私の意見(vol.14)

このホームページでは、私にとって絶対必要なJ-POPを擁護するためのホームページです。

なぜ必要なのかも同時に書いていくつもりです。


J-POPの新たな才能

前回は「アーティスティックなアーティスト」と「プロフェッショナルなアーティスト」の概念を

説明しました。今回は、何でこの概念を持ちだしたかを説明します。

 

今、J-POPは新たな才能によってその広がりを増しつつあります。代表的なところでは

宇多田ヒカル、Dragon Ash、Cocco、椎名林檎、19、浜崎あゆみといったところでしょうか。

(ほかにも10代のアーティストは存在しますが、プロデューサーがいるところは今回は

除きます。)自ら芸術を作り、リスナーにその存在をアピールしている彼ら彼女らをみている

うちに、この一群がはたして10代という共通項でくくられていいものかと考えてしまったのです。

 

アーティストが生まれ育ってゆくその過程を聴いているうちに、どうも2つのタイプに分けられ

そうだなと感じました(この考えは小室哲哉とつんくとの違いをみて考えたものです。この事に

ついてもそのうち書きます)。試みに彼らを分類してみたらうまいこと分かれたので、つい

意見として書いてみたくなったわけです。

 

「アーティスティックなアーティスト」…椎名林檎、Cocco、浜崎あゆみ

「プロフェッショナルなアーティスト」…Dragon Ash、19

 

アーティストとして音楽業界に作品を出すにあたって、ひとつ重要なことは、「継続して作品を

出し続けられること」であります。これは商売である以上当然のことです。アマチュアで

あれば1作2作で十分なのですが、プロとなるためには「無名のうちにたくさんの作品を

完成させること」が必要なのです。

 

さて、作品を蓄積する原動力は「アーティスティックなアーティスト」と「プロフェッショナルな

アーティスト」では全く違います。それは特に自らの作品を否定されたときに顕著になります。

「アーティスティックなアーティスト」ではその批判は「私にとって必要なことを否定したが故に」

アーティストの中で無力化するのに対し、「プロフェッショナルなアーティスト」では「作品の

価値を認めてくれる人が別に存在するから」批判があっても我慢できるのです。

 

椎名林檎や浜崎あゆみ、Coccoたち「アーティスティックな」音楽家は、音楽を続けることで

世間に適応し、生き続けているのです。従って、その生き様はときに「生き急いでいる」ような

状態になるのです。いわば作品を作り続けないと”死んでしまう”のです。しかも、作品を

作ることは彼ら彼女らにとって運命的かつ必然的なものなのです。このタイプのアーティストに

とって、「今後どうなるか」などという問いは全く意味がないのです。

 

それにたいし、Dragon Ash(特に降谷健志)や19(特に326)たち「プロフェッショナルな」

音楽家は、自らの作品に対して明確な支持層がないと、作品を作ることをやめる事も

躊躇しません。音楽家という職業になることをあきらめることさえあります。プロデューサー

志向が強いこともあります。実際、降谷健志は「次のアルバムが5万いかなかったら

オレたちは解散する!」と宣言したこともあったそうです。

(以上の議論には、日経エンタテインメント1999年4月号と8月号を参考にしました。)

 

しかし、元がアーティスティックであろうとプロフェッショナルであろうと、彼らが一流の

アーティストとしてリスナーに指示されていることは間違いないわけです。淘汰されるべきは

プロフェッショナルなことではなく、一流の水準に達していないことであるべきです。

一流として認知される過程で「商業的な、あるいはアーティストとしてあるまじき」振る舞いを

したからといって、彼ら彼女らの作品がリスナーや私にとって価値がないことにはなりません。

 

次回はプロデューサーがついているアーティストについて書こうと思います。意見が分かれる

ところですが、読んだ後に判断して下さいね。


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