌は自分を愛している。そんな傲慢な心があったのだろう。自分の作るものなら何でも褒める様な人間に聴かせても虚しいだけだ。いつの間にかそんなひねくれた思いが真緒の中で育っていた。
「ねえ、最近曲を作っていないの?」
ある日夕食のスープを飲みながら、萌はさりげなさを装うように問い掛けてきた。
「作ってるところ見てるだろ」
「だって……。全然聴かせてくれないじゃない」
「君に聴かせても入賞する訳じゃないからな」
萌は、かちゃんと音を立ててスプーンを皿に置いた。
「何よそれ? 私に聞かせても何の得にもならないってこと?」
「君が褒めてくれても曲がよくなきゃ意味ない」
「どういうこと? 素人にはあなたの音楽は解らないって言いたいの?」
「解らないとは言ってない」
「だってそうでしょう? 私に聴かせても意味がないと思うから聴かせないんでしょう? あなたの高尚な音楽は、コンクールの審査員をするような偉い先生じゃなきゃ聴く価値がないと言いたいんでしょう?」
自分の言い方が悪かったことが、さすがの真緒にももうわかっていた。アメリカ映画の登場人物ならこういうとき、「僕が悪かった、言い過ぎたよ」などとすっと謝るのだが、悲しいことに真緒は照れ屋で頑固な典型的日本人の男で、たった今自分が口に出したことをすぐに撤回することなどできなかった。萌は真っ赤になって怒っている。
「どうせ私はあなたの音楽のほんとのところを理解できないようなずぶの素人よ。でも、私だって何の考えもなくあなたの曲を聴いてるんじゃないわ。ただあなたを喜ばせようと思って褒めてる訳でもないわ。私は私なりにあなたの曲が好きだから聴きたいのよ。それじゃいけないの? 仮にコンクールの審査員があなたの曲にいい点をつけてくれなかったからって、それであなたの曲の価値は下がるの? 私がいいと思ってても意味はないの? 私がいいと思っただけじゃ駄目なの? それじゃ、あなたは? 私があなたを愛してることにも意味はないの? 私、何のためにここにいるの? あなたを愛してるからこの街にいたいっていう私は間違っているの?」
萌は立ち上がってテーブルに手を突き、泣きながら真緒を詰問した。真緒は何かたまらなくなって席を立ち、泣きじゃくる萌を強く抱き締めた。それ以外にどうしたらいいか判らなかったし、いつも気丈で明るい萌が子供のように全身を震わせて泣いている姿がたまらなく愛おしくなったからでもあった。
どうして自分は萌をこんなに悲しませているんだろう。ここでは、互い以外に支えになる存在はないというのに……。
しかし、一方で、どんなに強く萌を抱き締めていても、孤独感は日に日に募っていった。作曲という自分だけと向き合うような作業を真緒が自らに課していたということも原因の一つだったのかもしれない。萌との生活は楽しかったし、もちろん萌だけを愛していた。これから先もそうだろうと思えた。それでも、心の底から湧き上がってくる寂しさはどうにもならなかった。
目の前に萌がいて、自分に向かって微笑んでいる。毎日楽しげに、仕事であった話を話して聞かせる。街でおいしそうで安いケーキを見つけたと言っては喜び、夕日がきれいだったと言ってははしゃぐ。そんな陽気な萌を見ていると、自分の孤独感が彼女に投影されるようで、やり切れなくなることがある。そんなとき真緒は、無愛想に自分の部屋に引っ込んでしまう。萌は
「仕方ないわ、芸術家は気難しいものだから」
と諦めているらしかった。イザベルに電話でそう話しているのが聞こえた。
やがて真緒も音楽大学の卒業の時期を迎えた。しかし、作曲で食べていくことはできそうもなかった。真緒は外国人学校の音楽の教師として、新学期から働くことになった。
不本意ながらも教師としての仕事を始めた頃、市民の手によって、西ベルリンを包囲していた壁が取り壊された。真緒と萌は、その現場を見に行った。長いこと不自然な力で抑圧され隔てられ、自らの手で自由と解放を手にした街の人々の激しい喜びに溢れたパワーと歓声の喧騒の中で、二人は堅く手をつないで立ち尽くしていた。
「Freude, shoener Goeterfunken, Tochter aus Elysium……」
萌が小さな声で口ずさむ。しかしその声も表情も虚ろだ。二人は今、痛いくらいに感じていた。自分が異邦人であることを。この歴史的大事件の場に居合わせ、立ち会っているにも関らず、それが二人にとっては所詮外国での出来事に過ぎないのだ。
自分達が透明人間になったようだった。駆け抜けてゆく人々、歴史の激流、みんな二人の体を素通りしてゆく。人いきれに酔ったのか、萌がふらつく。真緒が萌の腰を抱きかかえて支えると、萌は両腕を真緒の体に絡めてしがみついてきた。二人は抱き締めあったまま、街の変わりゆく様を凝視していた。互いのぬくもりにすがりつくことで自分の存在を必死で確認するかのように。

「準備はすべて整ったの?」
ベッドから半身を起こして昼食を摂りながら、萌は何気ない調子で尋ねてきた。
「準備?」
「もうあと五日しかないでしょう。手伝ってあげられなくて悪いわね」
「行かないよ」
丸のまま緑色のリンゴをかじりながら、真緒はか細い声で言った。
「君を残していく訳には行かないよ」
「何言ってるのよ今更」
萌は笑った。
「そんなこと、もうとっくにケリがついた話じゃないの」
「事情が変わっただろ?」
「私はもう大丈夫よ。しばらく安静にしていれば、回復するわ。お医者さんもそう言ってたでしょ、術後の経過は良好だって」
「そりゃそうだけど、こんな状態で君を一人にする訳には行かないだろう」
「それで、私は『あの時何故行くのをやめてしまったのか。こいつさえ倒れたりしなければ』って私を見て後悔し続けるあなたとずっと生活するというの? まっぴらね」
まだ血の気がすっかり戻ってはいない萌は、青白く透き通るような細い指に持ったスプーンで、食器の中をかき回しながら、小さな声できっぱりと言いきった。
「だって今回のことは、僕のせいでもあるんだし……」
「責任を感じてるって訳ね」
「それもそうだし、だいたい君が病気なのに一人であんな遠くまで行けないよ」
「それで耐えられるの? あなたは少し、感傷的になっているのよ。今私を残していったら後味が悪いと思ってる。でも、もしそんな一時の感傷に流されてチャンスを諦めたら、一生後悔するわ、きっと」
萌の淡々とした口調に、真緒はふっと不安になった。
「寂しくないのか……俺がいなくなっても」
 萌はふっと溜息をついた。
「寂しいとか悲しいとか辛いとか……そんな思い、とっくに決着をつけてしまったわよ……」
その後、二人はずっと黙ったままでいた。萌はもう、皿に半分ほど残ったシチューを食べる気はなくなってしまったようだった。
どちらかというと感情の起伏の激しい方の萌が、あの頃はとてもクールだった。その変化に、真緒は気付いていなかった訳ではなかった。しかしそんな彼女を気遣う心の余裕がなかった。
ふと、いつかの夜、萌が泣きながら真緒を抱き締めて
「お願い、神様……真緒を助けて……」
と呟いていたことを、頭のどこかで思い出していた。

音楽教師を始めて、もうすぐ三年経つという頃、真緒の元にあるニュースが飛び込んできた。
とある高名な作曲家が、パリの音楽学校の作曲科主任教授に就任することになった。そこで、真緒を彼のスタッフの一人として加えてもいい、という申し出だった。教授は、真緒が出品していたいくつかのコンクールの選考委員を務めており、真緒の作品と才能にかねてから注目していたのだと言った。
真緒にとっては、暗闇の中に希望の光明を見たような出来事だった。このまま俺は子供相手の音楽教師として一生を終えるのか、そんな焦燥がだんだん諦めに移行しそうになっていた頃だった。
時には萌に、些細なことで声を荒げたりすることもあった。初めは真っ赤になって言い返していた萌も、次第に瞳の奥に寂しい色を湛えてじっと真緒を見つめるだけになっていった。そんな萌の態度が、いっそう真緒を苛立たせた。
「あなたにとって、今の仕事が本当にやりたいものではないんだってことは解るけど」
ある日萌は、見兼ねたように真緒に話しかけた。
「でも、あなたのしてる仕事は人の役に立つことだし、大切な仕事なのよ。それには誇りを持っていいと思う」
「君に何が解る? 俺が今してる仕事は確かに、誰かがやらなきゃならないものかもしれないさ。でも、俺がやらなきゃいけないものではないんだ。なんのために日本を出てこんなところまで来て、長い間勉強して来たんだ!? 子供相手に、合唱だのリコーダーだのを教えるためじゃない。君にしたってそうだろう。君の仕事だって、ドイツ語と日本語のできる人間なら誰だってやれる仕事だろう。虚しさを感じたことはないのか!?」
萌は、悲しげな瞳で真緒をみつめた。
「確かに、あなたにとっては、私のような凡人は理解しがたく思うでしょうね。私もあなたが羨しいわ。一生をかけてもいいと思えるものを持っているなんて。自分の才能と夢を信じていられるなんて。でもね、あなたみたいな人は、『選ばれてあるものの恍惚と不安と二つ我にあり』なんて言い切れる人は、世の中にほんの一握りしかいないのよ。大抵の人間は、掌に収まるくらいのサイズの幸せを守るためにささやかに生きてるの。……そうね、私も子供の頃は、自分が選ばれた人間だと信じて疑わなかった。なりたいと思うもの全てになれると思ったわ。まず、バレリーナになりたいと思ったけど、バレエ教室の友達の中でもそれほどうまい方ではお世辞にもなかった。ピアノも習ったけど、へたくそだったし、あなたみたいな技術や表現力は一生かかったって身に付かないことはよくわかってる。スチュワーデスは身長が足りなかった。勉強はできる方だったけど一生をかけるほど打ち込める学問はなかった。大学でドイツ語を専攻したんだって、高校時代リートが好きで原語で歌ってみたいって思っただけの軽い気持ちだったし、ドイツ語留学したのも、別に何か大きな目標があったわけじゃなくて、面白いな、もう少し本格的に勉強しておきたいなと思ったから。でもね、あの時気紛れな理由だったにせよドイツ語を専攻して、留学までしようと思ったのは、ここであなたと出会うためだったんだなって、私本当に思ったのよ。こういう運命だったんだなって。私はそれだけでもとっても幸せだと思ってる。平凡な仕事をして、ささやかな収入を得て、愛する人と一緒に暮らして、時にはおしゃれしてコンサートに出かけたり、レストランでおいしいお食事したり、私の幸せってそんなものなの。世の中の大抵の人はそうなのよ。あなたみたいに自分のやるべきことを見つけられる幸運な人はほんの僅かなのよ」
萌の話は、今の真緒の辛さとはなんら関係のないことだった。そんなことを訊いているんじゃない……そんな気がして、むっつりと黙り込んだ。萌は小さく息を吐いて、独り言のように呟いた。
「やっぱり、私とあなたは住む世界が違うのかしら……」
真緒には、そうだともそうじゃないとも言う気力がなかった。ただ、孤独感が全身を支配していた。一番自分の近くにいるはずの萌が、遠い存在に感じられた。二人の間にはガラスの厚い壁があって、手を伸ばせば届きそうなのに決して触れ合うことができないような気がした。萌がガラスの向こうで何か喋っている、その口の動きは見えるけれど、声は届かない。真緒の声も萌には届かない。萌の存在が、その頑丈なガラスの壁を真緒に強烈に意識させる。もう萌を愛していない訳ではなかった。しかしだからこそ、どうにもならない寂しさが拘禁服のように真緒の体を締めつける。なぜ、自分は萌と暮らしているのだろう? 萌と自分との関係とはいったい何なのだろう?
会話も笑いも減った、冷めきった紅茶のような家庭にいたたまれなさを感じ始めた頃、パリ行きの話は舞い込んできた。真緒にとっては渡りに船だった。
 真緒がそのことを告げると、萌はほっとしたように微笑んだ。
「素晴らしいチャンスじゃない。もちろん行くんでしょう?」
「ああ……。そうしようと思ってる。ただ、そうすると……」
「私を連れていくことはできない?」
 真緒が何と切り出そうかと思っていた言葉を、萌は率直に口にした。
「……ああ」
「そうね……。その条件じゃ、あなたが一人で生活するのが精一杯だろうし、私もフランスじゃ、語学を生かして働くこともできないし……仕方ないことね」
「いいのか? 俺、一人で行ってしまって……」
萌は微笑んだ。
「一生そのままって訳じゃないでしょう?」
真緒は返答に詰まった。この息詰まるような生活。萌を愛していない訳ではない、その筈だけれど、こんな状態で果たしては二人でやっていけるのだろうか?
そして、やっていけるかどうかもわからないのに、萌を待たせておけるだろうか?
「……萌」
「ん?」
テーブルに頬杖を突いて明るく聞き返してきた萌に、真緒は少し苦しげに言った。
「帰ってもいいんだよ……日本に」
萌の顔から、笑顔がふっと消えた。
「どういうこと? 私と別れるっていうこと?」
「そういう訳じゃないけど……。俺が一人でパリに行ってしまったら、君がここにいる理由はないだろう? いつまた二人で暮らせるようになるかわからないし……」
言葉を失った様子で、萌は視線を泳がせている。
「俺の事情で、君をここに縛りつけておく権利はないし……」
 何を言っているんだ。もう一人の自分が、真緒の肩を掴んで揺さぶる。何をいい人ぶっているんだ。本当は、萌から離れたいくせに。逃れたいくせに。ここに萌を残していると、鎖に繋がれているような気がする、それが嫌だというのが本心の癖に。
それじゃあ、そうはっきりと萌に言えというのか? そんなことを言って、萌を余計傷つけろというのか? そんなことにどんな意味がある?
後ろめたさと開き直りとが葛藤し、真緒も黙り込む。いたたまれない気持ちで真緒は立ち上がり、キッチンでコーヒーを沸かす。萌を日本に帰したら、萌の両親は今度こそ自分たちの元から離そうとはしないだろう。二人は入籍していないし、萌はまだ若いのだから、お見合いででも結婚させようとするかもしれない。日本に住む、もっと堅実な職業の、安定した生活を保証する男と。
それでいいのか? わからない。良くないのかもしれない。しかし、現実問題として今、真緒には仕事と萌と両方を抱え込むことは無理だった。
コーヒーを淹れ、二人分のカップを手にテーブルに戻り、萌の背後から、一つを彼女の前に置くと、萌はテーブルを見つめたまま口を開いた。
「私がこの街にとどまったのは、あなたに言われたからじゃないのよ」
「え?」
「もしかしたらあなたが、私に『ここに自分と一緒に残ってくれ』って言ったこともあったかもしれないわ。でも、私はあなたがそうしてくれというからその通りした訳じゃないの。私がここに残りたかったから、そうしたのよ」
「……うん」
「だから、私が日本に帰ろうがここに残ろうが、全く別の国へ行こうが、私の自由よ。そのことについて今迄あなたに指図された憶えもないし、これからもそうよ。もしかしたら帰るかもしれないし、ずっとここにいるかもしれないけど、どちらにしても私が自分で決めることだわ」
「うん」
「だから、あなたは自分のことだけ考えていればいいわ。私はこの街にずっといるかもしれないし、日本に帰るかもしれないし、国内の他の町に行くかもしれないし、他の国に行くかもしれないし、気が向いたようにするわ。いいでしょう?」
「……うん」
急に何だかとても辛くなって、真緒は手にしていた自分のコーヒーカップをテーブルに置き、萌を後ろから抱き締めた。萌は、自分の胸の前に回された真緒の腕に両手でしがみついた。
「ねえ……。私を、今も愛してる?」
萌は囁いた。
「愛してるよ……」
「信じてていいのね……?」
「ああ……」
それだけは嘘じゃないと、真緒は自分に言い聞かせていた。一緒に暮らすのが苦しくても、愛情がなくなったわけではないと。かつて、萌が自分の心のよりどころだと無邪気に信じていた時代があった。萌さえいれば生きていけると感じていた。でも、たとえ形は変わっても、萌の手を放すことになっても、萌を愛さなくなった訳ではないと。……
 しかし、そんな真緒の思いを嘲笑うように、その夜宿った命は萌をひどく傷つけて流れてしまったのだった。

二人がタクシーを降りると、もうすっかり日が落ちていた。昔よく二人で行ったレストランの前だった。それほど頻繁に訪れることが出来るわけではなかったが、二人の誕生日の時など、特別な日はここと決めていた。真緒がベルリンを発つ前夜もここに来るつもりだったのだが、萌が入院していたので結局病院で過ごすことになった。
「変わってないな」
「そうね」
 萌は、真緒の腕に自分の腕をからませた。萌の髪の香りが、出会ってまもなくのときめきを思い起こさせた。
「あなたと以外、一度も来てないのよ」
萌が楽しげに囁く。
店に入り、萌が
「ヨシザキです」
と真緒の姓を告げる。
「ヨシザキご夫妻、お待ち申し上げておりました。どうぞこちらへ」
柔らかい照明に包まれた店内を席に案内される。カルテットが静かにブラームスを演奏している。白ワインの冷たさが、喉を通る瞬間、真緒のさまざまな罪を許してくれるような気がして、ふっと緊張がほぐれた。
キャンドルの光に照らされた萌は、何だか幸せそうな表情で真緒を見つめていた。
「夢みたいね……」
萌が呟く。
「夢?」
「あなたとまた、こうして一緒にいられるなんて」
真緒は胸を突かれた。最近、こんな暖かい目で自分を見てくれた人がいただろうか? 自分のすべてを無条件に許してくれるような、慈愛に満ちた眼差を自分に向けてくれる人がいただろうか?
「……こうやって、君を見ているだけで、幸せだと思えた時期があったんだな」
かすれ声で、真緒は呟いた。
「どうして忘れていたんだろう?」
出会った秋のことを、真緒は急速に思い出していた。とりとめもないことを囁き合いながら、歩き続けた石畳の上。菩提樹やポプラや栗の落ち葉を踏みしめて、森のようなティアガルテンをゆっくりと歩いていると、世界に二人だけ残されたような気がしたものだった。不意に木陰から飛び出してきた人懐こい犬と戯れる萌を眺めながら、後から来た飼い主の老人と微笑み合い、無邪気な萌に心の底から愛しさを感じたりもした。塀の向こうに立っているブランデンブルク門を、黙って見上げていたこと。大聖堂の鐘を聞きながら肩を抱いて、二人の将来に思いを馳せていた夕暮れ。石造りの橋の上で欄干にもたれて川面を見つめながら、他愛もないことで笑いあった日。隣にいる萌が、自分の体の一部であるような、生まれる前から一緒にいたような、一人でいるよりも二人でいるほうが自然であるように感じるときもあったし、自分の考えもしないような言動を取ったりする彼女から大きな刺激を受けることもあった。曲想は次々に溢れ、帰宅すると譜面に書き留めるのももどかしくピアノで弾いて聴かせる。萌はピアノに頬杖を突いて聴き入っている。萌に対する想いと同じように、メロディも尽きることがなかった。
そうだ。あの頃は、作曲が楽しくて仕方なかった。萌と居るのが自然なように自然に曲も出来たし、萌と出会えたことが奇跡だと感じられるように、奇跡のように次々と曲を生み出していた。
「いつからだろうな」
「何が?」
「作曲が苦痛になってしまったのは」
「そうね……」
ナイフとフォークを置いて、萌は頬杖を突いた。
「出会ったころは、あなた……本当に嬉しそうに、楽しそうに、曲を書いていたわ。コンクールなんか関係なく。あなたが曲を書いているのを見ているだけで、私まで幸せな気分になっていたわ。でもだんだん、こんな顔するようになって」
萌は、眉間に深く皴を刻んだ難しそうな顔をして見せた。
「ベートーベンみたいだったわ」
「ベートーベンか」
真緒は笑った。久し振りに笑ったような気がした。
「顔だけ似ても、才能がついていかなきゃ、単なる人付き合いの悪い気難し屋だな」
「とっても辛そうで、痛いくらいだった……。だから私、パリ行きの話が出て、嬉しかった。しばらく私と離れて暮らさなきゃならなくても、作曲する喜びをあなたが思い出して、昔みたいに幸せな顔で曲作りに励めるようになるなら、私たちの……関係も、修復できるような気がしてた……」
「俺も、あの頃、息苦しくて……何もかもうまくいかなくて、毎日が虚しくてもどかしくて、パリに行けば全てが好転するように思い込んでいたのかもしれないな。今思えば……ただ、あの閉塞状況から抜け出したかっただけなのかもしれない」
「パリではどうだった? いい曲が作れた?」
真緒はゆっくりと首を振った。
「駄目だった……。何も変わらなかったな」
萌と離れて遠くに行けば何とかなるなどという、そんな単純な問題ではなかった。自分を見いだしてくれた教授に応えなければならない、自分がここにいる意義を示さねばならないという焦りばかりが先に立って、ますます追い込まれていくばかりだった。だが言葉も通じず、心が通う人もいないという状況で、曲の題材すら見つけることが困難だった。創作活動する心のゆとりなどもてなかったのだ。教授が失望していくのが、手に取るようだった。焦れば焦るほど、もがけばもがくほど、泥沼に沈み込んでいくのが自分でも判ったけれど、為す術が見つからなかった。
二ヶ月前、教授が脳溢血で倒れて急死した。それによって、真緒の居場所もなくなり、パリを去ることになったのだが、教授が倒れなくても遅かれ早かれこのような結末が待っていたのかも知れなかった。
「でも、少しほっとしているんだよ」
「ほっとしている?」
「俺は、あそこにいても駄目だってことは、もうずいぶん前から気付いていたんだ。だからといって、その場で辞表を出して去る勇気は俺にはなかった。もしかしたら、まだどうにかなるかもしれない、ある朝目が覚めたら光明が見えるかもしれない。そんなふうに自分に思い込ませて、惰性のように毎日を過ごしてた。教授の恩に報いることが出来なかったのは心残りではあるけど……自分で決断しないまでも、やっぱりいつか結果的にこういうことになるだろうって想像はついてた。だから、今後お前の席は学院内にはないと通告されたとき、来るべき審判がやっと下ったような気がして、ある意味肩の荷が下りたんだ」
「作曲をやめてしまうの?」
「それはわからない。でも、少なくとも俺の居場所はきっと、あそこにはなかったんだよ」
俺の居場所……では、いったい、それはどこにあるのだろう? このベルリンか? 生まれ故郷の東京か? それとも、まだ見ぬ別の場所なのだろうか?
そして目の前の萌の居場所はどこなのだろう? 学生時代に気軽に留学してきて、真緒と出会い、そのままずっとベルリンに住んでいる萌は、この街に安住の地を見いだしているのだろうか?
音楽院を去ることになって、真緒は恐る恐る、ベルリンで萌と一緒に暮らしていた部屋の電話番号を回した。正直言って、萌が出てくるとは思わなかった。自分が萌のことを考える余裕もなく暮らしていたこの二年間、萌だって自分を待っていてくれる筈はない。この電話が通じなかったら、すっぱり気持ちを入れ替えで、自分の身の振り方を考えなければならない。そのために、背中を押してもらうようなつもりで、電話をしたのだった。
思いがけず、三回コールしたところで出てきた相手は萌だった。昔と変わらない、屈託のない明るい声だった。
萌はニュースで、教授の死去を知っていた。そして、何でもないことのように
「帰ってくるんでしょう?」
と言った。
それがあまりに自然な調子だったので、真緒は思わず「うん」と言ってしまった。それで、戸惑いを抱えながら再びこの街に帰ってきた……。
「私、あなたに作曲をやめて欲しくないな……」
「何故?」
「あなたの曲のファンだからよ」
萌は、真緒の目をまっすぐ見て、微笑んだ。
そうだった。真緒も、萌のために曲を書いていた時代があった。自分の一番のファンのために。そして、萌は真緒にとって、発想と創造の泉のようだった。萌のことを考えているだけで、いくらでも曲が書けた、そんな日があったのだ。
「忘れてたのは、そのことだったんだな」
真緒は呟いた。萌は明るい調子で
「そうよぉ、私が世界で一番あなたの新曲を楽しみにしているんだから」
と言って、ワイングラスを差し出した。真緒も、グラスを持ち上げた。チンと澄んだ音が響く。
食事を終えると、二人は昔よく行ったカフェで酒を飲んだ。萌は、近況を話した。……イザベルに、子供が生まれるのよ。彼女結婚したのか? そう、あなたは知らなかったわね、去年結婚したのよ。ドイツ人と? そうドイツ人よ。フリードリッヒっていうの。図書館の司書なのよ。じゃあ、二人は図書館で出会って? そう、イザベルより二歳年下なんだけどね、一見司書って言うよりもフットボールの選手みたいに大きくてがっしりした人なのよ。彼は、司書は本を運んだりもするから半分は肉体労働者だって笑ってたけど。でね、フリードリッヒが私に子供をくれたのよ。え? 子供? フリードリッヒの? そう、ホワイトテリアの子供、可愛いのよ。ああ、犬の子か。びっくりした。あ、私、子供って言ったわね。まるで自分の子供みたいな気がするんだもの。溺愛してるの、私。
自分の子供みたいな……その言葉が、真緒の心に突き刺さる。
「とっても人懐こいいい子なのよ、甘えん坊だけど。アマデウスっていうのよ。あなたにもきっとなつくと思うわ」
萌は幸福そうに笑った。
カフェを出たのは、もう深夜だった。周囲の店からは、まだ灯が漏れ、陽気なドイツ人達の笑い声が響いている。二人は、どちらが言い出すともなく、腕を組んでゆっくりと道を歩いた。
凛と冴えた夜の空気の中に、白い月が冷たく輝いている。真緒は、安心しきっているように自分に肩を預けて歩いている萌のぬくもりと重みに、戸惑いを感じていた。いいのだろうか? 自分には、また、彼女の愛を享受して生きて行く資格があるのだろうか? 病身の彼女を放り出して行って、二年間も、何の連絡もせずにいた挙句、こうしてすべてを失って負け犬のように戻ってきた自分を、何故、何も言わずに受け止めてくれるのだろう?
「……ひどい男だと思ってるだろうな」
「え?」
「俺……今更、こんなことを言っても遅いけど……」
「そうね」
萌は、真緒の目を見上げて、それから前を向いて髪をかき上げた。
「イザベルも、会社の人たちも、隣のシュミットさんも、みんな憤慨していたわ。どうしてそんなひどい男を許すのか。日本人の女は男に従順だと聞いているけれど、限度というものがあるだろう、とかいろいろ」
「そうだろうな……」
いつしか二人は、ブランデンブルク門の裏側に来ていた。昔はここに、壁が立っていた。今ではもちろん、ここから門の向こうのパリザー広場も、そこから東へ一直線に伸びているウンター・デン・リンデンの大通りも、はっきり見える。
二人は出会ったころのように、ここで立ち止まって、後ろから門を見上げていた。
「ここに壁が建っていたなんて、嘘のようね」
「ああ……」
「でも、私は解っていたから」
「え?」
「あの時あなたは、ああするより他になかったのよ」
「……」
「ほんと言うと、私、あなたについて行くことも出来たと思うの。お金の問題なんて些細なことだもの。でも、あの時のあなたは、きっと一人になることが必要なんだろうなって、私思ったから」
「君は、俺のことをよく理解しているんだな」
「あなたはいつの間にか、高い壁を作ってしまっていたの。自分の周りに」
「壁か……」
 二人は、ゆっくりと並んで門をくぐった。
「君との間に、厚いガラスの壁が出来てしまったようだった。君の姿は見えるけどどうしても声が聞こえなかった……」
「ガラスの壁じゃないわ。マジックミラーの壁だったわよ」
「マジックミラーの壁?」
「そう。あなたは、マジックミラーに囲まれた空間で、自分の姿しか見えなくなってたのよ。壁の外には、私も、他の人たちもいて、美しくて楽しいことが溢れているのに、あなたは自分の姿だけが四方の壁に反射して自分の姿だけが無限に見える場所で、うずくまっていたわ。私、外からそんなあなたを見ていて、一生懸命声をかけたわ。私はここにいるのよ。あなたは独りっきりじゃないのよって。でも、あなたはどうしても気付いてくれなかったわ。壁越しに私と顔を合わせていても、あなたは自分の苦しんでる顔しか見ることが出来なくなっていたんだもの。だから私、あなたは今ここにいても駄目なんだろう、もしかしてパリに行けば、何かのきっかけで壁を壊すことが出来るかもしれない……って思ったの。壁を壊すことが出来るのは、あなた自身なのだから、私はそれを待っていようって思ったの」
「俺が絶対帰ってくるって、思ってた?」
自分でも、あの時、この街に帰ってくるかどうかわからなかった。パリで仕事が軌道に乗ったら萌を呼び寄せることが出来るのか? それすら、曖昧だった。先のことなど何も考えられなかった。萌の言う通り、ひたすら鏡に写った自分の姿だけを見つめていたからかもしれない。
「そうね……。わからなかったわ。帰ってきてくれると信じたかったけど確信は持てなかった」
「じゃあ、どうして待っていてくれたの? 日本に帰ろうとは、思わなかった?」
「どうしてかしらね……」
 萌は道にしゃがんで、菩提樹の落ち葉を拾った。
「……ただひとつ言えることは、私、あなたが帰ってきてくれるかどうかはわからなかったけど、私があなたを愛していることだけは信じていたわ」
そうだったのか。
急に、全ての謎が解けた気がした。目の前にいる萌を愛すること、信じること。それだけで良かったのだ。
昔、当たり前のように萌に愛情を注いでいたこと。異国のこの街で、二人きりで生きて行こうと誓ったこと。二人で聴いた鐘の音、二人でみつめた壁の落書き、二人で過ごした春夏秋冬、二人で見ていたこの街の移り変わり、全てが答えだったのだ。
あの頃の思いを、そのまま色褪せさせずにパッチワークのようにつなぎあわせて、未来を作ることができたのなら、真緒は自分の周りに壁を築いたりはせずにすんだだろう。萌を悲しませずにすんだだろう。どうしてこんなに、遠回りしてしまったのだろう。
「萌」
真緒は、小さい声で呼びかけた。
「ん?」
萌は振り向いて、立ち上がった。真緒は、萌を強く抱き締めた。
「真緒……」
「俺……ずっと、寂しかったんだ。叫び出したいほど……孤独だった」
涙が溢れる。抱き締めた萌の髪に、涙が染み込んでいく。
「馬鹿ね……」
萌の柔らかなアルトの声が、胸の奥に響く。
「私、いつだって、ずっとあなたのそばにいたのよ……」
冷たい月明かりに包まれて、二人はそのまま抱き締めあっていた。真緒は涙を流し続けていた。心の壁は、まだ消えてはいない。だが、やがて消えていくだろう。萌との愛と信頼に導かれて、いつか真緒は暗く孤独な壁を壊して、希望と自由に溢れた世界に再び帰ることができるだろう。革命はまだ始まったばかりだけれど、二人でなら必ず成功するだろう。
自分の腕の中の小柄な、しかし圧倒的な存在感を持つ萌の体の温かさを全身で受け止めながら、真緒は二人の新しい明日へ踏み出す一歩への不安と決意を心に刻んでいた。





1999.8.4〜1999.10.29





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残 像


 木漏れ日がすなみの髪に照り映える。茶色っぽい、短い髪が無造作に乱れるに任せて、すなみはいつも早足で僕の前を一心に歩いていく。
「もっとゆっくり歩けよ」
 僕はおなじみの言葉を彼女の肩甲骨辺りに投げ掛ける。
「そんなに急いだって、仕方ないじゃないか」
「そんなこと言っても駄目」
 彼女はちらっと僕を振り返り、半ば叫ぶように答える。
「私の意志じゃないの、これは。何かに導かれているの」
「気味の悪いこと言うなよ……。霊山か、ここは?」
 彼女の危なげな足元を時折見やりながら、僕は今迄何度も味あわされた、彼女が足を滑らしたときのひやっとした感覚を思い起こしている。
「君はお母さんのおなかの中に、慎重さってものを置き忘れてきたんだよ。そんなに一分一秒争ってどうするの」
「あなたはのんびりしすぎているのよ」
 息を切らしながら、彼女は又叫ぶ。
 すなみは先天性せっかちだ。大して背も高くないくせに、むしろそのせいだろうか、いつもスカートが破れるほど大股で早足でずんずん歩く。僕より二十センチ近く背が低いくせに、いつも僕をせかしている。話すのだって、息せききって早口でわあわあまくしたてる。知り合ったばかりの頃、僕は彼女の言葉をひとつひとつ聴き取ることにさえ苦労した。
 一方僕は、逆にかなりおっとりした方らしい。「らしい」というのは、自覚がないからだ。生まれてこのかた周りにいる人が、みんな僕を評して「おっとりしている」と口を揃えるから、そういうものか、と思うだけで、自分では全くそんなつもりはない。しかし、こうしてせっかちなすなみと一緒に居ると、やっぱり自分はのんびりした人間なのかなあ、などと考えたりもする。もっとも彼女と一緒に居ると、誰だってそういう気分になるのじゃないかとは思うが。
 それでも道を歩くときくらいは、肩を並べているが、この丘を登るときだけは別だ。すなみはこの丘が大好きだ。「大好き」なんて言葉じゃ言い表せないくらい好きらしい。二人で過ごす晴れた休日の昼下がり、僕が猫の様に日だまりでのんびりしていたい、と思っていると、彼女は茶色い眼で僕をじっと凝視めて、秘密の大作戦でも立てるかの様な声で囁く。
「ね、行こうよ」
「何処に?」
 一応は尋ねてみる。すると、彼女は何を今更、という、もどかしい様な表情をして、
「決まってるじゃない。登りに行こうよ、ね」
「今からじゃ日が暮れちゃうよ……」
「暮れてもいいじゃない、ね、行こうよ行こうよ」
 少しばかり反論しても、無駄なことは解っている。「行こうよ」と口に出した瞬間、すなみの心は決まっているのだ。僕も別に、強硬に行きたくないという意志を持っている訳ではないから、気がついたときには早足の彼女について丘への道を辿っている、という寸法だ。
 丘への上り道にさしかかると、彼女の早足はもう誰にも止められなくなってしまう。コンクリートの階段を弾む様に上がっていく。しかし彼女は去年の冬、雪解け道は危ないからという僕の忠告を振り切った結果、この階段をまっさかさまに転がり落ちて泥だらけになった。その落ち方も弾む様だった。あまりのことに僕は茫然と立ちすくみ、後で彼女は友人達にそのときの話をする度「受け止めようとくらいしてくれてもいいと思わない、ねーえ」と僕を非難した。
 そこまで派手に落ちたことはそれ程ないが、それにしても彼女はよくあちこちで足を滑らせてはきゃっと小さな悲鳴を上げる。その度に僕は、ひやりとして彼女の腕を掴む。いや掴めるときはいい。時に彼女は、僕が掴まえられない辺りまで一人でさっさと行ってしまっていることもある。
 丘のふもとの階段を上りきると、舗装されていない山道になる。人一人通れるくらいの細い道の両側は林で、緑ばかりだ。彼女は体中に喜びを漲らせて、時々「これ以上嬉しいことはない」という表情で僕に振り向く。僕も微笑み返す。彼女の背中と短く揺れる髪が、子供の様にストレートに感情を表している。
 ふもとから十五分位登ったところで、全く不意に、目の前の木々が開ける。夕焼けの時間だと、彼女の背中はステージへと足を踏みだすスターの様に、眩しいばかりの逆光に縁取られる。
「あ……あ!!」
 声になるかならないかの叫びと共に、彼女は大きく息を吸い込む。漸く僕も彼女の隣に立つ。
 眼前に広がるのは、海。両脇を林に縁取られた逆台形の海だ。微かに潮の香り。
 この風景を、すなみは本当に愛している様だった。
「私ね、海辺で生まれたの」
 初めて二人でここに来たとき、彼女はまだ調わぬ息で僕にそう語った。
「〈砂〉と〈波〉なの。私の名前。砂も波も数えきれないでしょう。無限っていう意味なの」
 〈無限〉という名を持つすなみは、その名のとおり何をするにも無限の情熱を示した。移り気で、冷めてしまうとすっかり忘れてしまうのだが、何かを好きになるにも嫌いになるにも、激しく反応した。それほど起伏の激しくない僕はいつも、少し戸惑い気味に彼女についてゆく。
 どれくらい二人でここに来ただろう。僕はいつも光る海を見つめながら、視界の隅に彼女を捉えていた。彼女の息遣いを感じていた。そして、海に夢中で僕のことなど忘れてしまったかの様な彼女の姿に軽い嫉妬を覚えたりもし、それでも顔には出さずにその代わり彼女の指をそっと握ったりした。彼女は反射的にという感じで僕の指を握り返し、それから僕を見上げて一番いい顔で微笑むのだった。

 ある夜、夢を見た。すなみは人魚姫だった。彼女は現実よりもずっと整ったモデルのようなプロポーションで、優雅に波間を泳ぎ廻っていた。
「脚と引き換えに、スタイルをよくしてもらったの」
 彼女は岩場に坐り、尾鰭で波をぱしゃぱしゃ叩きながら、そんなことを言った。
「ふうん。でも、脚がなきゃ、どんなにスタイルが良くても仕方ないんじゃないの」
 するとすなみ人魚は、はっとするほど悲しそうな顔をした。
「そうなの。王子様の気を引くためには、ウエストも腕もきゅっと細くなきゃって思ったのに、いくらそうでも脚がなきゃ、初めから無理なのよねえ……」
「そうだよ。またすなみのせっかちが出た」
「ほんとねえ。あなたに相談してからすればよかったわ。どうして私っていつもこうなんだろう……」
 エメラルドグリーンのすなみ人魚の鱗は、透明な水の中で、貝殻色に反射していた。ハープの音色を具象化した様な色と質感だった。
 そして、その鱗をあしらったような美しい柄の短剣を、白い指に握り締めていた。関節が、水の冷たさに赤く染まって、ひどく鮮やかに浮き出ていた。
「王子様と結婚できなければ私海の泡にならなくちゃいけないの」
 彼女はそう言って、ちょっと名残惜しそうに僕を見た。
「海の泡?」
「そう。この短剣で胸を突くの。痛いかな?」
「泡になってしまえば、痛くないと思うけど」
 すなみ人魚は、うーんと唸った。
「そうか。それもそうだね。最初は痛いかも知れないけど、一瞬だよね」
「そうだよ、きっと。すなみは痛いの得意だし」
 彼女は痛みに関しては、僕よりずっとタフだ。何しろ僕は毎年の健康診断の採血でさえぞっとするという人間で、いつも彼女に「弱虫」とからかわれているのだ。
 だがすなみは、ふととても苦痛そうに顔をゆがめた。
「……そうだね。私、痛いの得意だもんね」
 彼女は短剣を、逆手に持ち替えた。そして、えいっと小さな掛け声をかけて、胸に突き立てた。
 瞬く間にすなみの体は無数の泡になって、シャボン玉の様に海中に散らばった。海面から差し込む光できらきらと目がくらんだ。僕は手を伸ばしてすなみの泡を幾つか掴もうとしたが、指の隙間からこぼれてしまうか、掴めても砕け散ってしまうかで、すぐに諦めてしまった。
 やがて目が醒めると、どうしてあんな夢を見たのかと布団の中で暫く呆然としていた。童話なんか読まないし「人魚姫」の話だって20年以上も昔に聴いたきりだ。ディテールはおろかあらすじさえろくに憶えていない。
 それに、すなみの「王子様」とは誰なのか。
 何故彼女は僕の夢の中で砕け散ってしまったのか。
 それは僕の願望だったのか。
 僕は恋をしていた。

 さつきと初めて話したとき、「この人は同じ遺伝子を持っているのだ」と直感で知った。
 波長が似ている。歩くのも考えるのもそれを口に出すのも、ゆっくりゆっくりと、ひとつひとつ確かめるようだ。すなみはいつも、思い付いた端からせっかちに行動して、後で慌ただしく軌道修正をする。だがさつきは、一歩一歩確実に歩くタイプだ。馬鹿丁寧なほど。
 さつきを見ていて、随分とのんびりした人だなあと思ったとき、僕はふと、自分がとても気楽なのに気付いた。テンポを合わせようとする必要がない。なるほど、この人と同じようなテンポで生きているのなら、自分は相当にのんびりしたタイプなんだなあ。僕は初めてそう実感した。
 僕達の心が通じ合うのに、それほど時間はかからなかった。彼女も同じ様に、僕と居て感じていたのだから。心臓の鼓動までが、同じ早さで打っている気さえした。今まですなみの目まぐるしさに付き合っていたのが信じられなくなってしまった。僕の気持ちは、自分でも制御できないほどあっさりと、さつきへと飛んでしまった。今までの全てが、彼女に会うための前奏曲だったのだと思われるくらいに。
 すなみに、打ち明けなければならなかった。しかしすなみの僕を信じきった態度を見ていると、何と切り出してよいのかわからなかった。すなみはいつも、物怖じしない眼でまっすぐ僕を見る。僕はすなみと違って、言いたいことを巻物を転がす様にするするとは話せない。何か話そうと思い立つと、まずひと言めから考え込む性質だ。僕が言葉を選んでいると、すなみはそれに気付く。そして、頬杖を突き、聴く態勢に入る。
「さあ、準備はいいわよ。どうぞ話して」
と言いたげな視線を僕に向ける。彼女なりに、僕にスピードを合わせようと努力しているのがわかる。
 努力。そうだ。僕達は努力して付き合っている。突然、そんなことに気付いてしまって、僕はうろたえた。
 さつきと居るときには何の苦もなく自然体で居られるのに、すなみと付き合うには、お互いに、相手に合わせるために無理をしなければならない。僕はすなみの背中を見ながら、一生懸命歩く。すなみは立ち止まって頬杖を突き、辛抱強く僕を待つ。
 すなみに会うたびに、気分が重かった。彼女は楽しそうな顔で、早口で何やらぺらぺら喋っている。僕は相槌を打ちながら、息苦しく感じている。一度「無理をしている」という思いに囚われてしまうと、抑制が利かない。自分が本当に、とてつもない犠牲を強いられている気がしてくる。そして気持ちはさつきに飛んでいる。さつきと居るとき自分がどんなに安らいでいるか、思い知らされるような気がしてくる。
 一方で、僕はよく解っていた。これは純粋に僕の心変わりで、すなみには悪いところはないのだ。すなみに何と告げたらいいだろう。「ほかの人が好きになってしまった」としか言い様がない。僕が今愛しているのは、さつき以外には居ない。それは動かしがたい事実だった。
 すなみの悲しむ顔を想像すると、そして性格の激しい彼女と一波乱あることを考えると、臆病な僕の心は一歩を踏み出すことが出来ず、その時を先延ばしにするばかりだった。
 すなみは、僕の心が離れていることに気付いていただろうか。あるいは気付いていたのかも知れない。だが彼女もそこから目を背けようとしていたのか、ますます饒舌になり、そのスピードに巻き込まれて僕も流れを止めることが出来ず、そうやって二人ともうずくまる様に視線を反らしたまま、僕達の残された時間は空虚に浪費されていった。

 しかし十一月も終わりに差し掛かったある日、僕はとうとう重い腰を上げることにした。すなみにこれ以上会うのは限界だった。さつきにすなみの存在を隠しておくのも、限界だった。
 今まで何度となく待ち合わせた場所で、僕は彼女を待っていた。駅前のコーヒーショップ。いつものようにブレンドを頼んで、それを啜りながら、何と切り出そうかと考えていた。ここに来るまでの間もずっと思案していたことではあったが、結論は出ていなかった。とりあえず飲みに行こうか? 酒が入りながら話した方がいいだろうか。それとも、素面できっちり話すべきだろうか。いや、酔って気分がほぐれたときの方が、お互い少しでも気が楽かも知れない……。
 そんなことを考えながら、僕はどこかで何となく気付いていた。僕が今まで別れを言い出せなかった理由は、すなみに申し訳ないからとか、すなみを悲しませるのが辛いからとかではない。そんな理由は二の次だ。すなみに責められるのが、自分が「いい人」でなくなるのが怖かったのだ。
 ひどく後ろめたい気分で、僕は体を固くして冷たい椅子に腰掛けていた。コーヒーを五杯飲んだ。閉店の時刻が来た。しかし、彼女は現れなかった。

 すなみが、ちょうど僕が一杯目のコーヒーを飲み干した頃、駅前の陸橋で事故に遭って即死したという知らせを受けたのは、その夜だった。
 向かいから来たトラックがガードレールに突っ込み、待ち合わせに遅れていて歩道を走っていたすなみを跳ね飛ばした。トラックはそこで止まったが、すなみの体は橋の欄干を越えて下の国道に叩き付けられ、無惨な死体だったらしい。
 家に駆けつけると、彼女の遺体は帰ってきていて、彼女の母親が半狂乱になって泣きわめいていた。事情はみんなに聞こえていたので、敢えて棺の中をのぞき込む者もなかった。
(すなみは泡になったんだ)
 あの夢のイメージが、脳裡に広がった。僕にさよならも言わずに、ちょっと苦しそうな表情を見せて、一瞬にして泡になってしまったすなみ。せっかちなすなみ、いつも少しも立ち止まろうとしなかったすなみ……。
(私、痛いの得意だもんね)
 夢で、彼女は自分に言い聞かせるように呟いていた。ばらばらになってしまったすなみ。痛くはなかっただろうか? 即死だというなら、痛みは感じずに済んだかも知れない。
 不思議に、涙はこぼれなかった。むしろ、すなみに心変わりを打ち明けずに済んだことを、どこかでほっとしていたのかも知れなかった。どうせ死んでしまうのなら、悲しい思いをさせずに済んだのだ、僕はそう思うことにした。
 その後、僕は彼女の形見として、へたくそな編みかけの青いセーターを受け取った。

 日々は過ぎて、僕は相変わらずさつきと静かに愛し合っている。「一卵性カップル」なんて言われながら。すなみの死のおかげで、修羅場もなく、僕達のことは当たり前の様に仲間に受け入れられた。周りの人達も、すなみよりもさつきの方が僕に合っていると思ったのだろう。
 すなみとの日々が、幻の様な気さえする。急ぎ過ぎて足を滑らせるのを心配しながら、すなみの背中を追っていたあの頃が……。
 〈無限〉という意味の名を持つすなみ。〈砂〉も〈波〉も、掴まえることは出来ない。すなみは、海岸の砂の様に、さらさらと僕の手からこぼれていったのだ。波の様に、手元にとどまりはしなかった。泡を掴むことが出来なかった様に。
 だんだん僕は、自分の心がすなみから離れたのではなく、すなみの方が僕から去っていった様な気がしてきていた。
 今となってはそれは、もうどうでもいいことなのかも知れない。
 やがて僕は、さつきと暮らすために、この町を離れることになった。引っ越しの準備をしているとき、押し入れから、すなみの形見の編みかけのセーターが出てきた。
 そのへたくそな、揃っていない編み目の青を見ていたら、僕は不意にあの丘に登らなければならないという衝動に駆り立てられた。
 いつになく僕は急ぎ足で、時には小走りになりながら丘への道を辿った。何だか、すなみが僕の手を引いているようだった。階段を登り山道を時々滑りそうになりながら進み、やがて初めて、僕はすなみの背中越しでなく、自分から海を見晴らす場所に出た。
 海は穏やかに青く、静かにそこにあった。僕は息を切らしながら、立ち尽くしていた。ふと、すなみがそこに立っているような気がして、僕は横を見た。すなみは、居なかった。
 「すなみは死んだんだ」
 呟いた途端に、今更、僕はすなみがもうこの世にいないことを思い知らされた。すなみは居ない。もう二度と逢えない……。突然、戸惑うほど激しい悲しみが襲ってきて、その場に跪いて両手で顔を覆った。嗚咽が溢れる。僕は思い出していた。すなみを愛していたことを。何よりも、すなみが好きだったことを。好きだから、あんなに一生懸命互いにテンポを合わせあって、それを苦にも思わなかったのだということを。そうすることに無上の喜びを感じていたのだということを……。
 僕達の関係は、永遠のものではなかったかも知れない。一過性の情熱だったかも知れない。それでも、やはり僕は、確かにすなみを愛していた。強く強く、彼女を想っていた。それは真実だったのに……。
 狂おしい喪失感に見舞われて、僕は顔から手を外し、海を見た。涙にかすんではいたが、胸に突き刺さるほど青く明るい海だった。そして、その明るさの中に、せっかちに僕を駆け抜けていったすなみの残像が瞬き、水平線の向こうに溶けていった。 






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