私が聞いた意見(vol.6)

このページでは、J-POPに対する意見をあげて、それについて考えていきます。


画家と画商モデル(3)

プロである以上、「お金」という問題はついてまわるものだと思います。逆にいえば、売上を無視して自分の理想ばかりを追い求めるミュージシャンはアマチュア的といえるのではないでしょうか?自分だけでなくスタッフやその他大勢の人をまきこんで音楽をやっているのですから、自分の理想と同じくらい売上は大事にするべきだし、そのためにタイアップをつけたり、TVに出たりするのは当然の行為なんじゃないですかね?

(オリコンウィーク ザ・1番6月21日号より抜粋)

前回説明した「おニャン子クラブ」による音楽市場の低迷は、CDがでてくることによって

救われることになります。CDシステム(コンパクト・ディスク・デジタル・オーディオの略称)

は、1980年6月にDAD懇談会に提案され、1982年10月1日にSONYによる

第1号機「CDP-101」、CBS・ソニーから初のCDソフトが発売されました

(年末までに200タイトルを数えています)。’83年には一時市場が停滞するものの、

1984年11月に「D-50」(ソニー)という、CDジャケット4枚分のサイズにCDP-101と

ほぼおなじ機能をまとめ、定価49,800円という値段で出されたポータブルタイプが

市場を広げました。その後の快進撃は目を見張るものがあります。1984年末頃は

CDソフトの国内生産枚数はLPの10分の1でしたが、1986年にLPを逆転(4,500万枚で)

し、1988年にLPの最盛期の生産量である1億枚を突破、1992年には3億枚に至ったのです。

(以上は、「ソニー自叙伝」ソニー広報センター ワック株式会社 を参考にしました。)

この流れに乗って音楽市場も立ち直っています。日本独自のCDシングルは、東芝EMIから

1987年3月に初めて登場しました。その次の年である1988年のセールス1位は87.4万枚

「パラダイス銀河」(光GENJI)(この曲はまだアナログレコードです)、1989年は81.5万枚

「Diamonds」(プリンセス・プリンセス)です。その前の42.3万枚から考えるといきなり2倍に

のびています。音がいいし、小さいので取り扱いやすいし、扱いが多少雑でもいい

(お湯でぐらぐら煮ても大丈夫だったという話をきいたことがあります)。

市場自体が膨らんだので、それ以前とはちがうアーティストがでてきたりもします。プリンセス・

プリンセスは「Diamonds」がいきなりブレイクして一流の仲間入りを果たします。おニャン子の

次は光GENJI(単なるアイドルではなく、アーティスト志向を持ったグループでした。)

がブームを巻き起こしていますし、長渕 剛の曲「乾杯」(1988年2月5日発売)は

1980年の「順子」以来です。

このころから、再びアーティストがチャートに普通に出てくるようになっています。しかし、まだまだ

曲を売る方はあまり真剣に考えていなかったように思います。普通に売っていれば売れるから、

新しい顧客を求める努力をしなくてもいいかな、というふうにもとれます。このころ、曲を

買ってくれる人以外には広めていなかったように思います。自分が少年の頃、音楽の

コマーシャルなんてほとんどなかったですから。

 

まだまだ続きますが、次も読んでくださいね。

追伸 前回の「おニャン子関係の曲は(中略)昭和62年5月21日発売の「かたつむりサンバ

」(おニャン子クラブ)までがオリコン1位に入っています」というのは間違いです。この後に

工藤静香「禁断のテレパシー」が昭和62年9月14日にオリコン1位に入っていました。

謹んで訂正させていただきます。


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