私の意見(vol.11)

このホームページでは、私にとって絶対必要なJ-POPを擁護するためのホームページです。

なぜ必要なのかも同時に書いていくつもりです。


恋愛の歌

最近恋愛の歌が多くなったという意見はよく聞きます。本当に多くなったかはさておき、

確かに今では恋愛というのが人生の主題といった感じがします。私はそんなところには

人生の主題を感じませんが、恋愛にあれほど執着する理由はわかる気がします。

 

1970年後半から日本の哲学界では現代思想ブームが起こっています。そこには

いろいろな理論がおこっていますが、それをいちいち説くことはここでの主題でもないし、

私にもまだよくわかりません。しかし、ボードリヤールやドゥルース・ガタリの”現代社会分析”

はここにかく価値があります。彼らは、現代社会を「システム社会」という像で描き出そうと

しています。論点は少しちがうらしいのですが、彼らの社会像は『現在の高度消費社会に

おいては、それを操作する「権力」や人間的「主体」というものはもはや見出せず、

「社会=システム」それ自身がそのオートマティックな運動の主体である、というイメージ』

であります。つまり社会はそれ自体を変えることはできず、われわれにできることは

「社会に対していかに反抗するか」という問題だけが残されているというのです。

こういう思想に基づけば、社会を変えるような曲などはその発想がそもそもないのですから

できるわけがありません。従ってチャートにも載ってこないのです。

 

では、どのように反抗すればいいのでしょう。私には社会が「変えられない」ということはないと

思うのですが、リスナーは多分そう思っているんでしょう。ボードリヤールは<死>によって

システムに挑戦すること、ドゥルース・ガタリは<狂気>によってシステムを攪乱すること

を提唱しているのですが、そんなことは普通の人にはできませんよね。では、どこに解答を

見いだすのでしょうか。

 

私は、「リスナーおよびアーティストは恋愛にその解答を見いだしている」と思っています。

 

ハイデガーは共同的な自己理解に落ち込むことなく、死の不安をよく自覚することで

本来的な自己了解にいけば、人間は本来の性向である「真・善・美」を追い求めるようになる

と説きます。ここでいう「了解」とは、理解するとかいうことではなくて、『自分にやってきた

ある気分に気づくこと、これが了解ということの中身』なのです。私がある気分に気づいたとき、

その対象が何であるかということと、私の欲望のありようを同時に開示することになる

ともいっています。

 

恋愛をするにはシステムは関係ありません。ここにこそ自分にとっての社会を変えうるという

期待がリスナーにはあると思うのです。恋愛をすることで、共同的な自己了解を解き、

同時に本来の性向を取り戻すのです。恋愛をして、「ハッピーな気分になる」ことで、

本来の自分を取り戻していると思うのです。

 

こんなことは、高度成長期には仕事に打ち込むことや子供を育てることで満たしていたと

思っています。しかし、そこにハッピーな気分を感じることは今では望み薄でしょう。

恋愛こそハッピーへの道であると、みんなが思っているのです。だから、人生の主題にも

なりうるのです。経験者ほど、「本当の恋愛」を追い求める傾向はそれを支持していると思います。

未経験なら、そこに約束の土地を見いだして生活し、経験者はそこを追放された

人生の放浪者であるため、もう一度そこにたどり着きたいと思っているのでしょう。

 

こういうことから、チャートに愛の歌がたくさんあると思います。それを批判する人を見ていると、

リスナーとは違うところで「ハッピーな気分」を見いだしているからそういえるのであって、

リスナーとはずれているな、と感じてしまいます。

(以上の議論は、竹田青嗣著「自分を知るための哲学入門」を参考にしました)


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