Column J
VOL.4

 

 『人生に if はない』けど、あったら面白いじゃないか
 『人生に if はない』。

 これは、エライ先生のお言葉でもなければ、我が家の家訓でもない。もうかなり前のドラマ(確か月9)、SMAP中居くん主演で翼くんも兄弟役で出演していた「ブラザーズ」(←こんな感じのタイトル)の中で、中居くんの叔父さん役の財津一郎さんがことあるごとに仲居くんに放った一言である。ドラマの内容はすっかり忘れてしまった今でも、何となく耳に残って今でも時々思い出す、この言葉。

 といって、今日の話はそのドラマのことでもなく、また「一度しかない人生、後悔しないように生きよう!」なんて話でもない。しかも、残念ながら今回はまーったくジャニーズとも関係ない話なので、サイトの性質上申し訳ないのだけれど、どうかお許しいただいてお付き合いください。

 では、一体何の話かというと、歴史の話。

 皆さんは「三国志」をご存知ですか?詳しい内容は知らなくても、タイトルくらいは聞いたことがあると思うのだけど、つまり、中国の「後漢」という時代あたりの話。

 まったく知らない人のために、極々簡単に説明すると、「三国」というのは、魏・呉・蜀の3つの国のこと。「三国志」というのは、この3つの国について書いた歴史の本。三国志は知らなくても、さすがに「卑弥呼」くらいは大抵の人が知っていると思うけれど、その卑弥呼が日本で活躍していた時代と同じ時代、中国ではこの三国が覇権を争っていたのである。「三国志」とはその名の通り、「魏志」「呉志」「蜀志」の3つからなっていて、歴史の教科書に必ず載っている「魏志倭人伝」は、実はこの「魏志」の中に含まれる「東夷伝」にある日本についての記述だったりする。そう考えると、多少はイメージも湧いて…こない?かな。。。

 日本でも「三国志」は大変に有名だし、かつとても人気もある(らしい)が、しかし。人形劇や漫画・ゲームなどで私たちがよく知っている「三国志」は、本当は「三国(志)演義」というもので、いわゆる歴史小説。もちろん事実に則して書いてはあるけれど、相当に脚色されている。日本で言うと、「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」とか、そんな感じでしょうか。いや、さすがに「暴れん坊将軍」では言い過ぎかな。

 つまり、「三国志」は正史=歴史の史料・史書で、「三国(志)演義」はそれに基づいて書かれた小説なのだ。私も、つい最近、史実である「三国志」を読んで
(といっても、正史は難しくてとても読む気がしないので、もっと噛み砕いて書かれたものを読んだ)、今までいかに「演義」の方を鵜呑みにしていたかがやっとわかった一人であったりする。

 ついでに言うと、この二つ、書かれた時代も作者も全く違う。「三国志」(正史)を書いたのは、蜀出身で、のちに魏を滅ぼした晉と言う国に仕えた陳寿という人。つまり、まさにその時代に生きていた人が書いたのが三国志の正史。が、この陳寿という人が書いたモノ。もろもろの説明が少々足りなかったようで、後年になって、裴松之という人が様々な注釈を加えて完成させた。これが、「三国志(正史)」と呼ばれるものの正体である。一方、「三国(志)演義」が生まれるのは、もっともっとずーっと後の時代。三国時代が過ぎ去ってからも、民衆の間には脈々と三国時代の言い伝えが受けつがれていったのですが(それだけ魅力がある時代だったってことです)、それを読み物として羅貫中という人がまとめたのが「三国(志)演義」。これらをごちゃまぜにして、「歴史的価値」だの「信憑性」だの言う人もいるようですが、そもそも書かれた時代も、その成り立ちも全然違うものなのだから、一概にいいも悪いも言えないだろうに、と私は密かに思っている。そんなわけで、「三国志(正史)」と「三国(志)演義」とは違うもの。長くなったけれど、少しはわかっていただけた…かな?にしてもこの二つ。何だか妙にややこしいので、今後は「正史」「演義」と書き分けることにする。

 ここまで「正史」と「演義」の違いを書けばもうおわかりかと思うが、「正史」は、一応三国について記述されている。が、実は魏の割合が一番大きい。作者の出身が蜀であったにも関わらず、である。それはつまり、それだけ魏の力がそれだけ強大だったからだと言えると思う。だが、「演義」では、蜀の英雄・劉備玄徳、義兄弟の関羽、張飛、そして最も人気が高いと思われる軍師・諸葛孔明あたりが主人公になっている。魏の曹操は明らかに悪者として書かれていて、善V.S.悪の対比がはっきりくっきりしている。だからこそ、読み物としては非常に面白いのではあるが。果たして、曹操ファンや魏・呉のファンの方々はこれをどう思っているのか、諸葛ファンの私にはよくわからない。おそらく、「どんなに人気があろうと、所詮物語。史実では曹操(魏)が強大で(ほぼ)勝っているのだから、まぁいいか」なんて思っているのではないだろうか。負け惜しみである。といっても、事実は確かに魏に利があるわけだから、脚色された「演義」を好んで読むあたり、蜀ファンのほうが負け惜しみなのかもしれないけど。

 さて、長い前置きはこのくらいにして(やっと本題)。

 私が高校生の時に、学校の図書室で見つけた一冊の本がある。正式なタイトルは忘れてしまったが、「もし、織田信長が本能寺で死ななかったとしたら、その後歴史はどう変わったか」ということについて書かれた小説で、最近改めて調べてわかったところによると、どうやら「歴史ifノベルズ」というシリーズらしい。このシリーズにはいくつかあって、その名の通り、歴史上のある人物に着眼し、そのターニングポイントにもし違う展開が起こったら…という視点で書かれた小説である。私が読んだものを紹介すると、例えば、伊達政宗。いわずと知れた奥州の覇者であった彼が、豊臣秀吉に服従せず、真っ向から戦ったらどうなったか、というもの。小説の中では、破竹の勢いで豊臣勢を破り、とうとう彼を朝鮮半島にまで追いやってしまう。東北魂を持った私には、何とも痛快でしてやったり!な展開に読んでいて胸がすく思いだった。その他には、武田信玄というのもあった。彼は、上洛を目指していたが、志半ばで病に倒れ亡くなってしまう。その後、自慢の騎馬隊も織田信長の鉄砲隊に破れ…となるのだが、小説の中での信玄も確かに病に冒され、医師にあと1年の命だと宣告される。そこで、どうせ1年しかないのなら、今すぐ信玄は死んだことにして、その死を知ったほかの武将達がどう動くかを見極め、改めて天下を狙おう、という展開になっている。ボンクラ息子を巧みに操り(しかも、立派に成長する)、若き日に国を追放した父親と手を組み(しかも、暴君だった父が改心している)、残された1年の間に信長を倒し、とうとう武田幕府を開く。事実を知る私たちにとっては、「あまりにも」な展開ではあるけれど、実際、「もし」信玄が病に倒れなかったら、どうなっていたかは、誰にもわからないのである。

 そして、三国志。「演義」の刷り込みのおかげで、すっかり蜀ファン、正確には諸葛孔明ファンとなった私であるけれど、大勢の作家が書く三国志、もしくは諸葛孔明伝のなかで、どうしてもササッと読み飛ばしてしまう部分がある。それが、孔明が北伐(魏を倒す)の途中に五丈原で命尽きるくだり。同情といってしまえばそれまでだが、哀れで仕方ない。人の死は必ずやってくるもので、それは古代だろうが未来だろうが同じこと。だから、孔明が五丈原で病に倒れたのも、言ってみれば天命。そんなことは百も承知だけれど、それでも、やっぱり惜しい。その限りない能力がどうしたってもったいない、と思えてしまうのである。

 そもそも、孔明はあまり恵まれていたとはいえないんじゃないか、と私は思っている。正史に近い作品を読めば読むほどその気持ちは強くなっている。というのは、「演義」で敵役の曹操は、実は非常に才能の溢れた人物で、その戦っぷりはもちろん、判断力・行動力・人を見る目、そして文学の道にも明るかったらしい。演義でも見られるように、確かに非情な面ももっていたようだが、それ以上に、本当は懐の広い男で、たとえ敵方でも「見事だ」と素直に認めたり、元は敵でも、その能力によって自分の幕僚に加えたりという柔軟さを持ち合わせていたようなのだ。

 それに比べて、孔明が使えた劉備玄徳という人。漢王室の末裔だとかで、とにかく人徳はあったらしい。玄徳の実力の8割は人徳によってい支えられていたんじゃないか、と思うほど、仁義の人なのである。もちろん、乱世をしぶとく生き残っていたわけだから、武将としての才もそれなりに持ち合わせてはいたと思う。そうでなければ、いくら三顧の礼を尽くされたからといって、孔明も黙って仕えていたりはしなかったハズだから。

 にしても、どうして孔明が彼に仕える気になったのか、少々疑問は残る。玄徳が孔明を三顧の礼で迎えようとしていたとき、まだ玄徳は自分の国(領地)を全く持っていなかった。すでに「劉備玄徳=徳の人」という話は国中に知られていたらしいが、とにかくそれまではさしたる功績をあげてこなかった(一応役職はもらっていたようだが)。荊州というところの劉表という人の下で、客将、つまりお客さん(居候か?)をしていたのだ。これについて、玄徳もちょっと不憫だなと思うのは、すでに、関羽、張飛という戦争時には相当に頼もしい義兄弟はいたものの、孔明のような知略を巡らせてくれる、頭脳面で頼れる相手がいなかった点(どうやら義兄弟は、ソッチ方面では信頼されていなかったらしい…)。つまり、自分一人で考えるのには限界があって、軍師なしの玄徳は最大限の実力を発揮できていなかったんじゃないだろうか、と想像できるのである(と蜀びいきの私はフォローしておこう)。実際、孔明を軍師に迎えた玄徳は、「(自分は)水を得た魚のようだ」とベタボレだった(有名な、“水魚の交わり”ってやつです)。

 こういったもろもろの条件を思うにつけ、頭の中に「if」が浮かんでくる。例えば、「もし、孔明が玄徳でなく、曹操側についていたら?」これはもう、間違いなく曹操の天下である。今に残る「三国志」、にはならなかった。「魏志」のみだったはずである。が、この可能性は低い。なぜなら、孔明は曹操とは相容れない性質の持ち主だったから。まだ孔明が幼い(といっても、今で言えば中学生くらいか)頃、曹操軍が、まるで雑草を刈り取るかのように、ある土地の者を惨殺し尽くし、焼き払った光景を目にしたことがあるらしく、それは孔明の心の中に深く残った。それ以来、のちに仲間同士で「誰に仕官するか」「天下は誰が取るのか」といった話をしているときにも、口には出さなかったが、「絶対に曹操にだけは天下を取らせてはならない」と強く心に思っていたらしい。今の言葉で言うと、「トラウマ」ということになるのだろうか。もし、曹操がその大虐殺を行わなかったら、孔明が曹操陣営に入ったかもしれない。

 さて、劉備玄徳は仁義の人で、その名を国家に広く知られていた。そして、彼の目指していたものは「漢王室の再興」。実際には、この時代はまだ「後漢」だったと思うのだけれど、当時、すでに漢王室の権力はなく、しかも帝は曹操に庇護されていた。曹操はそれを大義名分に、好き勝手することができたのだ。もし、落ち延びる帝を、玄徳軍が保護できていたら、もっとずっとたやすく「漢王室の再興」は達成できたかも。

 劉備玄徳が「漢王室の再興」を目標に掲げていたのに対し、曹操は「覇王主義」であったらしい。つまり、「力のなくなった王室なんてぶち壊して、力のあるもの、つまり自分が王権を持つべきだ」というような考え方だったのである。では、諸葛孔明はどうだったか。私がこれまで読んだ本の話を総合してみると、どちらかというと「漢王室の再興」よりだったようだ。「どちらかというと」と書いたのは、孔明は非常に現実主義の人なので、玄徳の掲げる「漢王室の再興」が、それほど重要ではないと思っていた節があるからだ。ただ、彼の目指す「天下万民の平和」を成し遂げるのに一番近かったのが、玄徳の考え方だった。だから、彼を補佐していこうと決めた。のではないだろうか。

 ちなみに、それとは別に、消去法で考えてみても同じ答えにたどり着く。孔明が曹操陣営に入る。これは前述の理由より×。むしろ、曹操に天下を取らせないためにはどうすべきか、という観点で動いていたようにすら思える。では、呉の孫権はどうか。孫氏は名門で、陣営には周瑜
(シュウユ)や魯粛(ロシュク)といった参謀がいたし、孔明の兄・諸葛瑾(キン)も孫権に仕えていた。普通ならば、兄が信頼して使えている将なのだからいいのでは?と思うかもしれない。しかし、諸葛の家はどうやら逆であった。諸葛家を長く存続させるためには、一箇所に固まらず離れているべきだ、という考えのもと育ってきた孔明が、兄と同じ主に仕えることはまずなかったと考えていいと思う。もちろん、孫権の主としての資質もしっかり判断はしていただろうけれど。

 そんなわけで、果たして劉備玄徳に三顧の礼で迎えられた諸葛孔明。ほとんどなーんにも持ってない玄徳に大願を成就させるのは、もしかしたら軍師としてはこの上ない晴れの舞台を与えられて、腕が鳴るぜ!という感じだったかもしれない。が、いかんせん、何ももってなさすぎました。しかも、唯一にして最大に武器「人徳」が、時に進む道をより困難にするんだからやっかいなんである。

 こんなエピソードをご紹介。敗戦の将・劉備を快く荊州に滞在させてくれた劉表。彼は、臨終にあたって、「劉備に荊州を治めて欲しい」と願った。もちろん、彼にはあとを継ぐ息子もいたのだが、もしその息子たちに荊州を治める力がなかったらよろしく頼む、と思っていたのだ。孔明はもちろん大賛成。彼の目指す「天下三分の計」は、劉備が荊州と益州を手にして始めて可能となるからである。というか、多分この状況になったら誰もが思うはず。「闘わずして荊州が手に入る」と。しかも、相手を騙して奪い取るわけでもなく、「頼む」といわれているのだから、素直に「はい、頑張ります」、昔風に言うなら、「及ばずながら、全力をもって務めさせていただきます。ご案じめさるな。」くらい言っておけばもうノープロブレム。第一段階クリア、だったのに。そうすれば、その後荊州を手に入れるために費やした時間が節約できた=早く「天下三分の計」が実現する=玄徳の御世が少しでも長く続く=民の平和が続く、のに。がしかし。ここまで書けばおわかりかと思うが、そうです、玄徳は死の床にいる劉表に向かって、「私が荊州を受け継ぐなんてとんでもない。(後継ぎの)息子さんを精一杯お助けいたしますよ」とお断りしてしまったのです!あーなんてこった。これには、孔明も「オーマイガッ!!」と頭を抱えたに違いない。大望と仁義と一体どっちが大切なんだ!と正直思ったことだろう。「私と仕事、どっちが大事なのっ!」と詰め寄る女のように(笑)。事実、「荊州をお取りなさい」と進めた孔明に対して玄徳は、「うぅ…」と悩みに悩んで、「いや、できない。劉表殿は、敗走する私を快く客将として迎えてくれたのだ。それなのに、そんな乗っ取るようなことはできない」と言っている。もちろん、孔明だって「はいそうですか、じゃあきらめましょう」と簡単に引いたわけもないから、懸命に「今、荊州を手に入れることが、のちのち民のためになるのだ」と説明し、説得しようとした。が、どーにもこーにも、義の人は「わかった」と言わないんだから困る。玄徳だってバカじゃないから、どっちが得かはちゃんとわかっている。わかっているが、できない。彼の心が「うん」と言わないのだ。どこまでも、人徳・仁義の人。読んでいるこちらとしたら、「あーもう、バカっ!」と頭の一つも叩いてやりたい気持ちだが、逆に言えば、ここまでしても義を貫く人だからこそ、今に名を残せたのかなぁ、とも思う。すぐにはがれる金メッキのような義ではなく、根っからの義の人。もし、そこに孔明が惹かれたのなら、それこそ劉備玄徳の人徳かもしれない。そうとでも思わなくては、ここで荊州を手にできなかった、という事実があまりに惜しく、悔しくてならない。「もし、劉表の死後、劉備が即荊州を手に入れていたら…」。これが、まず一番の「if」である。

 第二の「if」は、「もし、劉備の息子・劉禅がもう少し出来の良い子であれば…」だろうか。玄徳が義の人だったせいかわからないが、劉備には劉禅という息子が一人しかいなかった。劉禅の母親・甘夫人の死後、孫権の妹と結婚するが、どうやら子供はできなかったらしい。賛否両論あるだろうが、一人息子、特に裕福な家や名家の一人息子は往々にしてボンクラである(言い切っちゃったよ)。豊臣秀吉の息子や武田信玄の息子がそうだったように、親が優れていればいるほどその傾向が強いように思われる(曹操の息子たちは結構優秀だったんだけどなぁ…)。比類なき人徳者・劉備玄徳の息子も残念ながら同じだったらしく、知も武もイマイチだった。それは、親の玄徳もよくわかっていたらしく、死の間際に「孔明よ、もし禅にその才能があるなら、よく助けてやってくれ。もし、才がないと思うなら、遠慮なく禅に代わって蜀の国を治めてくれ」とはっきり言っている。玄徳は現実の見えないオバカな親ではなかったらしい。当然、孔明とて劉禅の実力のほどはよくわかっていたはずだから、先主・劉備の言葉通りに行動するならば、孔明が蜀王になってもよいはずだった。なぜ彼がそうしなかったのかはわからない。あれこれ読んでみたが、「なぜ」という部分に触れたものは一つもなかったように思う。もしかしたら、正史にはそれに関する記述が全くなかったのかもしれない。「演義」では、孔明は劉備を支える最高のヒーローであるから、いくら息子が平凡な能力しかなかったからといって、それに取って代わるなどと書いてあるわけがない。となると、もうその時の「なぜ」は誰にも何とも言えないものになってしまう。残念。孔明の判断として、このまま劉禅を王にして、それを補佐しつつ「天下三分の計」を守っていくのが最良の策だ、と思ったのか、それとも、いつの間にか主である劉備の義が乗り移っていて、「はい」とは言えなかったのか。「もし、孔明が王となって蜀を治めていたら…」と考えるのも一つの「if」だけれど、蜀びいきとしては、やはり孔明には最後まで軍師として知力の限りを尽くして戦ってほしいなぁ、と思ってしまう。そして、少なくとも、劉禅がもう少し優秀だったら、孔明の死後も蜀国は1年でも2年でも長く続いただろうに、と考えると重ね重ね残念である。

 一応付け加えておくと、孔明死後、蜀の国は十数年続いたらしい。が、皇帝・劉禅が次第に宦官びいきになり、国を思う家臣にも恵まれず(劉禅の自業自得だと思うけど)、国は傾き、最後には魏に滅ぼされてしまうのである。それでも、降伏した劉禅はその後、平穏に一生をまっとうしたそうであるから、志半ばで倒れつつも後世に語り継がれる名将の父・劉備と、果たしてどちらが本当に幸せなのかと考えると、何とも言いようのない後味が残ってしまうのはなぜだろうか。

 他にも「if」はある。「泣いて馬謖を斬る」という言葉を、聞いたことがある人はある、かもしれない。馬謖(バショク)というのは、蜀の軍師・諸葛孔明が、最も可愛がっていた(目をかけて期待していた)部下である。単に可愛がられていただけでなく、もちろん才能もあった。そんな彼がなぜ斬られてしまったかというと、戦において孔明の命令に背いて、その結果蜀軍を大敗させてしまったから。「街亭の戦い」というのだが、これは蜀の第一次北伐(魏を倒すための戦)において最重要といっていい戦略だった。もし、馬謖が孔明の命どおり動いていたら…もしかして、いやきっと蜀V.S.魏の関係が変わっていたに違いない。とにかく馬謖は命令違反をし、その結果が大敗。蜀軍のいわゆる大将である孔明は、常日頃から厳しく規律遵守を将・兵士たちにしつけてきた。法治国家を目指していたのだ。当時としては画期的なことである。その代わり、身分が上でも下でも公平に裁くことを絶対としていた。馬謖はかわいい。これからもっと育つだろう。でも、上に立つ自分が法を守らないわけにはいかない。で、孔明は泣く泣く馬謖の首を刎ねたのである。そして、孔明自身も位を丞相(最高位)から右将軍に格下げをすることで、自分の責任を明らかにした。という、これが「泣いて馬謖を斬る」の語源にあたる出来事なわけですが。

 さて。この孔明の処置については反論がかなりあるようで。それは、ただでさえ蜀は人材が不足しているのに、才ある馬謖をみすみす殺してしまったのは間違っている、という意見である。確かに、ご意見ごもっとも。蜀は、なんと言っても孔明のワンマン政治であるから、なかなかその次の人材が育ってこなかったらしい。しかも、その政治手腕などと比べると、どうも人材育成はあまり上手ではなかったらしいという見方もあるようで、そうなるとますます馬謖の存在が惜しまれるわけだ。大体にして、天才・孔明の知力をもってすれば、どんなに大罪をおかした馬謖であっても、何とか命だけは救う方法があったのではないか?とも思うのは当然だろう。おそらく、馬謖処罰に反対した将たちも、同じことを思ったに違いない。が、あるいは…と私が思うに、かなり危ない考え方だが、大敗して消沈している軍を再び盛り上げるために孔明が仕組んだはかりごとだったのかもしれない。もちろん、馬謖の犯した罪は100%馬謖のせいであるから、馬謖が処刑されても一向に間違ってはいないのだが、それを孔明が「泣く泣く」やったことに実は意味があって、「あんなに可愛がっていた馬謖殿を斬られた。しかも、丞相の位を返還された」とみんなが感じることによって、再び蜀軍は一つに強くまとまる。そこが狙いだったりして……「もし、馬謖が生きていたら」何が変わっただろうか。

 余談。
 「泣いて馬謖を斬る」は、「目をかけていた部下を失って泣いた」という意味の「泣く」だと、おおよそは捉えられているようだが、そうではない見方をしている人もいる。「馬謖という人物を見る自分の目がなかったことが悔やまれて泣いた」という「泣く」。そう考えると、孔明ってヤツは何て自己中心的なんだろ、ということになる。孔明ファンに怒られそうだが、そういう解釈もできる、ということなので気を悪くしないでほしい。

 余談2。
 馬謖のエピソードについては、まだ余談がありまして。実は、劉備玄徳は死の床で、孔明に「幼常(馬謖の字
あざな)は言うことが立派すぎて、行動が伴わないことが多い。あまり重用しないように」と言い残していた。が、孔明はあまりその意見について真剣に考えなかった。が、よく考えてみれば、玄徳の評が正しかったことになるわけで、自分の息子(劉禅)についても私心を交えることなく評価していたし、思ったより(もしかしたら孔明以上に)人を見る目があったのかもしれない。のわりには、孔明が必死に止めたにも関わらず、殺された義弟・関羽と張飛のあだ討ちに準備不十分で出て、結局はその戦がもとで自分も亡くなったわけだし…玄徳がどんな人物であったのか、またわからなくなる気がする。

 さてさて。いよいよ最後にして最大の「if」。「孔明があの時生き長らえていたらどうなったか」。あの時、というのは「五丈原の戦い」のことで、最後の力を振り絞って孔明が仕掛けた北伐である。その最中に彼は無念の死を遂げることになる。享年54歳だったというから病死であろう。「血を吐いた」などという記述もあるようだ。どんなに天才でも同じ人間。孔明の寿命を短くしたのは、その重責であり、多忙であったろうと思う。決して信頼できる部下がいなかったわけではないのに、細かい刑罰の決裁まで全て自分で行っていたというから、たとえ病死だったとしても、「過労死」と言った方が正しいのかもしれない。

 「魏を倒す」。この孔明の命をかけた執念を阻んだのが、魏の丞相・司馬懿仲達、孔明最大のライバルである。仲達は孔明より2歳年上であるが孔明より17年長生きした。しかも、クーデターを起こして魏の政権を乗っ取り、やがて晉という新しい国を起こしてしまう。言ってみれば、孔明と全く正反対の人生を歩んだのが、この司馬仲達という人物なのだ。仲達については、詳しく書かないことにする。とにかく、彼は勝ったのだ。五度にわたる蜀の北伐を退けたのだから。その結果は結果として受け止めるとして。仲達といえば、必ず「孔明の最大のライバル」などという言われ方をするが(私もそう書いたが)、果たして本当にそうなのだろうか?確かに天才ではある。勝者でもある。でも、魏の抱負な人材と、40万もの大軍、そして尽きることを知らない大量の兵糧をもってすれば、弱小の蜀軍に勝てるのは、当たり前なんじゃないだろうか。背景にある国力の大差を鑑みずに、どちらの方が優れているか、二人は好敵手(ライバル)であった、と表現するのが、どうにも釈然としないのである。

 そういうときに私が必ず頭に思い浮かべるのが、F1である。時々レースをテレビで見るが、あの赤いレーシングスーツに身を包んだ彼が、表彰台の一番高い場所に立つ度に、「あんだけのチーム力があったら勝って当たり前でしょ?」と思ってしまう。もちろん、ドライバーとしての能力も重要だが、それ以上に「チームとしての強さ」が結果に繋がっていると思えるからである。ハッキリ言ってしまえば、「全く同じ性能のマシンで、あんたホントに勝てるの?」ということである。話を戻して三国志に置き換えれば、同じ力の軍をもってして戦ったとしたら、果たして仲達は勝てたのか。皆さんの指摘したいことはわかる。F1も戦も個人種目ではない。チームスポーツだ。だから、そのチームスポーツに対してチーム力にケチをつけるのは間違っている。が、それでも言いたい。「チーム力にすでに差があるのに、単に頂点に立っている人(F1ならドライバー、戦なら軍師)の能力をとやかく言えるのか」と。

 しかも、孔明はこの戦の途中で亡くなっている。もう余命がないことは仲達も知っていて、あえてその時が来るのを待っていたのだ。だから、再三孔明が魏軍をつついても、頑として仲達は動かなかったのである。それも一つの戦略であるから、文句は言えない。言えないが、こんな終わり方をした「孔明V.S.仲達」において、彼らの能力に対する評価を安易に決めて欲しくないと思ってしまう。「もし、孔明が五丈原で生き長らえていたら」、違った評価になっていたかもしれないのだから。

 そんなわけで(前置き長すぎる)、これまでの孔明が五丈原で力尽きるシーンはササッと読み飛ばして来たわけです。と・こ・ろ・が!

 あー長かった(笑)。言いたいことはここからです(長いよ)。

 そんな私の長年の「if」を解消してくれる作品を、前述の「歴史ifノベルズ」シリーズに見つけたのです。もちろん、すべての私の「if」について歴史が変わっているわけではない。先主・劉備玄徳が死後から始まるifストーリーなので、玄徳時代の事実は事実のまま。どこが違っていたかと言うと、「もし馬謖が生きていたら…」と「もし孔明が五丈原で死なずに生き長らえていたら…」という2点。

 では、どうやって馬謖を生きていた状態にしたか、と言うと、命に背いて軍を大敗させた馬謖は、実は孔明によって身代わりを立てられ、命を救われていた。が、馬謖のままではどうしようもない。そこで、もともとの顔を傷つけさせ変形させて馬謖とわからぬようにし、その上で、孔明の間者集団「臥竜耳」の頭領として訓練させ復活させる、という展開である。しかも、「臥竜耳」は、遠い昔に歴史の表舞台からその姿を消していた「墨家」の流れを汲む集団で「裏墨家」と呼ばれる者たちであった、というのだから、作り話にしてはなかなか奥の深い(つまり、ホンモノっぽい)設定ではないだろうか。この設定は作者のツクリモノだが、現在に残されている文書にも「本当は処刑されていなかったのでは?」と思われる部分がある。正史では「処刑された」とあるのに、諸葛伝では「逃亡した」、また他の伝では「獄死した」とあり、多少の食い違いを見せているのである。

 難しいのは、どうやって「孔明が五丈原で死なない」ようにしたのか、ということ。実は元気だったのでした、なんていう話ではウソっぽすぎるし、ある意味玄徳死後の主役・孔明が死ぬべき場所で死ななかったとなると、その後の展開にまで大きく影響する。作者は、事実どおり孔明は病気であるとした。それも、普通ならもう直らないくらい悪化した、今で言う肺の病気。それを天下に名高かった名医・華佗の弟子が、彼の得意とする鍼治療で治してしまったのだ。そして、仲達が想像しているとおり「孔明は死んだ」ということにして、その裏をかき魏軍を撃破。そのままどんどん攻め上って長安、洛陽を奪い、とうとう仲達を北の果てまで追いやる。いかに歴史上の人物とはいえ、やはりその生命までを変えてしまうことには抵抗がある人もいるようで、この本を読んだ人の感想もさまざまである。単に歴史小説として楽しむ人、三国志の歴史をなまじ知っているだけに「ちょっとやりすぎ」と感じる人。私は、単純に嬉しかった。三国志を知ってから長い間、変えられぬ史実と理解しながらもどうしても晴れなかったモヤモヤが(ある種、魏への恨みか)やっと取り払われた!そんな気分であった。実は、小説の中で、孔明が命を長らえてからの展開の中に、妖術を操って孔明を殺そうとする左慈なる人物が出てきたり、それを救うために、なんと!冥界から亡き関羽がやってきたり、と「さすがにそこまで」という部分もあるにはあったのだが、それでも私が抵抗を感じなかったのは、作者が「蜀国が覇権を完全に制する」ところまで無理矢理もっていかなかったからだと思う。ひとまず長安、洛陽を落とした蜀軍だったが、孔明は「今回は、天機が我らにあっただけで、魏(仲達)は必ず機を待って再び攻めて来る。呉の孫権もまだまだ侮ることが出来ない」と先主・玄徳の廟前で報告して小説は終わっているのだ。それによって、私たちは「その後も更なる三国志が続いていったのだろう」と想像のままに本を閉じることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 と、ここらあたりまで書いた頃、とあるなかなか当たると評判の占い(?)の結果を見た。それによると、私は恋愛面において、「ロマンチスト」なんだそうだ。つまり、「恋に恋する夢見る夢子ちゃん」らしい。ふーん、当たってるかもね。と思って、ハッと気づいた。なんだ、ここまで散々「三国志がどーのこーの」とか「もしも○○だったら」とか、自分がさもいろいろ考えてひらめいたように書いてきたけど、もともと私が持っている思考回路が働いたダケなんだ、と。↓に載せた参考文献を読んでいる時に、グワーッとあれやこれやが頭の中に巡って「あ゛ぁー書きたいっ今すぐ書きたいーっ」と思い立ったわけだけれども、それは、昔から興味があって(好きな)三国志だったからだと私は思っていた。でも、違ったんだな。私の中の気質が第一の要因だったんだな。生まれ持った気質って、一生変わらないし変えることもできない、って知ってました?まぁそのあたりのことは学生の時にちょっと学んだんですけども、その後、「一生変えられない」と身をもって知ってしまいまして。それが、トラウマっていうのか挫折っていうのか、とにかく壁にブチ当たったわけです、全体的に。今回も勢いでここまで書いてきて、でもあれれ?と思った時点で、急速に心の温度が下降。だらだら書きつづけても面白くはならないと思うので、中途半端だけど↑のままで終わることにしました。ごめんなさい。でも、どーでもいいや、と思って終わったわけではないし、私の持っている(らしい)。ロマンチストな思考回路も(時と場合によっては)嫌いではないので、また違うテーマで大量に語ることがあるかも?いや、きっとある。その時はまたお付き合いください。

 

:参考文献:
諸葛孔明 上・下/陳 舜臣 著/中公文庫(1993)
三国志 孔明死せず/伴野 朗 著/集英社文庫(1996)
三国志新聞/三国志新聞編纂委員会 編/日本文芸社(1998)
読み忘れ 三国志/荒俣 宏 著/小学館(2002)

2004.5.19


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