“僕”の関わりのなさについて

デタッチメント(かかわりのなさ)
☆ 他人と絶えず距離を置く ・・・優しさ?
    「本当のことを聞きたい?」
    「去年ね、牛を解剖したんだ。」
 彼女が自分の内面を出そうとするとそれを拒むようにはぐらかし、決して近づかない。 ☆ 本当のことを隠す、語らない 半年前に起きた恋人の自殺の物語を他の物語たちの間にさりげなく挿入し、同レベルに語り、さらりと流す。→僕自身の内面も踏み込まない
   21章:三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの「魔女」を読んでいた。優れた本だ。そこにこんな一節があった。「ローレンヌ地方の・・・」私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。
彼女の死とは全然関係のないミシュレの「魔女」について語ることで肩すかしをくらったよう な印象を与える。

   他人と絶えず距離を置く<僕>のスタイルは「小さい頃、無口な少年だった」=自閉症、「心に思うことの半分しか口に出すまいと決めた」ということからコミュニケーションの難しさに由来する。この性格のため<僕>はヒッピーの女の子に「嫌な奴」と思われたり、<鼠>は<僕>に相談事をうちあけようとするがなかなかできなかったりした。『羊をめぐる冒険』では妻に去られることになる。 悲しいことやつらいことを経験すると人は心を閉ざしがちになる。しかし<僕>の生き方は 淋しくはないだろうか?29歳になった<僕>は「幸せか?と訊かれれば、だろうね、と答える しかない。夢とはそういったものだからだ」と言っている。そこには後戻りできない悲しさを感 じることができないだろうか。

つながらないコミュニケーション
・ ラジオ(一方的なコミュニケーション)
・ ビーチ・ボーイズのLPを貸してくれた女の子と<僕>→つながらない
・ 鼠と僕→鼠は女のことで相談しようとしたがなかなかできない。
 僕と鼠の会話はたとえば互いに伝わってないものが多い。 村上の小説にはたびたびコミュニケーションの難しさについて取りあげられている。例えば、『ノルウェイの森』の直子は伝えたいことがあっても伝えられない、伝えたいことがあっても何を伝えたらいいかわからないもどかしさや不具合を強く抱えすぎて自らコントロールできなくなる。彼女のおしゃべりが止まらなくなるシーンは<僕>が突然堰を切ったようにしゃべり始める場面によく似ている。

 物事をきちんと正確に、過不足なく、人に伝えることは難しい。もしかしたら難しいどころか 不可能なことかも知れない。<僕>を始め村上春樹の小説には他人と距離を置く主人公が多く出 てくる。彼らは(村上自身ともいえるが)確固とした自分のスタイルを持ち、コミュニケーショ ンとは成り立たないことを前提としている。コミュニケーションの不成立を嘆いているという わけでなく静かにそのことを受け入れている。そのために彼らは、誤解をされたりいろいろ失う こともあり、時にはそのことを悲しく思う。


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