秘密基地「道楽庵」
雑 記 帳


UWFとはプロレス・ファンが抱いた幻想だったのか?


 子供の頃からプロレスが好きだった。
 1969年10月2日からテレビ放映されたアニメ「タイガーマスク」の影響か?燃える闘魂アントニオ猪木が好きだった5歳年上の兄の影響か?何故好きになったのかは分らないけど、男というか、雄というのは、遺伝子レベルで闘争本能が組み込まれているせいなのかも知れない。

 プロレスは格闘技ではなく、単なるショーだとか八百長だとか言われ、プロレス・ファンは随分肩身の狭い思いをしてきた人も多いのではないだろうか?
 相手の得意技をガンガン受けてから、それをはね返して、自分の得意技で仕留める。相手のいい持ち味を全部出し切らせてから、自分はそれよりも、もっと強いんだぞっ!という感じで、形勢逆転して勝利する。それが、いわゆるプロレス独特の「受けの美学」と呼ばれる。
 ヘビー級のプロボクサーが相手の必殺のパンチをノーガードで顔面に受けたら、それだけでノックアウトされて、終わりだろう。ノーガードでも、ウィービング、スウェーバック、ダッキングといった防御テクニックを駆使してパンチをよけないと、秒殺されてしまうだろう。
 柔道なら、相手の背負い投げを受けてしまったら、それで一本負けで、終わりだ。
 立ち技格闘技最強と言われるタイの国技であるムエタイ(タイ式キックボクシング)は、ギャンブルの対象でもあり、序盤にわざと劣勢に立っておいて、掛け率を上げてから、本気を出すという戦略があるらしいので、ある意味においてプロレス的要素を持つ格闘技と言えるかも知れない。

 「UWF」とは、「ユニバーサル・レスリング・フェデレーション」の略称で、1984年に設立されたプロレス団体で、元々はアントニオ猪木の新日本プロレスから派生した団体で、UWFの看板レスラーだった前田日明は、「猪木さんが『俺も後から行くので、先に行ってくれ』と言われたので、新日本プロレスからUWFに移籍した」と証言している。
 1984年4月11日に埼玉の大宮スケートセンターで行なわれた旗揚げ戦には、ポスターに掲載されていたアントニオ猪木をはじめとする新日本プロレスの主力選手の出場は無かった。
 後日、新日本プロレスから藤原喜明や高田延彦が合流したあたりから、新日本プロレスの道場で行なわれていたスパーリングのような関節技の攻防を中心としたガチンコのファイト・スタイルが確立されてくる。
 1984年7月23日・24日に後楽園ホールで開催された大会は「UWF無限大記念日」と銘打たれ、初代タイガーマスクの佐山聡がザ・タイガーとして、タイガージムでインストラクターをしていた山崎一夫と共に参戦した。
 更にプロレスの神様カール・ゴッチから「息子」と呼ばれる木戸修が加わり、ゴッチ流のストロング・スタイルのプロレスが標榜される。
 プロレスの定番であるロープに飛ばされたら、反動で戻ってくるロープ・ワークを廃し、相手の技を簡単に受けないというプロレスのショー的な要素を排除したストイックなスタイルは、試合中の乱入や場外乱闘といった試合の決着をうやむやにさせる試合内容にウンザリしていたプロレス・ファンに歓迎された。
 とは言え、テレビ中継の無いUWFは、資金繰りが厳しくなり、経営が行き詰まってくる。そんな中、1985年9月2日に大阪府立臨海スポーツセンターで行なわれた佐山聡対前田日明戦で、前田が佐山にやたら顔面への張り手を連発するなど、喧嘩ファイトを仕掛ける。試合は佐山が前田のキックが金的に当たったとレフェリーにアピールして、前田の反則負けで終わる。前田はさっさとリングを降りてしまう。テレビ中継は無いが、後日ビデオでこの試合を見た時に、最後の金的は当っていないのが確認できる。テレビ中継のようなアナウンサーや解説者の実況が入らないせいもあり、ただならぬ雰囲気が漂う後味の悪い試合で、この後、前田は試合を欠場し、同年9月11日の後楽園ホールの大会でUWFは自主興行ができなくなり、崩壊する。

 1985年12月6日両国国技館で、「この1年半のUWFの戦いがなんであったかを確認する為に、新日本に来ました」という挨拶と共に、前田をはじめ主力レスラーが古巣の新日本プロレスに業務提携という形で電撃復帰する。全日本プロレスのジャイアント馬場も前田獲得に動いていたらしいが、UWF所属レスラー全員は受け入れられないという条件面での折り合いがつかず、結局、新日本プロレスに出戻る事になった。
 当時、新日本プロレスのテレビ放送の実況をしていた古舘伊知郎アナウンサーは、「闘いのカンバック・サーモン」と表現していたが、確かにUWFは新日本プロレスの道場をルーツとしており、言い得て妙である。

アキレス腱固め 1986年の年明けから、アントニオ猪木との対戦の挑戦権を賭けたUWF勢のリーグ戦が行なわれ、藤原が勝ち残り、2月6日両国国技館にて猪木対藤原戦が実現する。アキレス腱固めやヒール・ホールドなどの関節技の応酬や、藤原の関節技に対して、その角度じゃ決まらんねぇーぞ的な指摘をするなど、おもしろい展開もあったのだが、結果的には、猪木が反則の金的蹴り、藤原のヘッドバットに合わせてカウンターでナックルを藤原の顎に入れ、魔性のスリーパーホールドで藤原を失神KOする。セコンドについていた前田は「猪木だったら何をやってもいいのか?」と猛抗議し、試合後のリングに乱入し、左ハイキックを猪木の喉元にぶち込む。試合後で油断していたとは言え、あの猪木をキック1発でぶっ倒した前田恐るべしである。これ以降、猪木は前田とのシングル戦を行なっていない。かつて「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」と公言していた猪木であれば、前田との一騎打ちで決着をつけて欲しかった。
 それでも、これ以降、新日本プロレスの「ストロング・スタイル」と、キック、スープレックス(投げ技)、サブミッション(関節技)の打投極の3要素からなる「UWFスタイル」という2つのプロレス・スタイルが、様々な形でリング上で激突する事になり、それは新日本プロレスを活性化させ、UWFスタイルの価値を高める結果となった。

三角絞め 中でも、新日本プロレスが「前田潰し」を画策し、3月26日津市体育館では人間山脈、大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント戦、10月9日両国国技館のキック・ボクサーのドン・中矢・ニールセンとの異種格闘技戦を仕掛けたが、この2つの試合は未だに伝説的な内容となっている。アンドレ戦は、最初はテレビ放映予定で収録されていたが、異様なセメント・マッチとなり、前田がアンドレの内膝への関節蹴りを放ってからアンドレが戦意喪失し、リング上で大の字になってしまう展開となり、ノーコンテストとなり、急遽放映が見送られた。平成になってから、公式DVDにも収録されるようになった一戦であるが、古くはプロレスの裏ビデオとしてマニアの間で流通していたらしい。ただ、あの大巨人を戦意喪失に追い込んだ前田の商品価値を高める結果となった。ニールセンとの異種格闘技戦は、試合前のメンチ切り合い(ガンのつけ合い)で始まり、前田が関節をとっても、すぐにニールセンがロープに逃げるというイライラする展開が続いたが、最後は片逆エビ固めで前田が劇的なギブアップ勝ちをおさめた。同日行なわれた猪木とプロボクサーのレオン・スピンクスの異種格闘技戦が「世紀の凡戦」と酷評された事も手伝って、前田が「新格闘王」と呼ばれるようになった。新日本プロレスの「前田潰し」の刺客が、それぞれ前田の格闘家としての評価を高める事に、はからずも貢献してしまったのは皮肉な話である。
 猪木が前田とのシングル戦を徹底して避けたのに対し、新日本プロレスでは猪木に次ぐNo.2のポジションにある藤波辰巳は正々堂々真っ向勝負で応えた。1986年6月12日の大阪城ホールでのシングル戦は、プロレス史に残る名勝負となり、1986年のプロレス大賞のベストバウトに選ばれた。新日本プロレス勢は、UWFスタイルのキックに対するディフェンスが全くできない。長身の前田が繰り出すハイキックは、軽く藤波の頭上を越えていく。前田の容赦ないキックを顔面や胸板に受ける藤波は防戦一方であるが、要所要所で腕ひしぎ逆十字やボウ・アンド・アロー(弓矢固め)、ジャーマン・スープレックス、スコーピオン・デスロック(サソリ固め)といった技を見せる。前田もキャプチュード(捕獲投げ)で投げるが、当時は名前が決まっていなかったのか、古舘伊知郎アナウンサーは「脚を抱えてのスープレックス」と実況していた。コーナーを背負った藤波に前田の縦回転のニール・キック(大車輪キック)が炸裂し、額から流血する。なおも前田は藤波をドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)、超低空の高速ブレーン・バスターと攻め続ける。最後はロープ・ワークを使わないはずの前田が自らロープの反動を利用し、フライング・ニール・キックを出した所を藤波がジャンピング・ハイキック(レッグ・ラリアット?)で迎撃するような形で、二人が空中で交錯し、同士打ちになり、前田も後頭部を強打して、両者ノックアウトで引き分けとなった。試合後、前田と藤波は握手を交わし、「もう1回やろう」というようなジェスチャーを見せ、お互いの腕を挙げ、称え合った。前田は後に「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と藤波の事を評価している。

前田対藤波 この前田対藤波戦を、もう一度ビデオで見てみると、藤波が額から流血した直後、前田が心配そうな表情で暫く見ている場面があり、後日、前田が藤波の流血は、シューティング・レガースの下に履いていたシューズの金具が当って、切れてしまったと語っており、最後の異例のロープ・ワークや後頭部を痛打しての両者KOという結末も前田の先輩である藤波に対する遠慮のような気がしてならない。

 1987年になると、長州力率いるジャパン・プロレス軍団が新日本プロレスのリングに電撃復帰し、UWF勢の影が薄くなり、その長州がナウ・リーダーである猪木やマサ斉藤らの世代と、ニューリーダーである長州、藤波、前田らの世代の「世代闘争」を呼びかけたにもかかわらず、言い出しっぺの長州が、あっさり世代闘争を放棄した事により、前田と長州の確執が生まれた。前田は、長州が世代闘争を呼びかけた時にも、「ごちゃごちゃ言わんと、誰が一番強いか決めたらええんや!」と言っていた。1987年11月19日の後楽園ホールでの長州、マサ斉藤、ヒロ斉藤の維新軍対前田、木戸修、高田延彦のUWFの6人タッグ・マッチで、長州が木戸にサソリ固めを仕掛けている背後から、前田が長州の顔面を蹴る「顔面蹴撃事件」を起こし、長州は眼窩底骨折で全治1ヵ月の重傷を負い、前田はプロレスの暗黙のルールを破ったとして、無期限出場停止処分を受ける(1988年2月1日付で解雇処分)。
 この事件に際し、猪木は「プロレス道にもとる行為」と前田を批判したが、タッグ・マッチにおいて、タッグ・パートナーの危機に際し、カット・プレイに入るのは当然だし、敵の背中にストンピングを落とすなどは珍しくもない日常的な光景である。相手に重大な怪我を負わせた事は問題視されても、敵の背後からのキックを「プロレス道にもとる行為」とは、お笑い種ではないか?猪木は、数々の修羅場で、反則攻撃を巧みに使い、勝利をおさめてきた張本人ではなかったか?2カウントまでは反則も許されるのが、プロレスのルールではなかったか?要するに、猪木は自分のプロレスラーとしての地位を脅かす存在にまで成長した前田を、自分のリングから排除したかっただけなのである。

 新日本プロレスを解雇された前田は、高田延彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸成夫、中野龍雄らと新生UWFを立ち上げ、1988年5月12日後楽園ホールでの「STARTING OVER」と銘打たれた旗揚げ戦のチケットは15分で完売したという。
 新生UWFは、既存のプロレスが毎日のように巡業や試合をしていたのに対し、試合数を月1回程度に抑え、ミュージシャンのコンサートのようなイベントの演出や運営を取り入れ、既存のプロレスとの差別化を行なう為、「プロフェッショナル・レスリング」、「本物」、「真剣勝負」などの言葉が多用された。
 テレビ中継は無かったが、プロレス雑誌や格闘技雑誌が、各大会ごとに別冊増刊号を発行するなど、大きくバックアップし、一般のテレビ番組やマスコミも新生UWFを取り上げ、大きな成功を収めた。当時、「週刊プロレス」の編集長をしていたターザン山本(山本隆司)は、既存のプロレス・ファンがUWFを見に行く事を「密航」と表現し、作家の夢枕獏、俳優の森本レオなど、多くのタレントや文化人が新生UWFを支持した事も、新生UWFの人気に拍車をかけた。
 テレビ中継が無いという点では、旧UWFと同じであるし、初代タイガーマスク佐山聡のような人気スターもいない。それでも、新生UWFは社会現象とも言えるほどの大成功をおさめる事ができたのか、それは新日本プロレスとの業務提携時代に、新日本勢との抗争の中、UWFスタイルを貫き、それがテレビ中継で広く浸透した為ではないか?そして、そのUWFのエース前田を潰そうとした刺客が次々に倒され、前田が「新格闘王」の称号を得て、猪木がシングル戦を避けた事により、猪木と戦わずして前田は最強のイメージを確立し、カリスマ性を高めた為ではないだろうか?仕上げは、前田が長州の顔面蹴撃事件により、新日本プロレスを解雇された事により、日本人の気質である「判官贔屓」の心理が働いて、前田を応援しようという動きを加速させたのではないだろうか?
 藤原喜明、船木優治(のちの船木誠勝)、鈴木実の参戦、若手の田村潔司、垣原賢人、冨宅祐輔らの成長など、団体運営は順調に見えたが、メガネ・スーパーのプロレス界参入あたりから、神新二社長と前田が対立し、1990年12月の長野大会を最後に空中分解してしまう。新正UWFの成功は、バブル経済の象徴だったのだろうか?
 1991年に前田は「リングス」、藤原、船木、鈴木は「新UWF藤原組」、高田、山崎、安生、宮戸、田村は「UWFインターナショナル」とU系3派に分裂してしまった。

 新生UWFのイベントの興行的成功は、その後のK−1の成功、総合格闘技ブームの下地を作った。大晦日の夜に民放のテレビ局が複数格闘技番組を放映する時代が来るなんて、誰が想像しただろう?ただ、そんな格闘技ブームもあっという間に廃れ、総合格闘技イベントPRIDEは消滅し、K−1も出場選手のギャラの不払いで消滅の危機に瀕しているらしい、巨額の金を生むビジネスは長続きしない。人々の関心は移り易く、刺激は慣れると、刺激ではなくなる。 

 最後にUWFとは、一体何だったのだろう?プロレス・ファンが抱いたひと時の幻想だったのだろうか?
 私には、前田日明という一人の若きプロレスラーが理想の格闘技を求めて、様々な挫折を繰返しながら、新格闘王と呼ばれるまでに成長していく物語であったような気がする。 

(2012年8月18日)


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