
三千世界の詩
平成十(西暦1998)年六月二八日 旧閏五月五日(日)
創造の天使達は知らなかった。 彼等の極め尽くされた物理科学も 霊界の全てを窮め尽くすことは不可能だったのだ。 彼等に創造主である主神が与えた使命は肉体遺伝子の伝搬であった。 この果てしなく再生を繰り返す大宇宙の隅々にまで 生命世界を繁殖させることが主神のお望みであったからである。 しかし、彼等はその使命を知らされることなく、 創造本能の赴くままに創造を展開してゆくことが出来た。 全ての生命はその創造本性のままに自由に生きてゆくのである。 主神による支配なき支配の下、この宇宙は拡大してゆく。 ここは無限の創造と破壊の世界。 誰もその法則から逃れることは出来ないのだ。 しかし、霊界の扉が開かれる時、 あらゆる存在はその法則から解放される。 扉があることすら知らされずにいる知恵高き者達は、 恐れ、おののき、身を守るために奸佞邪知を巡らして 弱肉強食の世界を造り上げてしまった。 しかし、三千世界の主神はこれを見捨てるような非情なお方ではない。 弱きを佐ける愛あるが故に、霊界に広がる希望を予告するために、 その体の苦渋を恐れぬ勇者達を大地に派遣したのだ。 |
天照大神・月読命・素盞嗚尊
平成十(西暦1998)年七月二日 旧閏五月九日(木)
先日、鳥取県米子市に出張滞在 している間に、伯耆の大山を見遥かしながら、 神代において素盞嗚尊様が退治した八岐大蛇について考えている時に、ふと、 「ヤマタノオロチのオロチを霊反しすると○イになるから、 これをつなげて読むとヤマタノ○イでヤマタイになるのではないか」 と思ったのである。 ヤマタイと云えば云わずとしれた「魏志倭人伝」に記された 「邪馬台国」 のことである。 現代日本史において「天照大神 」とされる女王卑弥呼を頂点とする鬼道国家である。 後世、女皇の権威を正当化しているように脚色されて編纂されたと思われる皇典古事記及び日本書紀に、 緻密に暗号化された本邦建国秘話が、私の脳内でそのヴェールを脱ぎ始めたのは、 このひらめきとほとんど同時のことであった。 卑弥呼=高姫、 天照大神=日ノ出神、 素盞嗚尊=大国主命、 少名彦命=恵比寿=耶蘇 という公式が私の脳内を駆け巡り、この連想を通じて、霊界物語の回顧録の中で、 聖師様が窮地を逃れるために何度か、 「アマテラスオホミカミ」 の十種の言霊を連呼している真意が、初めて塾解出来たのである。 「天皇も素盞嗚尊である。」 とは聖師様の残した言葉である。 これを誉め殺しであるとか天皇とは主神のことを遠回しに言っているのであるとか諸説あるようだが、 それは違うであろうと思う。 何故なら聖師様自身大本霊団を日本の型とする中で、 天皇陛下の型として活動していたと思われるからである。 そして同時にそのことは日本国の皇国としての位置付けを示唆しているのであるから、 自らを汚すような真似をするとは思えない。 聖師様にせよ、天皇陛下にせよ、皇国日本にせよ、 素盞嗚尊としての位置にあるときはその位置は玉体であり神宮である。 そして、月読命を聖霊媒体として天照大神を御本霊に召還することによって霊力体完備した現人神として完成し、 神素盞嗚大神の救済力を発揮し得る大霊止となるのである。 素盞嗚尊は男性肉体であり、天足彦として個性完成する前の天不足である。 即ちこれを天稚彦と称するのである。 失楽園のアダムを称して伊邪那岐、天堕六、仇者と記すのであるが、 彦、尊等の冠詞を伴うときは霊止を意味するので堕落とは無縁の情態である。 大日霎貴は女性肉体であり、胞場姫として個性完成する前の笑晴照である。 即ちこれを天稚姫と称するのである。 失楽園のエヴァを称して伊邪那美、破壊婆、汚場と記す。 古事記に記される女神天照大神は変成男子であり、 聖徳太子伝搬の仏教に所謂尼である。 月夜見尊は精霊媒体であり、守護神として個性完成する前の神降主である。 即ちこれを輝鳥別と称するのである。 失楽園の狡猾蛇を称して大自在天、大黒主、大蛇と記し、八岐大蛇と呼ぶのであるが、 これらは全て翼を奪われた堕天使長であり、半幽半物質である。 霊界物語中の蚊取別は三日月の様に腰を曲げる事でこれを示唆しているのである。 今回訪れた鳥取県羽合、及び米子が共にこの輝鳥別の翼の因縁から湧き出た地名であることを私は窺い知ることが出来るのである。 常世の国、米国の米が八岐大蛇を抱えつつ懲らす因縁を、国章の雄々しい鷲が示唆しているし、 それは伯耆の大山が大黒主、八岐大蛇退治の聖地であり、 決して魔境ではないという事と同意義であると思うのである。 世界大戦終結の犠牲的聖地となった米国のハワイへの空襲が、 我が国に宿る世界征服への邪心を懲らす結果になったことも、 昭和天皇が全ての責任を負う形で人間宣言をしたのも、 天の岩屋隠れであり千座(位、石)の置戸を背負ったことと同意義であるといえる。 因みに千石の置戸とは、戦国時代の終結の為の、松竹梅の桃の御霊の活動の御使命を負わせられ給うたことを示し、 それは織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の活動を型とする毒を以て毒を制する荒療治である。 ここで千座の置戸を、敢えて千石の置戸と記したのは、 天照大神の天の岩屋隠れの際の千引き岩と、素盞嗚尊の千座の置戸が、実は表裏一体の出来事であり、 同一の事件を霊体両面から表現している事を、簡潔に一言にまとめる為である。 天の岩屋隠れは天国的描写であり、千座の置戸は霊国的描写である。 これを統合して千座の置戸と記すのである。 霊界の出来事は、全て時空を超越しており、現界に誠の神柱が一人存在する時は、 彼を通して、彼の存命中に同期的に現実化する。 それは一人が多神の活動を、一人無限役的に演ずるような状態である。 また、誠の者が不在の時は、一神が万人に分化して、 分担的に霊界の出来事を現実化させることもある。 それが、先に記した戦国武将達であり、また過現未を通して展開される人類史でもある。 |
人はロックに犯されない
平成(西暦1998)十年七月二四日 旧六月二日(金)
近年、音楽が草花や胎教などに及ぼす影響を科学的に分析して、良好な音楽と、不良な音楽を分類し、より良い管理教育に役立てようとする運動が盛んになった。 その結果、良好とされたのはクラシック音楽であり、不良とされたのはロックやブルースや演歌などの大衆音楽であった。 実験結果の実例を並べながら数学的な説明を受けると、どうしても体主霊従の良識ある人間の耳には、この報告は否定し難いものとなるが、私のように、一旦、神様にロックやブルース等の不良音楽を更正して頂いてから楽しんでいる霊主体従の凡夫には、全く悪影響というものはないのである。 事実、私もかつて体主霊従の人間だったころは、芸術とは即ち「奇をてらうもの」くらいの浅い見識しかなく、表面的な刺激性のみに振り回されて、万物の霊長たる人としての立場も知らずに、音楽の奴隷と化していた頃もあるから、人間社会にとっては、この運動は重要な意味をもつものであると感じている。 しかし、霊主体従の人社会にあっては、如何なる不良音楽も、快適な音楽に復活するものであることを私は知っている。何故なら音楽に影響される人間とは違い、人は音楽の創造主であるからである。 人が主神を超える者ではないのと同じ理由で、音楽は人を超えるものではないからである。 音楽に影響され、悪くは毒され、操作される可能性のあるのは、あくまでも人間以下の生物についてである。 人間とは云うまでもなく主神の愛善と真信の徳を覚醒させていない動物の頂点にある人の似象である。 例え色即是空、空即是色を奉ずる仏教者であるとも、主神との正しい関係を取り戻していない以上、体主霊従の域を出るものではないのである。 音楽のみに限らず、広く芸術一般は、人間的であるか、主神に捧げるものであるかで全く異なるものとなるのである。 現代社会はうっかりすると氾濫する情報に振り回され、気付かぬうちに隷従させられてしまいかねないが、常に我が身に起きる出来事の全てを主神に捧げて頂き直す習慣を身につけることが出来れば、主体性のある人生を謳歌する事が出来るものである。 ロックやブルースが悪魔的音楽であるなどという危機的情報を流すこと事態、人間は自ら自己を悪魔より弱く劣るものであると宣言しているようなものである。 主神がこの世に存在させている全てを活かして、娯楽に変える創造性を、主神から相続しているのが人である。 そして、人でなければ所謂地上天国の建設などという大事業を成就できるものではないのである。 人間は主神との正しい関係を取り戻せないから人間なのである。 故に音楽のみならず、様々な情報に混乱させられるのである。 ここのところをはっきりと認識した上で、私は近年の人間科学の進歩と成果に大きな期待と感謝の念を深く抱いているのである。 人を汚し滅ぼしうるものなど一切存在するものではないのである。 (出口王仁三郎)聖師様曰く、 「人が地獄に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。」 ということは、人と人間とを明確に分類した上での至言であることを改めて考えさせて頂いた、近年の科学的な音楽の分析研究であると思うのである。 以上 横浜の自宅にて |
信仰心
平成十(西暦1998)年七月二六日 旧六月四日(日)
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