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私の『風の歌を聴け』論
村上春樹の処女作である『風の歌を聴け』は40の短い断章とあとがきからなる斬新な手法で書かれた物語である。このような手法や独自の文体を用いて作者の村上は主人公の「僕」に自分の内面を語らせず、また他人の内面にも踏み込ませないよう徹底させている。
主人公である「僕」は第1章で「今、僕は語ろうと思う」と述べているが決して自分の内面は語ろうとしない。また他人の内面にも近づいたりせず、一貫して他人と距離を置く姿勢を貫き通している。しかし表向きには何も語っていないような所や意味のないような所に本当のことが隠されている。例えば第21章にこんな文章がある。
「3人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの『魔女』を読んでいた。優れた本だ。そこにこんな一節があった。ローレンヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』にいて勝ち誇っている。彼は言う、『私の正義はあまりにあまねきため、先日捕らえた十六名はひと手を下すのを待たず、まず自らくびれてしまったほどである。』私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い」
彼女の死とは全然関係のないミシュレの『魔女』について語ることで肩透かしをくらったような印象をうけさせる。しかしこのミシュレについての記述には特には意味がなく、この文章が意味を持つとしたらそれは「僕」の内面に踏みこませない壁ような役割を果たしていることである。この小説には唯一の物語の間に一見するとあまり意味をなさない文章が多く組み込まれているがそのほとんどが本当にあったことをさりげなく述べるための道具として用いてある。他の物語たちとの間にさりげなく挿入されることによって、重大な出来事であるはずの死んだ恋人の物語は特別扱いされずさらりと流されている。このように恋人の死という決して軽くはない出来事を他の物語たちと同等に語ることによって「僕」は自身の内面を隠しているのである。しかし肝心なことをはぐらかすように並べ立てられた文章に「僕」の意思があるように思われる。それは決して他者を自分の内面に踏みこませないという意思である。何も語らないことで彼は自分の意思を表しているのである。あるいは「僕」自身でも入ろうとしない領域が「僕」の中にあるのかもしれない。おそらく「僕」は自分自身でも「僕」の内面に踏みこまないで生きてきたのだろう。そして20代最後の年を迎えてやっと「今、僕は語ろうと思う」ことにしたのだ。ようやく自分の内面に向かおうとしたのである。
「僕」は他者と一定の距離を置く。他者を自分の内面に近づかせず、また自分も他者の内面には近づかない。「左手の小指のない女の子」と親しくなるが彼女とも一定の距離を狭めようとはしなかった。「僕」は行きつけのバーで彼女と出会った。「僕」は酔いつぶれた彼女を家まで送り、彼女が目覚めるまで付き添ってやる。目覚めた彼女は「僕」に対してあまりいい印象を抱かずとげを含んだ口調で「僕」と会話をする。2度目にアルバイト先のレコード店で偶然彼と再会した時もはっきりと拒絶した態度を示していた。彼女もまた悲しい体験から他者を拒否しているのである。2人が親しくなるきっかけは彼女が「僕」に謝りたいから会ってくれないかと彼に電話したことである。彼女から歩み寄ったことで2人は親しくなったのだ。しかし「僕」は彼女に対して親切であったが彼女の内面には近づこうとはしなかった。泥酔した理由を尋ねたりしなかった。彼はさながら優しい空気のように彼女に接したのだった。相手の傷にふれないこと相手の内面に関わらないことが「僕」の優しさなのである。
「本当のことを聞きたい?」
彼女がそう訊ねた?
「去年ね牛を解剖したんだ。」
「そう?」
「はらを裂いてみると、胃の中にはひとつかみの草しか入ってはいなかった。僕はその草をビニールの袋にいれて家に持って帰り、机の上に置いた。それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊りを眺めてこんな風に考えることにしてるんだ。何故牛はこんなまずそうで惨めなものを何度も何度も大事そうに反芻して食べるんだろうってね。」
彼女は少し笑って唇をすぼめ、しばらく僕の顔を見つめた。
「わかったわ。何も言わない。」
第35章からの引用であるが彼女が「本当のことを聞きたい?」と「僕」に内面を出そうとしているのに対し「僕」はそれを拒むように牛の解剖したことを語りはぐらかしてしまう。そんな彼に対して彼女もそれ以上は語らなかった。2人は手をのばせばわかりあえるところまで近寄ったのにもかかわらずそれ以上相手には近づかないままに終わってしまう。
「僕」なぜ人と関わることを拒むのだろうか。「僕」は第7章で子供の頃のことをこう語っている。「小さい頃、僕はひどく無口な少年だった」。これは彼が子供の頃自閉症だったと告白しているに等しい。彼は幼い頃から自分の世界に閉じこもりがちだったのである。少年の時から人に何かを伝えることの難しさや他者と自分との間の不具合さを感じていたのだ。また第30章にこんな文章がある。
「かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。高校の終わり頃、僕は心に思うことの 半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年間に渡って僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっているとを発見した。」
それが現在の「僕」が「優しい子なのにどこか悟りきったところがある」と行きつきのバーのバーテンであるジェイに言われる所以であろう。
「僕」には「鼠」と呼ばれる友人がいるが彼らの会話には適度な距離感がなせる軽快な調子がある。また彼らの会話はお互いわかりあえないまま終わってしまうものが多い。例えば第5章で「鼠」が「僕」に「何故本なんて読む?」と聞けば「僕」は「何故ビールなんて飲む?」と答えをはぐらかすように逆に聞き返す。そしてその会話の後に生身の人間に対して許せなかったらどうするかと「鼠」が尋ね、それに対し「僕」は「枕を抱いて寝ちまうよ」と答える。それに対し「鼠」は困ったように首を振り、「不思議だね。俺にはよくわからない」と言う。「鼠」は「僕」がわからないのだ。また第24章で「鼠」は会ってほしい人がいると「僕」に頼むが当日になって急に止めたと言う。「止めた?」と「僕」が聞き返せば「止めたんだ」と「鼠」は返す。そのことについて「僕」は詳しいことを尋ねたりせずそのまま2人は動物園に行こう、いいねという風にして出かける。実はその会ってほしい人というのは女性で彼女について「鼠」は「僕」に相談したかったのだが結局言い出せなかったのである。おそらく照れもあったのだろうが「鼠」は「僕」との間にその問題を持ってくるのは不適切のように思ったのだろう。また「僕」には「鼠」が相談しにくい空気があったのだろう。このあたりに「鼠」の不器用さをうかがい知れる。しかし「僕」は仮に「鼠」が相談を持ちかけたらおそらくその相談に乗ってあげただろう。実際に「僕」は後にバーテンのジェイに促されてだが「鼠」の相談に乗ってやろうと彼をホテルのプールに誘う。2人はプールで競争をし、並んで座り冷たいコーラを飲む。そして「鼠」は小説を書こうということ、奈良の古墳に行った時のことについて「僕」に話す。日が翳る頃、2人はプールを出てホテルのバーでビールを飲むのだがその時になってやっと「僕」は「鼠」に思い切って話を切り出している。この「僕」の不器用さには温かみを感じられる。一見乾いているように見える「鼠」と「僕」の関係性だが彼らの間には友人間にある「温かみ」が確かに存在しているように思われる。
ものごとをきちんと正確に、過不足なく、人に伝えることは難しい。もしかすると難しいどころか不可能なことかもしれない。「僕」はおそらく意思疎通とは成り立たないものだとということを前提に生きているのだろう。自分の思っていることを100パーセント相手に伝えられることは不可能であるとわかっているのである。しかしそのことを嘆いて消極的に生きているというわけではなく、そのことを受け入れて生きているのである。誤解をされたら悲しいなとは感じるがまあ仕方ないという風に。
「僕」は第38章の終わりに結論づけのようにこう語る。
「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている」
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