
武道と武術と武芸
平成(西暦1998)十年九月一日 旧七月十一日(火)
武道といえば目の敵にする平和主義者がいる。武道の何たるかを知らず、武を凶器とのみ思うのは、無知蒙昧なことである。 本来、武の文字は一ず戈を止めると云う意味で、第一に攻めを制するのである。 即ち、本来、先手必勝は武ではなく、敵意を抑えるのが誠の武である。 にも関わらず、武が殺人と同意に取られる様になったのは、神を忘れ、神を誤解していながら、神を味方にすれば必勝であるという迷信を誠の信仰から堕落した腕自慢が、体力の優劣や、肉体の生死をのみ基準にして正否を量った愚行の名残である。 武術という場合も、本来は同様で、俗人が喰いつなぐ為、弟子を求めて競い合った結果、本来の精神が捨てられていったのが、単なる殺し合いや乱闘と同一視されるようになってしまった大なる原因である。 そもそも武の発祥は少林寺である。 徹底的の座禅観法によって道を開いた達磨太師の弟子達が、太師の忍耐を学ぶために始めたのが、少林武術である。 徹底的に精神が土台になった厳しい肉体修行に耐えることは、若者の暴走しがちな活力を超越的な能力に還元する働きをしていたのである。 武は超越的能力であるから、これを身につける者は達磨の導きを通じて愛善と信真を開拓して、暴力に走らない為の理性を授かっていなければならなかった。 それは丁度、武士が武芸百般に通達しながら学問を通じて均整を守っていたのと同じ事である。 人は常に善悪混交の世界にある。 故に愛のみでは暴力に圧せられるのみであるから、英知と武道を修得して霊力体の完備した完全体として活動することが望ましいのである。 神武は愛善と信真である。全てを天国に導く力である。体力には現界がある。体力を磨けば磨くほど、老いによる体力のもろさを知ることになり、霊力、神力の無限を知る事になるのである。この大宇宙の主神は何物とも争わないが、全てに勝っている。 どれほど優れた体力の持ち主も、ずば抜けた才能の持ち主も、この大宇宙の中での一瞬のきらめきにも満たないものである。 そのはかないきらめきを賛美し、語り伝えるものは人間の敬愛と忠孝の念である。 如何なる優れた人間の業績も、それを伝えようとする後者の想いがなければ、決して永遠性を持つものではないのである。 武は戦闘ではない。愛念と理法の結晶である。武は精神と肉体の賜である。乱闘のような、無礼極まりないものではないのである。 武は理性と野性と神性の昇華である。戦乱の狂気と混同するべきものではない。 武は農であり、商であり、工であり、慈愛であり、美であり、真であり、皇道である。 武芸百般ある中で、主神が弥勒の世に授けた武は植芝盛平の合気道である。 そうして李小龍の残した截拳道は、やがて、世界に理性ある勇気を育てる基礎となる。 それはかつて音楽の世界に於いてジミ・ヘンドリックスがギターによる精神革命をやってのけたようにして、誠の強さを世界中にもたらすことになるのである。 それもこれも神素盞嗚大神の救いの御業であるのだ。 素に於いては一弦琴、日本に於いては三味線、世界に於いては六弦のギターと拡大するように、武は素に於いては善言美詞、日本に於いては合気道、世界に於いては截拳道がこの役を果たすことになるのである。 「アチャー」はアジアの転訛「オジョー」は欧州である。創造の天使達は知らなかった。 |
一致した名前
平成(西暦1998)十年九月二日 旧七月十二日(水)
私が二十歳の頃である。横浜駅東口地下街の某喫茶店でウェイターのアルバイトをしていた。以前のバイト先の中国料理店での後輩に紹介されてのことであった。 そこには「まなみちゃん」というマドンナ的アルバイトのウェイトレスがいたが、私は以前のバイト先での失恋の痛手が癒えたばかりだったし、神様に目覚めたばかりだったので恋の虫も騒がずにいた。 それに当時の私は「みんなしあわせになれ」を具体化するにはどうするべきか、暗中模索の日々だったので恋どころではなかったのだ。 そんな夏のある日、地下街の夏休みに店長の誘いで海岸でのバーベキューが企画された。私は寝坊して、後から遅刻して参加したのだが、帰りは店長の自家用車が定員オーバーになった為、先の後輩と二人で最寄りの駅までバスに乗って帰ることになった。駅で自動車組と合流する予定だったらしいが、すれ違ったのでそのまま帰ることになった。 後輩はそれが悔やまれたらしく、このまま帰るのが寂しいと彼の家で二次会をやろうと言い出した。私は別に断る理由もなかったので同意した。京浜急行線が神奈川新町に着いたのは七時頃だったが、街頭が少なかったのと薄もやが張っていた為、妙に暗い夜だと感じた。踏切を渡る時に、ふいに悪寒が走って何か邪気の様な物を感じたまま彼の家に着いたのを覚えている。 コックの彼は有り合わせの食材で夕食を御馳走してくれた。あれこれ話す内に、二人ともその場に布団も敷かずに寝込んでしまったのである。 どれくらいの時間が経ったのだろう、私はうっすらと目覚めかけていた。すると雨が窓を激しく叩く様な、ザーッという耳鳴りの様な、ラジオやテレビの砂嵐の様な音に不快を感じている内に、顔の上に手が乗って来るのを感じた。始めは後輩が寝ぼけたか、ふざけるかしているのではないかと「よせよ」と言おうとしたが口がきけない。それで首を振って振り払おうとしたが、まるで自由がきかない。「あ、これは金縛りだ。」思った途端に犯人の笑い声が聞こえてきた。それは確かにあざ笑うような「ヒヒヒヒヒ・・・・」という女の声だった。そいつが私の顔をしこたまいじり倒した後、やにわに首をかかえて持ち上げた。すると途端に私は360度をそのままの状態で見る事が出来るようになっているではないか。しかも、足下には私の肉体が仰向けに寝ころんでいる。強制的に幽体離脱させられていたのである。私は以外にも恐れもせず、背後の存在に詰問した。 「お前は誰だ。」 すると、彼女はあざ笑いながら言った。 「ヒヒヒヒヒ、ほしだ・・・星田悦子・・・。」何故か言葉と文字が同時に伝わってきたのだ。初めて聞く名前であった。と、同時に咄嗟に守護霊に救いを求めた。すると部屋のドア一面に現れた男性の顔が背後の存在に経文を唱えて一喝すると同時に、背後の存在が消え去り、私の幽体は肉体に落ちるように戻った。平常の意識に戻ると漸く恐くなり、暫く目があけられなかった。部屋の電気はつけたままであり、後輩は何も知らずに昏々と寝入っている。翌日、後輩や同僚に話したが皆聞き流すばかりであった。 それから暫くして「まなみちゃん」とキスをする夢を見たのがきっかけで、また恋の虫が暴れだし、守護霊の実在を説く二つの宗教に出会い、統一協会や創価学会等からの勧誘を潜り抜け、「七四十一大神」を感得して、大本に関心を持ちながら、ムーや八幡書店版の霊界物語を経由して再興愛善苑にたどり着いたのである。幽体離脱事件から十年後、「出口王仁三郎の入蒙秘話」を読んでいる時に「星田悦子」の名を見た時、自分が神学に集中し始めると、必ず女性からの誘惑に悩まされて来たことの理由が分かったのである。だからといって現在の星田家がどうだというのではなく、聖師様の導きの用意周到さに、ただただ驚嘆し、感動させられたのである。 人間は何事も心底から真剣に対峙すれば、必ず誠の神に至るという私の確信は、この様な奇跡体験の積み重ねによって得られたものである。実際、霊界物語を初めて拝読した時に体験した奇跡とひらめきを数え上げると、全くきりがなくなるほどである。 私は、神霊現象を語り合える友がいなかった為、神との直接的な対話を通して、自分と神の間でしか通じ合えない独自の言語を創り出してきた。だから、現在でも私の説くところが理解出来ないと思われる方がたくさんいる。だが、それは仕方のないことである。 聖師様は教えの基本的なことをのみ霊界物語や種々の書籍に残されたのである。 その基本は各自の因縁相応に応用されて吸収されるのであるから、万人万様なのである。だから、星田悦子というのも、私を襲った邪気が彼女の名を悪用したのであろうと思い直すようにしている。彼女の過去の事実はどうあれ、それは部外者の私がどうこう言うことではない。私は私の体験を霊界物語やその他の聖師様の書籍や芸術と照らし合わせて、天国に向かう指針としているだけである。他人様の預かり知るところではないのである。 だから私も、他人様の神様との聖なる交流をとやかく言う気持ちが起きてこないのである。人はそれぞれに独自に神と交流しているのであり、それは神聖侵すべからざる境域である。 この体験談を通して感じてほしいのは霊界の実在である。その為の一例として談じているのであり、だから私が誰より偉いのだ等と言っているのではない。私の体験談を通して神の一面を感じとって頂きたいだけである。ただ間違いなく言えるのは、私は高姫、黒姫の系統に対立する存在であったという喜びである。それは何よりの朗報である。やはり、悪役になるのは本能的に嫌なものである。 このことだけでも私には今後も聖師様の下で情熱的に想い存分活動して行ける確信を得られたことになるのだから、千万金以上の価値のある体験であったと堂々と言えるのである。十年以上経ってから明かされる神秘は幾つもある。そんな体験が幾つもあるのである。 他人様が信じてくれようと、くれなかろうと私にとってこれは確かに神との間で交わされた事実なのである。だが、やはり多くの朋友とこの感動を分かち合いたいのが本音である。 今日、再び海洋万里子の巻を拝読した。 第一章で鶴公が言っている。上に立つ者は、下の者に使われる為に存在していると。実に深い言葉である。神でさえも人民から願いを向けられることを待っていると言っている。人民はもっと誠の神を鰹節にして、良い出汁を取り味のある人生を送るべきである。 神に願をかけることを恥じるべきではない。神あっての人であり、人あっての神である。双方が噛み合って世界は無限に物語りを創り出してゆくのである。過去にのみ執し、過去にのみ権威を付与するのではなく、神とともに未来を創り出して行く努力をするべきなのである。だから私はなるべく過去の話しはしない様に心がけて来た。しかし、未来にのみ偏るのもこれは良くないことである。 今、文章にすることを許しているのは神以外の誰でもない。何故なら、神こそは最大の過去であり、人間は今であり、人は未来そのもであるからである。今裏付けが無いからと言って、後に裏付けが現れないという保証は無いのである。今の嘘が未来の真実となるかも知れぬ。神の子は未来がはっきり見えない限り、今ある全てを否定するべきではないのだ。 |
蛇の頭・赤龍の上顎
平成十(西暦1998)九月三日 旧七月十三日(木)
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玉垣・瑞垣・荒垣
平成十(西暦1998)年九月四日 旧七月十四日(土)
主神は玉垣、日本は瑞垣、世界は荒垣である。玉は法にして梅、瑞は政にして松、荒は武にして竹である。法は五にして天、政は六にして中、武は七にして地である。 この五六七の摂理を古来より伝えているのは出雲大社である。 知るは易く、学ぶは労なり。しかし覚るは神事にして人為の及ぶものではない。 これらの垣根は決して滅びぬ神意の垣であるから、それぞれが交流することはあっても、一つになることはない。三つは永遠無窮に三つである。 出雲大社についての公式の由緒については社務所の出版物に学べばよい。私が記すのは五六七の視線での摂理である。 過去、現在、未来を象徴し、原因、過程、結果を意味する。 常に変化進展しつつあるのが、この大宇宙の真理であるので、原理が常にそのままの形態を保つという考えでは、この摂理は永遠に理解出来ないのである。 原理が小中大と拡大する過程で、時間、空間、風俗、習慣を加味しながら展開してゆくのであるから、実物をそのまま縮小するミニチュア・モデルでも見るように、ここが違う、あそこが違う等と小さな批判をして否定的になると、大胆且つ繊細で微妙な神の経綸を見失うことになるのである。 これは濁酒だからとか、清酒だからとか、御神酒でなければ飲めないだとか、ビールやワインは外国だ、等と言って差別するのも結構だが、そんな味気ないことばかり言っているようでは、この面白い、結構な神の国を一生嘆息的に生きて行かねばならないことになる。それでは天国どころか地獄の生活を送ることになるのである。 最近、私も音楽ばかりでなく映像関係にも、仕事を頂く様になって来たのでよく感じるのであるが、映画などでも名作になれば、多くの監督が原作をそれぞれの市場に合わせて脚色してリメイクし、その時代の流行や、民族性を満足させる様に焼きなおしてヒットさせる。日本の侍物が米国でガンマン物になって大ヒットする。役者も日本人からアメリカ人に変わるけれども、その本質的なストーリーや精神はちゃんと生きている。 例えば宗教などでも、イエス・キリストは白人だとか黄色人だとか、釈迦はインド人ではなくヘブライ人だとか、失われたイスラエルの末裔だとか、チンギス・ハーンは源義経だとかいうことよりも、その精神性が重要なのである。そこに神的超越性を感じるからこそ多くの人々が、何百年、何千年の時を経ても尊敬の対象として慕い続けることが出来るのである。大体、人間は自分より年輩の人を尊敬し、若輩に対しては慕われる立場でありたいと思うのが常であり、外人よりは邦人を、遠方の人に慕われるよりは、身近な権力を求めるものである。極端で頑固なナショナリズムというものは大なり小なり、冷静で正当な判断を失わせるものである。 けれども垣根を超えるというのは、垣根を無くすことではない。しかし、垣根を超えることが出来なければ、偉大な指導者や外交官、または発明家や芸術家になれるものではない。 小さいままで良いなら、垣根を超える必要はない。より大きくなりたいなら、垣根を幾つも超えて行かねばならない。どちらを選び、それを現実化させるのか、それは本人の自由である。人間はとかく独善的なものである。人間の言動には常に矛盾がつきまとうものである。人には礼を払わねばならないが、従わなければならない理由は何一つない。 垣根はそのままで超える事の出来る自己の拡大であるのだ。 |
あきらめるな!
平成十(西暦1998)年九月五日 旧七月十五日(日)
お金もある。健康もある。家もある。仕事もある。結婚もしている。家族もある。みんなが仲良く幸せである。 こんな風に言える人に、何もない人の気持ちは分かるまい。 何もない人々は、ただ座っているだけでは弱々しく神や仏に祈るばかりだ。 けれど、何もない所から不屈の闘志で成功を創り出して行く人々がいる。 彼等は神や仏を拝む人々ではない。神や仏を現す人々だ。 私はそんな人々の仲間になりたいのである。世の中は間違っているとか、人情はすたれているとか、何々が本当の神だ等と吹聴してみても、実際に困っている人々に手も差し伸べようともしないで、偉そうな論理ばかりを並べているのは私の性に合わない。 けれど筆にすれば簡単だけれども、実際にその信じるところを形にするのは辛く苦しいことである。だが、誰かに支配されてやりたくもないことを、ただじっと耐えるだけの人生よりは、一歩間違えばどん底にまっしぐらというような境遇を闘いぬいて、人生の目標を達成することのほうが幸せなことである。 自分の人生を自分で生きて行く。 こんな簡単なことがなかなか難しい今の世の中である。 「あきらめるな!」 私は己に向かって叫ぶ。 「あきらめるな!」 今自分の器で出来る、どんな小さな事でも始めることだ。神様は必ず見ておられる。 「天網恢恢疎にして漏らさず」 というではないか。ならば逆にどんな小さな努力も見捨てられることはない筈だ。 「あきらめるな!」 今、倒れてしまいそうな友に叫ぶ。 泣きたいくらいに情けない時にも、死んでしまいたいぐらい悔しい時にも、天に神を想い、自己にその霊を見て、自らを鼓舞して活動するのだ。たとえ全てを失った様な苦境でも、活動すれば必ず道が現れるのだ。 今、一番必要な事のみを念じて執拗に食い下がるのだ。未練がましかろうと、人が何と言おうと、今の苦境から這いあがるには、活動を継続することしかない。 「お前を蔑んだ奴等を必ず見返してやれ。」きれいごとを並べながら、何一つ力にならない連中の批判など相手にするな。 お前の中の砂漠にも、水脈は隠れている。 井戸を掘り続けるのだ。 何日かかろうと、そこを堀続けるのだ。 必ず水脈に突き当たる。一度井戸が湧けば、その水はお前の一生を満たしても、まだ余りある水脈だ。 「あきらめるな!」 お前は神の子だ。忘れていた力を甦らせろ。お前の心の深い深い地底にそれは埋もれてるだけだ。掘れ、掘れ、掘って掘って掘りまくれ。それだけがお前がお前自身を救う道だ。神の誠の恵みにむせび泣く時だ。 天国は虚空にあらず葦原の 中津国の真秀良場にあり 根の国は地底にあらず偽と悪と 醜の集まる都会の真中 厭離穢土などと思ふな現世は 愛善の神守る楽園 (出口王仁三郎) 自分自身を開拓するのは大変なことである。口だけ動かしていればそれでよいというものではない。祈った事を断固として実行し続ける事だけが、己を救い、他を救うのだ。 「あきらめるな!」 |
私の好きな人々
平成十(西暦1998)年九月六日 旧七月十六日(月)
私が信仰心を持ったきっかけは、生まれつきの「惚れにくくて、惚れたらとことん惚れぬく」気性だったと思う。 私は昔から、自分が見たことは誰が何と言おうと、大勢が否定しようと断固として曲げない頑固さがあった。自分が認めたものは、九割が否認してもかばい抜くのである。 過小評価されている人に同情的で、過大評価されている人に批判的なのだ。 だから、十七歳頃に高校に寄付された新約聖書を読んだとき、先ず一番最初にイエス・キリストに同情したのである。イエスの抱えている憤りと、無抵抗の抵抗に、誤解され易い者同志の感じる任侠を感じたのだと思う。 同情と言っても、弱々しいものではなく、 「世界中が敵にまわっても俺だけがあんたのことをかばい続けてやるぜ。」 という様な、穏やかな信仰とは凡そかけ離れた心情である。 大本教というものを知ったときにも、艮の金神に対して同様の気持ちになった。何かお陰を頂こうというよりは、 「あんたの遺志を俺が引き継いでやるぜ。」と言うような浪花節的な感情である。 出口王仁三郎聖師様に対しても、全く同様の思いであった。不遜と思われる方もいるであろうが、これは率直な思いである。 幕末の志士、坂本龍馬や、その他の英雄達に対しても全く同様である。 拝み倒してお陰を頂こうというような態度にはなれず、 「たった一人でもこの俺があんた達の悲願を貫きとおしてやるぜ。」 という、今思えば全く頼もしくなるような心意気であった。命あっての物種なので、死ぬのが恐いと言ってはいるが、命を懸けて信念を貫く人が大好きなのである。そんなわけで統一協会には入信しなかったが、文鮮明という男は大好きなのである。だが、オーム真理教の麻原尊師は、あの逮捕のされ方を見ただけで軽蔑してしまった。それは、信念を貫く為には全てを捧げ尽くしても足りないという様な潔さがまるで無かったからだ。 最近では私も信仰心という言葉をよく使うようになったが、本当は「惚れる」事の出来る相手を神のように慕っていたのが信仰ということに変わってきたのである。 しかし、とはいっても私が知っている彼等の情報は書籍や伝説上の事であるから、自分の理想を神に見立てて崇めていただけなのかも知れない。それでも、信ずる者は救われるとはよく言ったもので、彼等の真意に通じ合えた様な時は奇跡としか思えない様な、霊的で魂の爆発とでも言えそうな結果を多く体験してきたので、単なる理想像ということではないらしい。 「志は高く、現実は低く」というもどかしさは、何時の時代の有志達も味わってきた事の筈だ。本当はここまでの事をやりたかったんだ、というような未練は、本当はこんな理想を抱いていたんだという遺志は、私にとって魂の力になって行動を促すのに充分過ぎる糧となった。お陰信心を馬鹿にするつもりは毛頭無い。 困ったときの神頼みは大いにするべきである。しかし、助けられる立場でいるよりも、佐けることの出来る立場になりたいと思うのである。そうなると、しおらしくばかりはしていられない。 こんな事を書いてしまったら書いてしまった以上に行動しなければ全く恥さらしな人生になってしまう。 言ったことを形にするのは大変な努力がいる。格好悪く頭を下げ続けなければならない事もたくさんある。けれど、それで志が遂げられるなら、何もためらうこともない。身を粉にして主神の為に働くというのはそういう事だ。br> |
霊的生活
平成十(西暦1998)年九月七日 旧七月十七日(火)
霊的な生活というのはどんな生活かというと、思ったことが形になって現れる速度が増す生活である。肉体的な生活というのは、思ったことがなかなか形にならない重苦しい生活である。当然、霊的な生活にも善悪があるから、悪的要素の強い時に主神に出会った人は、しばらくの間、何をやってもうまくいかない時期が続くものだ。これが所謂御霊の借銭済しで、罪障消滅期間である。 けれど、その期間は決して無期限ではない。必ず満期が来る。 その期間を短縮するのが、良い宗教の務めであるが、各宗教団体の各派というものは、それぞれの境涯に合わせて存在するものであるから、その満了期間もそれぞれである。 私にとってこの罪障消滅期間を最も短縮させてくれたのが、白光信宏会の五井先生だ。そうして私に霊的な生活を取り戻させてくれたのは何と言っても聖師様の霊界物語である。文鮮明牧師の統一原理は聖書の本当の読み方を教えてくれたが、これは自分を救うための教えではなく、民族同志の恨みを晴らすための重大な鍵であると知った。 国境や、文化、風俗、習慣、言語等を今から統一しようとしても、それは絶対に不可能なことである。というよりも、それらが異なることは摂理上重要なことである。 その摂理は我等が再興愛善苑の十曜十色の御神旗が何よりも象徴していることである。 全く違う個性が、聖師様(主神)のもと何の不調和もなく統一するのが地上天国であるから、他の個性に対する敵愾心を一日も早く鎮めることを説く宗教は重大な使命を持っている。 けれども、この様な政治的な事業ばかりに誰もが従事しなければならないわけではない。他人の生活をとやかく言わず、愛善の心のまま、天真爛漫に自らの人生を全うする人が多い国というのは、地上天国により近いといえるのである。 誰かに脅されて神様を祭祀したり、集会に参加するようでは全く意味がない。 神を体験すれば、放っておいても神様を祭祀したくなるし、集会に参加したくなるものだ。人間というものはそこまで恩知らずではない。ただ、自分が体験したこともないものに感謝しろと言われても腑に落ちないので態度に現さないだけである。 心に念じたことがすぐに形になるとはじめは調子に乗るが、自分に敵対する者がすぐにひどいめにあったりするようになると、その霊的生活が恐くなり、信仰的生活から離れて堕落していた方がいいというような臆病な気持ちになるものである。 神の名において自分が宣言したことに敵対した者が滅びる現実を何度も目の当たりにすれば、自分がいったいどれほどの者なのだ、という自虐的な気分になって、わざと不信仰な態度を取って、神様に忘れられようとしたくなるものである。 神様の裁きは全く公平無私である。善意を装った悪意に対して非常に厳格なのである。神様に選ばれるということは本当に恐ろしいことである。神様が選んだ者が如何に卑しい者であろうと、彼に対する態度次第で天地程の裁きが為されてしまう。しかし、そのことについて忠告しても、かえって反感をあおり逆に信仰につまづかせることになる。本人が誰の力も借りずに覚るより無いのである。 当に「言うて聞かしてやりたいなれど、言うてはならず・・・・。分からねばならず、分かってはならず、分からぬので改心が出来ず。」という事が現実になってしまうのである。 全ての人々が神心に復帰しない限り、霊的生活者は不言実行をせざるを得ないのである。 |
神の子の本能
平成十(西暦1998)年九月八日 旧七月十八日(水)
子は自ずからその親を知る。五感によって脳は肉体の親を知る。それと同様に魂は魂の親を知る。霊は霊の親を知り、仏は仏の親を知り、神は神の親を知る。 しかし、野性の乳飲み子が母の乳を飲まなければすぐにでも死んでしまう様に、魂が魂の親から乳をもらわなければ魂は死んでしまうであろう。霊の子も霊の乳をもらわなければ死んでしまい、仏の子も仏の乳をもらわなければ死んでしまい、神の子も神の乳をもらわなければ死んでしまう。 私の場合、魂の乳はブルース・リーやジミ・ヘンドリックス等の天使達に頂き、霊の乳は五井先生と聖師様に頂いた。仏の乳は仏教から、神の乳は聖書からそれぞれ頂いた。 だから、おかげで今は生意気盛りの育ち盛りである。霊界物語を通して霊養をたっぷり頂いたから、太った霊魂が仏を通り越して、神の子の本能の赴くままに天地間の神の無声の声を聞き取り、一人立ちを始めようとしている。 巣立ちをした小鳥達が二度と古巣へ戻らないように、群を離れた子獅子が群を脅かす新勢力となる様に、それぞれの親達から自律しようとしているのだ。自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる。 更に加えて神の子は真実を映し出す鏡であり、善悪を切り分けるために神の投ずる剣であり、霊力体を結び合わせる曲玉である。そこから生まれるものは新たなる光となる。 かつてイエス・キリストは、新しい真理を新しい葡萄酒に例えてこう弟子達に教えた。 「新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れなければならない。もし新しい葡萄酒を古い革袋に入れれば、新しい葡萄酒は古い革袋を引き裂いてしまうだろう。」 最近、愛用のクッションが裂け、続いて枕カバーが真ん中から裂けるという二つの出来事があった。その時覚ったのはイエスの葡萄酒の教えであった。 新しい光は新しい葡萄酒であり、新しい酒である。勿論、新しい光は、古い光の延長線上にあるが、昨日の朝が今日の朝とは違うように、今日の朝は明日の朝とは違うのだ。 摂理は進展している。常に変化するあらゆる条件の交差が瞬々刻々を生み出し続け、その小さな変化は、更に大きな変化を構成している。この大きな変化の兆しを、神の子の本能は鋭敏に感じとり、よく読みとるのである。 そして次の世代はこれをよく行うであろう。 かつてエジプトの地からイスラエルの民を解放したモーセは、約束の地カナンを前に、全権をヨシュヤに委ねたまま、自らは身を引いた。信仰的な条件をただ一つだけ満たせなかったという理由もあるが、この世には一人が全世代を持ち切りには出来ないという厳格な法則があるのだ。モーセはその法則に従順に従ったのである。 神の子の視野は広大である。大宇宙の過去から未来を見据えた上で、自らの去就を決定する。一時の感傷や、何も知らない周囲の中傷批判等に左右されることは決してないのである。何故なら神の子は、その本能によって自分の行動の誠の価値を見抜いているからである。そして、それをいちいち周囲に説明して歩くほど、神の子は愚かではない。 何故なら、それが自ら障害を築くことになることを知っているからだ。結果になってからささやかに告白する。注意深い者でなければうっかり見過ごしてしまうような方法で。 それは、どんなことがあっても成就されねばならない重要な計画であればあるほど、誰にも知られることもなく実行されるものである。神の子は意外な所にいる。本人さえ知らずに大事を成就させているかもしれないのだ。 |