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ANGEL TRANS 「僕らはニセモノなんだ。そしてあの空も、この街もすべて。」
紅一は波に揺らいでいた。 揺れる波紋がひどく高いところに見えて、またどんどん遠ざかって行くのがわかった。
(そうか、僕は沈んでいくんだ。) 耳のすぐそばで、波がささやくように音を立てる以外はなんの音も無い。遠ざかる波の天井から、幾筋もの光が手を伸ばしていた。紅一が手を動かすと、光が砕けてばらばらになり、またすぐにもとの場所に集まる。 透明なかけらが、波の天井を目指していくつも昇っていった。
(磨いた水晶みたいだ) 紅一は昇っていく水晶の行方を眺めた。吸い込まれるように、恋焦がれるように、上を目指して形を変えながら昇っていく水晶のかけら。しかし波の天井に着いた瞬間、それは静かに、一瞬で弾けて、消えた。 (消えた、) 紅一はふいに悲しくなった。 しかしその間にも、紅一の身体はどんどん沈んでいく。だんだん、波紋が、壊れる光が、遠ざかるのが紅一の目に映る。不意に背中が寒くなった。
(怖い) 紅一はなんとか上に昇っていこうとした。でも体はもう凍りついたように動かない。その脇を、透明な水晶がいくつもすり抜けて、上っては消えていく。空の波が、だんだん薄れていく。消えていく。からだは動かない。動かない。耳もとの波の音がふいに、大きくなった。 (呼んでる) 波の音がだんだん、硬質な機械音に変わっていくのを聴いた。
紅一は目を覚ました。 電話だ。ソファーから身を起こす。体がやけに重い。地面が数メートルも下にあるような気がした。
視界がまだ、青い。 目を閉じると、波の残像がかすかに揺らぐのが見えた。紅一は受話器を取った。
「はい、Garnet1050です」 >> 「紅一!!」水晶の部屋に着くと、待ちくたびれたという非難のまなざしが紅一を迎えた。 「遅い。5分も待った。」 「そう云うなよ。走ってきたじゃないか。」 「紅一はトロいんだよ、僕なら3分でつくぜ。」紅一は少しむっとしたが、反論はしない。水晶の言っている事は外れているわけではないし、下手に反論しても口では勝てないのがわかっている。
「ところで何をしたの、水晶。まさか、その前髪の事だけって言うんじゃ、」このあいだまで銀色だった前髪に、鮮やかな赤のメッシュが入っている。
「バカ云うなよ、これはたんなる、”記念“さ」水晶はそれまでの不満顔など忘れたように、満面に得意げな笑みを浮かべた。「こいよ、良いもの見せてやる」水晶は軽やかに身を翻し、部屋の中に入っていく。そして水晶を追って部屋に入った紅一は、信じられないものをみた。 「コントロール・アンドロイド」“マミー゛の残骸だ。 僕らの日常を細かく切り刻み、がんじがらめにしているうっとおしいブタ、というのは水晶の表現だが、”マミー”は確かにブタのように脂肪のついた外観をしている。笑みの形をして垂れ下がった目は脂肪に埋もれていて、生き物に近づけようという意図が全く逆の効果を及ぼしていた。つるりとした擬似皮膚はむしろ機械的な印象を強める。親しみやすいように、母親のイメージで、と言う製作者側の意図も、母親というものを知らない紅一と水晶には全く意味がない。二人とも母親に興味はあるが、こんなブタみたいな醜い生き物なら願い下げだ、と思っている。 が、日常のすべて、食事から健康管理、”天球”の規範に忠実であるための監視まですべてを担う”マミー”は、水晶は勿論”天球”に住むものを管理するために、少なくとも”天球”を管理する”青”の監視員にとってなくてはならない存在だ。 「水晶、こんな、、いたずらで済まされる問題じゃないよ、」 「何言ってるんだ紅一。これで僕は自由だ。もうなんにも縛られやしない。」 「”青”の連中に見つかったら、殺されるかもしれないじゃないか。」紅一は大きな深紅の瞳を潤ませて、必死で水晶をにらんだ。 「つかまりやしないさ、そんな間抜けはおまえぐらいだよ、紅一」水晶は飄々としている。紅一は腹が立った。白い頬に朱がのぼる。「水晶!きみはわかってないよ。何で、そんなにまでして逆らわなくちゃならないんだ。」 「何で、そこまでして従わなくちゃいけないかのほうが、わからないな。もう何かのために生きるのはまっぴらなんだよ。」
紅一は一瞬、言葉に詰まった。自分を戒めるものの存在を、全く感じていないわけではない。けれど、自分は正しいはずだった。ずっと、正しいと思ってきたのだ。 「ぼくらは…何かのために生きてるわけじゃないよ…ちゃんと好きな事をして、好きな風に、生きて…」言葉の最後はほとんど声を失っていた。紅一は自分でも自信がない。正しいはずなのに、何かが間違っている気がする。 「じゃあさ、」 水晶はちら、と”マミー”の残骸に目を向けると、「なんでこんなモノがあるんだよ、」言って、唾を吐きかけた。 「それは…」持ってはいけない疑問だと、紅一は言いたかった。言おうとして、言葉に詰まった。「…何の為にだってこんな危険を侵すなんて君はバカだ。」 水晶は黙っていたが確実に機嫌を損ねたのは明かだった。「…縛られるくらいなら、何もかも捨てて自由を選ぶさ、」水晶はふいっと顔を背けて、無機質な残骸の転がる部屋を出た。 一人残された紅一は、残酷に破られた”マミー”の擬似皮膚を眺めた。 床は流れ出たオイルでてらてらと光っている。視界の端にその光りが映っては消える。紅一はぼんやりと呟いた。 「・・・でも、自由なんて、本当にあるんだろうか、」 >> 僕は水晶のあとを追う様に、水晶の部屋、Crystal774を出た。 “青”の連中はすぐにやってくるだろう。この
”天球”のすべてが、彼らの監視下に置かれている。水晶が”マミー”を壊したことも、とっくに知っているはずだ。彼らから逃げることは、不可能だと思う。この ”天球”のありとあらゆるところに、彼らの目があるといってもいいくらいだ。 彼らに逆らって人形にされた人達をぼくは少なからず目にしたことがある。ただ「空っぽ」なだけの人形。死体ではない「人」の残骸だ。しばらく人目にさらされたあと、その人形はどこへともなく消える。僕は時々道端に転がっているその人形にいつもなんとなく惹かれて、見かけると立ち止まって眺めてしまうクセがあった。それでよく悪趣味だと水晶に理由なく怒られた。彼はそれが大嫌いで、一緒にいるときに見かけて眺めていると、やたらと怒ってさっさと置いて行かれることがよくあった。何故あんなものに惹かれるのか、僕自身にもよくわからないけど。
僕らは何をするでもなく歩いていた。水晶はまだ怒っていて、無言で僕を拒んでいた。僕は水晶からわざと少し遅れて歩く。水晶は僕を置いていこうとするみたいに早足で歩いている。だから二人の距離はどんどん遠くなっていく。僕はふと怖くなって、遅れて歩くのをやめ、追いつこうとして早足になった。どうすれば彼を救えるだろう? 彼が人形になってしまうのは、嫌だ。それだけは、絶対にイヤだ。僕は歩く速度をまた速めて、水晶に追いつこうとした。 >> 「水晶。」紅一は遠ざかる影がいっこうに近づかないのに不安になって思わず叫んだ。影がふいに立ち止まる。立ち止まったまま、うつむく。振りかえろうとはしない。紅一はもう一度呼びかけようとしてやめた。 水晶の背中にただよう緊張感が、紅一の時間をとめた。水晶がふいに口を開いた。 「紅一、僕はもう戻れない。」 紅一はだまって下をむいた。「わかってたんだ。けど、とめられなかったんだよ。僕が壊したかったのは、あんな機械なんかじゃなくて、この空、ニセモノの、、つくられた空なんだ。」
「水晶?」 水晶が振りかえった。紅一を見ると、澄んだ水色の瞳が伏せられ、睫が白い頬に薄い影を落とした。 「僕は狂い始めているのかもしれない。」ぽつりと、水滴がこぼれ落ちるように唇から言葉を落とすと、水晶は沈黙した。紅一の背中を予感が駆け上った。彼はそれに気づかないふりをした。ただ怖かった。(僕は水晶の言葉が嘘なんかじゃないことを知ってる。なにひとつ嘘なんてないことを知ってる)でも紅一は知らないふりをする。 いつかきっと壊れてしまう彼を守ることだけが今の紅一の真実だ。それだけを真実にしたかった。 紅一は黙って水晶の細い肩を抱いた。なだめるように優しくつぶやく。「じゃあ、壊してしまえばいいよ。」 水晶の肩がかすかに震えた。「君以外すべて、壊してしまえばいいんだ。君だけ正しいように。」 紅一は見上げるようにして水晶の瞳を覗きこんだ。紅一の瞳は柘榴の紅。強い光が水晶を抱え込んだ。水晶は水色の瞳で見つめ返す。その目が一瞬、悲しげに揺らいだのを見た次の瞬間、水晶がふわりと笑った。 「馬鹿、」 包帯の下で傷がさけるみたいに、隠して、笑う。紅一は眼を潤ませた。それを気づかれたくなくて、慌てて顔をふせる。 「君は此処に居るのに、」 ・・・触れている肩が、まるで偽物のように遠かった。 「紅一?」 紅一は涙をこらえる。喉のあたりで言葉がガラスのように、こなごなになって突き刺さる。紅一は必死でそれを喉から押し出した。「いつだって君は独りだ。」 吐き出された言葉は、空気に触れて不自然なほど透き通った。水晶はゆるく笑って、肩に乗せられた紅一の腕を優しく払いのけた。 「あんまり、僕に近づくな。巻き添えはごめんだろ?」水晶の優しさは、ひどく紅一を遠ざける。 「そんな・・僕は」 「本当の事だよ、紅一にとって大切なのは紅一だけだ。…その方がいいんだ。」紅一の言葉をさえぎって水晶が言う。 「僕はそんなのイヤだ、」 「紅一を巻き添えにするわけにはいかない。」 「巻き添えになってもいい。」 水晶は声をあげて笑った。嘲笑のはずだったが、紅一には水晶が泣いているように聞こえた。「そんな一瞬の気持ちなんてすぐ変わる。好奇心もすぐに消える。
…戻れなくなってからじゃ遅いんだ。今でももう遅いかもしれない。」 水晶は紅一を睨みつける。いつもならたやすくひるむ紅一は意外にも、さらに強い光で水晶を睨み返して来た。絶対に譲らない。柘榴色の双眸が強く水晶の網膜を突き刺してくる。「嫌われたってバカにされたって、これは僕の意志だ。水晶がなにをいっても無駄だよ。」 水晶は沈黙した。長年のつきあいで、紅一のこういう時の頑なさはよくしっている。もうきっと、なにをいっても無駄だ。 「…わかった。好きにしろよ。」 「うん。好きにするよ。」 水晶はため息をついた。ふいに笑いがこみ上げてきた。 「水晶?」 水晶はただ笑った。おかしいわけでも、ばかばかしいわけでもない。ただ何もなく笑った。涙が流れた。それにも気づかず笑いつづけた。 「ばーか、」 怪訝な顔をする紅一に言葉を投げつけた。 「は?なにが?僕が?なんで?」紅一は困惑した目で水晶を見る。さっきのあの強い光はどこに行ってしまったのか、あまりの変貌がおかしくて、また笑った。「変なの、」困惑しながらも紅一もつられて笑っている。不安も恐怖も、何もなかった。ただふたりだけがそこにあった。
>> 水晶の唇から言葉がこぼれる。一粒ずつころがって、つながって、やがてひとつの言葉になる。 「“テラ”……イミテーション…」 僕は水晶の光のない睛を見つめた。それは暗く沈んで何も映さない。ただ綺麗なだけだ。死んだように弛緩したからだをつめたい壁に預け、色を失った肌に小さなひび割れた窓からこぼれる月の光を青く滲ませる。窓の外の黒い木のかげが、その青をまだらに染めた。 「”オーブ”…」 またひとつ言葉がこぼれる。冷えた床についた膝とが痺れて来た。僕はただ我慢して水晶の顔を覗きこむ。言葉は、ひとつ残らず聞き取らなきゃいけない。僕は緩みそうな神経を聴覚に集中させた。ふいに水晶の眼にひかりが戻った。その眼に僕がうつる一瞬前、水晶はつぶやいた。
「ここは“螺旋の箱庭”…」 「え?」僕が言葉を頭で反芻している間に、水晶の意識は完全に覚醒したようだ。 「紅一…?またやったのか…僕は?」水色の目は光を取り戻している。 「うん」僕はおざなりに答えて、頭のなかに残った言葉をなんとかつなげようとした。でも、今回の言葉はいつにも増してわからないものばかりだ。水晶がマザーコンピューターを破壊してから、時折こんな症状が現れる。まるで死体…考えたくはないけど、「人形」のようにぐったりとして、その度に彼は何やら意味不明の言葉をつぶやく。それを聴いていた僕が水晶に言うと、それは、この世界の構造だ、といい始めた。僕には全く意味のわからない言葉でも、水晶にはわかることがある。水晶は「人形」に近づいているらしい。本人によると、そのせいでこの“天球”と同調しつつある…と言う。あまり僕には意味がわからない事を言っていた。所詮僕は落ちこぼれだ。水晶のように物事を深く考えられない。 「なんて言った?」 関係のないことを考えていたら、水晶が真剣な顔で聞いてきた。 「テラ、」 「…イミテーション、」水晶は僕の言葉にいちいちうなずきながら何か思案している。かまわずつづげた。「オーブ」水晶はその言葉を聞いたとたんはっとして僕を見た。 「その言葉は知ってる」 「ほんと?」 水晶は神妙な顔で頷く。 「核…だよ。天球の。」 「核…って何」 「中心。…でもよくわからない。はっきりとしてるんだけど…それを掴めない。そんなイメージしかない…」 「ふーん…あと…それと、“ここは螺旋の箱庭”って…」 「螺旋の、箱庭…」言葉を噛み砕くように言う。何か、イヤなイメージでもあるのかもしれない。予想通り、水晶は吐き捨てるように言った。「そのとおりだ、ここは箱庭…作られた世界。僕たちは箱庭の人形…」 「水晶…君は…この世界が憎いの?」僕は何とはなしに聞いた。何の意図もない、純粋な疑問だった。水晶はしばらく意味が理解できないみたいに僕をぼんやり見つめた。一つ瞬きをすると急にハッキリした睛で僕を見た。 「憎いよ。こんな、ばかげた作りものの世界は。全部、壊してやりたい。」 きゅうに僕は楽しい悪戯を思いついたような気分になって、唐突に言った。ただ思いついただけの事だった。 「じゃあ壊そう、」 僕はこみ上げるくすくす笑いを抑えきれなくて笑った。怪訝な顔をする水晶の眼を見て、言う。 「僕たちの最後の悪戯だよ、」 >> 意識が断絶する。はっきりしたかと思うと、何もかもが曖昧にほどけていく。全てが僕の意志とはかけ離れた空間にあった。五感と曖昧な意識だけが僕のすべてで、他にはなにもない。景色がめまぐるしく変わっていく。移動しているんだ、という事に気づいてはっとする。自分の意志とは無関係にどこかへ向かっている。不思議と怖くはない。多分、ここが現実とは隔たった世界だという事を僕は知っているから。 曖昧だった世界がかたちを結び始める。幾筋もの微細な糸が絡まり、もつれ合って、ひとつのかたちをつくりあげていく。幾億の蝶の群れ。回転する何万の球体。明滅するパネル。チェス盤のような白黒の模様が果てしなく続き、その白と黒が絶え間なく移動する。すべての物の数が果てしなく広がる。おそらくこの世界に“果て”はない。 色を持たない光のうねりが視界を支配し一瞬で過ぎ去る。深紅の炎のかたちを持った蝶が僕の睛に留まる。涙を吸って唇に燐粉を落とす。痛みはないがひどくわずらわしい。眼を閉じようとするが自由が効かない。やっと蝶が光の残滓をわずかに残して飛びさると、開けた視界にひとりの男がうつった。いつのまにか景色は真っ黒に染め上げられている。細い印象の面立ちにうっすらと笑みを浮かべ、彼は中空にたたずんでいる。纏った服は、周りに溶け込んでしまうような黒。衣服の端から突き出た細い手だけがまるでほのかに発光している様に白い。星のない夜空のような、この真っ黒な景色と同じ、闇色の睛で、彼は笑った。 …だれだ。 僕は心の中でつぶやいた。彼はそれを読み取ったように、答える。
「月也」 言って、また笑うように眼を細める。だが、彼の闇色の眼は全てを呑みこむ深淵の様で、全く笑っていない。笑いの仮面をはりつかせたその整った、かたちだけは優しげな容貌を僕はこころのなかで睨んだ。何しろ、からだは全く意にならないのだから、仕方がない。だが彼にはそんな事は全く関係がないらしい。 「僕は怖くないよ、水晶。そんなに睨まないで。何もしないから」
信用できない。 「君の知りたい事を教えてあげたいんだ。君はしばらくぶりに僕を楽しませてくれそうだから」 意味がわからない。 彼はゆっくりと、細い足を浮かせた。すべてが緩慢に僕の眼にうつる。まるで水の中のようだ…。一瞬、視界が波紋の様に揺らいだ。次の瞬間、異様にはっきりとした声が耳元で聞こえた。「君に役立つ事なんだよ」気づくと彼の真っ黒な目がすぐ目の前にある。 「教えてあげる。君のいるあの世界はテラのイミテーションなんだよ」 「テラ…イミテーション」 僕の唇がかってに動き、彼のオウム返しの言葉がつむがれていく。光のない眼に残忍な色が宿る。薄い唇の端が持ち上げられ、今度はけして穏やかなどではない笑いの仮面をはりつかせる。彼がその異様に白い手を持ち上げた。胸元のあたりで動きをとめると同時に、目の前で光が炸裂した。それは丸い球体だった。
「“オーブ”だよ。きみのちいさな世界の核だ」 「オーブ」 僕の唇がまたかってに動き、言葉をつむぐのがわかった。自分ではどうしようもないぶん、気分が悪い。人の自由にさせられていると言う気がして落ちつかない。 「そして僕の大事な大事な螺旋の箱庭なんだよ」 箱庭? お前が作った世界だったのか。 「そうだよ。君は頭がいいね」 「ここは…螺旋の箱庭…」 まただ。僕は怒りが意識を支配していくのを感じた。 「そう怒らないで。こうしてあげなきゃ、みんな無駄になってしまうんだよ。君はここであったこと、全部忘れてしまうんだから…」 彼の細い指が唇に触れた。そのまま唇の上をなぞる。僕はさっきの、蝶の燐粉が落ちる感触を思い出した。指は、頬に移動して止まる。 蝶の羽がかすめるほどの重さで、彼の唇が触れた。離れた唇に、こまやかに光る粉を見つけた。
>> 僕らはバスに揺られていた。 いったい何処へ行くつもりなのか、何処からきたのか、自分が誰なのかすら覚えていない。ただ僕のとなりには大きな人形がいた。精巧で美しい人形だ。きっと作者の魂が宿っているだろうひとみは透き通るような水色で、細い手足と雪色の肌。窓の外を見るようなかたちでずっと座っている。僕は人形の目を覗き込んだ。 透明な光りをたたえたひとみはひどく美しいだけで何も映していない。
不意に僕は怖くなる。この僕の醜いからだが彼を壊してしまいやしないか、と。少しだけ僕は彼から離れた。シイトに体をあずけて目を背けた。もう見たくない。顔を背けたまま目を閉じた。バスの振動が心地よい。ココは何処だろう?森のようにも、宇宙のようにも、草原のようにも思える不思議な場所だ。その中をバスはただ走っていく。乗客の誰もがそれを止めようとはしない。僕らも、同じだ。ただ走っていく。まぶたの向こうで何かがきらきらと光った。目を開けると僕はひとりだった。となりにあったはずの人形も今は消えている。空になったシイトがなんだか寒かった。
目の脇を何かが通り過ぎていく。魚? 虹色の魚。たくさんの泡がきらきらと光って集まって魚になっているんだ。離れては、また集まり、回転しながら螺旋を描いていく。気持ちいい。僕はまた目を閉じる。頬に流れる水の感触。通り過ぎる魚がまぶたの向こうで光る。シイトに体を預けたまま、僕はゆっくりと落ちていった。気持ちがいいんだ。ずっとこのままでいよう。体は少しずつ重さをなくしていく。僕がほどけていく。このままゆっくりと消えていこう。
やわらかい波が僕をかき消していくのが見えた。 >> 「紅一、」 水晶の言葉で紅一は目を覚ました。眠っていたらしい。
「ごめん、」 「いいけど、、のんきだな。こうしてる間にも僕はどんどん人形化していくんだぜ、」 「うん・・・」紅一は目を伏せた。水晶はため息をついて紅一の頭に手を乗せると、顔を近づけて驚く紅一のひとみを覗き込む。
「僕の顔をよく覚えとけよ。」 「え・・・」 「人形になったら、もう見れないんだぜ。お互いに」 「水晶・・・、」 驚きと、哀しみの混じった瞳を向ける紅一を乱暴に突き放して、水晶はわらった。 「冗談だよ。そんなことはさせない」 「・・・これからどうするの、」 「ココをぶっ潰すんだろ。」 「どうやって。」 「オーブを壊すんだ。」 「それは何処にあるの。・・・ねえ水晶、僕達何処までいけるんだろう。何も出来ないまま、終わってしまうのかな、」「そんなことはさせないさ。勿論。・・・怖いなら、おりてもいいんだぜ」 「怖くはないさ、どうせ逃げたって同じだから。けれど・・・そう、同じなんだ。逃げても、進んでも・・・そう思わない?」 「同じなわけないだろう」水晶は少し不機嫌になって黙り込む。紅一は途方にくれた。自分でもどうしてそんなことを口にしたのかわからない。 「ごめんね」 とりあえず謝って機嫌を伺う。「変な夢を見たんだ。よく覚えていないけどそれで、」 「わかったよ。・・・いいよ、もう・・・」言いながら、水晶の瞳がまどろみ始めた。「・・・少し、眠い、」 「水晶?」何かつぶやきかけた水晶の体が支えを失って倒れこむ。糸の切れた人形のように力を失って。紅一は慌てて抱きかかえた。重い。完全に力を失っているのだ。 「水晶・・・」 >> |