このページでは、J-POPに対する意見をあげて、それについて考えていきます。
音楽を必要としているのは
| 音楽を必要としているのは若者より、むしろ人生につかれてる大人だと思うのですよ。 (オリコンウィーク ザ・1番6/14号より抜粋) |
「人生につかれてる大人」に音楽が必要なのでしょうか。いや、そもそも「大人」とは
どういう人たちなのでしょうか。
<三省堂 大辞林より引用> |
辞書を引いてみると、このようにでていました。つまり、年齢には関係ないようです。
ここで哲学の考え方を利用すると、よりはっきりした定義がでてきます。つまり、
青年期に特有のロマンを経験し、その時期を過ぎた人
という風にするのです。青年期的な独我論におちいり、その独我論を社会と調和させるか、
または捨て去った人のことは大人ですよね。独我論に陥っている限り、いつまでたっても
青年なのです。
独我論の特徴として、社会を超越した基準、「真・善・美」を探し求めるという点が上げられます。
このとき、社会を超越した(ように見える)ものとして「音楽」が青年に見えてきます。このとき、
「音楽を追い求める青年」というのができるのです。そして、そこからロックができたりするのです。
また、そういう青年は音楽産業にとっては「シングルやアルバムを確実に買ってくれるお客」
の1形態であり、青年をねらった音楽が増えるのは当たり前なのです。
さて、独我論を捨て去った人たちはどうなのでしょう。キルケゴールは人間の絶望のありようを
2種類挙げています。無限性の絶望と、有限性の絶望である。無限性の絶望とは、「社会」・
「人類」・「歴史」といった「無限なもの」と自己を一致させようとして生じる絶望です。
有限性の絶望とは、「自分の自己を他の人々に騙り取らせる」ものです。これは、「世間一般の
人間の意味」(なるべくお金を稼ぐこと、立身出世すること、一家を整えること、子供を立派に
育てること、いい学校を出ていい会社に就職すること、等々)で自分の生きる意味を語ること
を意味します。親が「いい学校を出ていい会社に就職する」ようにいったりするのはいい例ですね。
自分はそれが子供の幸せだと信じて言ってますからね。そしてそういう状態の時には「青年
向きの音楽」などは必要なく、音楽は彼にとっては一般に必要ではありません。
しかしながら、「世間一般の人間の意味」と「自分にとっての実存性(人生の意義と言い換えてもいい)」
が一致しなくなるときが訪れた場合はどうなるでしょう。わかりやすい例では、リストラにあった
中年の会社員があげられます。自分は会社のために一生懸命尽くしてきたのに、会社に捨てられて、...
また、子供の反乱にあった親もいい例です。自分は一生懸命育てたのに、こんな子になっちまって、...
こんな時には自分自身に関する根本的な孤独、不安、絶望を持つことになります(青年期にも自覚し、
一時は騙取によって忘れたつもりになった感情です)。これが冒頭に言う「人生に疲れた大人」ですね。
こんな人なら、「青年向けの音楽」にも手を出すでしょう。しかし、自分では克服したつもりになっている
独我論にのっとった音楽は自分からは求めないでしょう。子供の趣味だから手を出すということは
あるでしょうが。それに、世智にたけていますから青年向けでは物足りなく感じるかも(実際には
そんなことはありませんが)。音楽を聴くのは個人的なことですが、この手の人は行動を他の人の
行動で説明するのになれてますから、いきなり個人では動かないでしょうね。というわけで、
音楽を自分から求めることはないでしょう。つまり、音楽を必要としない(または、そう思いこんでいる)
といってもいいと思います。
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