栄養と霊養

    
平成十(西暦1998)年十月八日 旧八月十八日(木)


 今日食生活の改善に献身しておられる方とお話をさせて頂いた。
現場の空気をよく知っているだけに、宗教団体が協力から強制に変わる恐ろしさを語ってくれた。
 この世は霊主体従でいくのが最善の生き方であるが、どうしても「衣食足りて礼節を知る」という孔子の名言が幅を効かせるこの世界である。
だが、この言葉は霊的精神生活に偏り過ぎていた孔子の弟子達に対する言葉で、現界の始めから体的物質生活にどっぷりつかってしまっている人々に用いるのは不適切である。
 「衣食足りる」ということは贅沢三昧をする事とは全く意味が違う。
「清貧に甘んじる」という事と紙一重の境涯であると考えるべきである。
勿論聖者ともなれば金殿玉楼に住まうとも心奢ることなく、貧者を蔑むことなく振る舞う事が出来るが、一般人にそれを望んでも無理というものである。
衣食足りても全く礼節を見いださない輩は、この地上に腐るほどいるのは否めない事実だ。
 昨今の「毒物混入事件」に見られる様に、元々心曲がれる者が富を得てその味をしめると、その味を味わい続ける為に、人を人とも思わぬような行いを平気でする様になるものだ。
 始めに正しい信仰あればこそ「衣食足りて礼節を知る」ことになるのであり、正しい信仰がなければ執着心は何処までもエスカレートして人を鬼畜と化せしめるものである。
 食生活の改善は、いち早く実施されねばならない事であるが、やはり正しい信仰に基づいたものでなければ本当の成果は上がるものではない。
栄養というものは、あくまでも精霊を正しく成長させる為の肉体に対する需要であるべきだと思うのである。(ただし肉体労働に従事する人々は例外である。)
 礼節というものは霊界の節目に通じて始めて了解出来るものである。
しかし、現代の宗教団体には、この肝心な霊が欠けているから「徳のない者は金を積め」という言を平気で口走る事が出来るのである。
その為にせっかく高い志を持って社会奉仕活動をしておられる皆様から、宗教団体は警戒されてしまうのである。
宗教それ自体は重要な存在であるが、霊的節目を身につけていない未熟な人間が集まってその宗教を暈に来て信仰や献金を強制する様になる事は、神に仕えるふりをして神を冒涜する最も嘆くべき結果をもたらしてしまう。
 宗教というものは、何処までもそれを信念として、自らをこの世界の開拓者として活動させる霊養であるべきものだ。
そういう活動が出来て始めて霊主体従の活動と言えるのである。
私は彼の宗教不在の奉仕活動を批判する気にはなれなかった。
彼の姿勢はそのまま宗教団体に対する反省材料であるからだ。
けれども、私も彼も基本的な合意点を持っていたのが唯一の救いであったのだが、それは「出口王仁三郎は大好きなんだ」という事であった。
宗教団体には批判はあるが、出口王仁三郎という大巨人の意志を継承したいという想いはお互い否定することはなかった。
これが何よりである。
 今回の会話を通してあらためて感じた事は団体活動というものの強さと恐ろしさである。
栄養というものは団体に均等させる事が比較的容易なものであるが、霊養というものは、霊界物語を大勢で拝読する以外は得られないものなのに、それをするのはまだまだ困難だ。


みんなしあわせなんだ

    
平成十(西暦1998)年十月九日 旧八月十九日(金)


 私は「みんなしあわせになれ」の二番で、
「新聞、テレビにラジオに雑誌、ニュースは何時でもやなことばかりさ」
と唄っているが、これは別にマスコミを批判しているわけではない。
ニュースになる様なめったにない事がやなことばかりなのは、ある意味当たり前である。
逆にめったにないような良いことも、ニュースは公平に扱っている。
けれども、マスコミから得る情報というものはまちがいなく強いインパクトを受けるものであるが、これはめったにない事なんだということを忘れないように、「みんなのしあわせ」という平凡なテーマを口にしやすいように歌にしてあるのである。
勿論、油断大敵という事があるから、危険性がゼロであるというのは愚かな考えである。
受け取る側が無知で弱くて、盲目的に迷信に陥り易いと、悲観的で懐疑的な口の臭くなるような毎日しか送れなくなるから、それに負けないように人間の霊性の本心である「愛善と信真」を「みんなしあわせになれ」という平凡な言葉に置き換えて鼻歌のように歌える様にしてあるのである。
これがあらゆるマス・メディアで常に伝達される様になれば、神様が喜ぶのはまちがいないことであると、私は確信している。
「みんなしあわせになれ」という平凡な言葉も、現代の様にニヒリズムや怠惰な風潮が若者の隠れ場所になっている様な時代には、口にするのに少々勇気のいるものであるようだという現実を知らないわけではい。下手をすれば偽善者でも見るように扱われるであろう。
だから四番の中で、
「乾いた大人のふりしてみせても、無邪気な優しさ隠せやしないさ」
と唄っているのである。
正直言えば、「みんなしあわせになれ」の歌詞は、時至れば全く変更されるべきものであると思っているのである。
本当は「みんなしあわせなんだ」という事を思い出してもらいたくて「みんなしあわせになれ」と唄ってきたのである。
誰もが生命の往来を確認する事さえ出来れば、永遠の進化があるのみで、焦慮すべき何物もなくなってしまう。
 昔、
「良いことをすれば天国へ行き、悪いことをすれば地獄へ堕ちる。」
と大人の言うことを効かない子供が叱られた。
やがて時と共に叱った大人は世を去り、叱られた子供が大人になる時が来て、彼は次の子供達に、
「天国も地獄もあるものか。この世だけが全てだから、この世で天下を取った奴が勝ちなんだ。」
と教えた。
どちらも霊界の真相を知らない為に生まれた不完全な誠意である。
 地獄に堕ちるのは、人間の本体である霊ではなく、肉体に纏わる想念体という実体のない影だけである。
この世で悪いことばかりする者の本体というのは、実はとうの昔に天国入りをしていて、複数の想念体の浄め場所となっているのであり、古来からの人類の邪気を代表して浄化する雑巾の様な役所を担っているのである。
この真相を覚るからこそ、釈迦は彼に出会うまでに九百九十九人を殺して、その指の骨を収集して師の許しを乞おうとしてきた者の罪を許して弟子にする事が出来たのである。
そうでなければこんな事は出来るものではない。
罪に対して憎しみと恨みで応ずる事は、来世に新たな不幸を招く事になる。
善に立ち返ろうとする者の、一切の罪を滅ぼすものは慈悲の心よりない。善に立ち返ろうとする者の中にはまだ本心である霊が住んでいる。
これのない者はただ滅び消え去るのみである。
これは喜ぶべき事であり、不幸ではない。
 現実というものは、幻実であり現れれば消えるものだ。真実というものは、神実であり実相である。
ここに本当のしあわせがあるのだ。


三種の神器

    
平成十(西暦1998)年十月十日 旧八月二十日(土)


 洋の東西にはそれぞれ、王位継承に対して重要な役割を果たす三種の神器があるという事はあまりに有名なことである。
東洋では天皇家に代々伝わると伝承されている「鏡・剣・曲玉」があり、西にはイスラエルの祭祀家に伝承されて来た「十戒・アロンの杖・マナの壺」がある。
東西共に、民族を代表して民族の祖神を祭祀する責務を継承する為のシンボルである。
伝承に従い、これらが実在するとして、私がこれに言及する事はあまり意味のない事である。
人類の遥か起源を遡れば、誰もが同一のDNAにたどりつくという遺伝子学的見地に基づいてみても、人類が皆兄弟姉妹であるという理論は成立するけれども、一族の族長としての権能と財産は複数の者に継承するわけにはいかないというのが、この世の慣習であるから、これに口出しをして自分の人生に不要な敵を創る事はあまり面白い事ではないし、私には現界のみでしか通用しない権威には興味がないのである。
第一自分の気性を鑑みれば王位継承等という堅苦しい事は元来不相応なものであるから、この事についての考証は既に存在する専門家や、その追従者に任せてしまおうと思う。
 実際の話、誰が天皇家を継承しようと、誰が祭祀長を継承しようと、人類の精霊が神の子であり、体が神の宮である真理には何等影響するものではない。
伝統があるのならば、その通り継承すればよいし、彼等が政府の中枢に強い影響を与えるというのなら、その様にすればよい。
どの道、社会の底辺に近い場所で大宇宙の御先祖様について、霊的に想いを馳せる私には無関係な問題である。
 この三種の神器があるが故に、洋の東西が結合し、世界のリーダーとなりメシヤとなるというのであれば、どうぞ一日も早くその様にすれば良いと思うだけである。
末端の私はますます霊的に主神と神々とのふれあいを重ねるのみである。
この際誰が天皇陛下であろうと、誰が祭祀長であろうと、それは天来の選択であろうから、その事を論じ合うつもりはない。
 恐いもの見たさや七不思議を推理することを趣味にしている人々の心理を利用して生計を立てている雑誌社や広告代理店の職業をとやかく言ってみても、彼等の食欲、住居欲、権勢欲を遥かに凌ぐ生命の糧を与える事が出来なくては無責任な批判に終わってしまうだけである。
勿論、その生命の糧とは何であるかを回答するのは簡単なことである。
しかし、これを理解して、それを信条として生活していく強い意志を芽生えさせる事は容易な事ではない。
何かシンボルがなければ持つことの出来ない権威であるならば、そのシンボルを失えば同時にその権威も消えてしまうという事であるから、そんな不安定な権威に頼る事は賢明な事だとは思えない。
けれども伝統的な文化や、世襲制度的構造を保存していこうとする事は、世界に対しても重要文化財となるわけであるから、これを否定する必要がない。
 現世の制度は現世に帰すべきものであり、霊界の制度は霊界に帰すべきものである。
両者の間には厳然たる垣があり、お互いに各自の制度に従えば良いのでり、相対する正反対のものを統一しようと焦慮しても生命を浪費するだけである。
それは丁度砂糖に塩辛くなれという様なものであり、塩に甘くなれという様なものである。
こんな馬鹿げたことはない。私にとっての三種の神器は「霊界物語の誠の言霊・愛善・信真」の三つである。
これだけあれば充分に神の子・神の宮の権威を継承する事が出来る。
この世の統治は国際関係を考慮して各国同志が上手くやれば良い。


仕事は仕事

    
平成十(西暦1998)年十月十一日 旧八月二一日(日)


 一人で天と向かい合い、普通の人々と同じように、社会人としての責任を果たそうと、どんな仕事でも天からの仕事であると思って務めていると、常々が感謝の連続で不満というものはかけらも生まれない。
とにかく一人で天とだけ向かい合い、無駄口を効かないと、生きていることは楽しくて仕方なくなる。
 それが一度同業者と仕事の話を始めてしまうと、彼等が語るのは不平不満ばかりで、私がそんな事気にしない方が楽しく仕事が出来るよ、と言えば言うほど、くどいぐらいに不平不満をまくしたてる。
私に世の中の厳しさを教えようとしているらしいのだが、有難迷惑甚だしい事である。
 私は自分を買い被っていないから、今自分がしていることが自分の明らかな実力だと思い、毎日を着実に活きて行ければそれで充分だと、感謝して僅かずつの進歩を楽しんでいるのである。
それを小賢しいだけで天眼の開けていない暗黒身魂の持ち主達に邪魔されるのは全く腹立たしい事である。
 今自分がしていることが、自分の仕事である。
今他人がしていることは、他人の仕事である。
もしその仕事を私がする必要があるときは、必ずそれを今しているのである。
誰かから見て見劣りする様な仕事であるとしても、私はその仕事に不平不満は持たない。
また昨日までやっていた仕事であっても、今日からは無関係になる時もあり、そんな時も私はその移り身の早さを無責任な事であるとはかけらも思わない。
継続が力であることはよく知っている。
でもそれを継続する事が私の仕事であるならば、必ず今それを継続しているのである。
例え中途で終わる事があったとしても、それはそれで良いのである。
 一つの例を待ち出すならば、聖師様だって百二十巻現す予定だった霊界物語を中途で終了しているが、本当に信仰を得た者はこれに不平不満等持たないで充分に感謝していられるという現象と同じ事である。
 天は十のことを人に伝達するのに、必ずしも十全てを伝えるいうものではない。
一つを聞いて十を覚る者に、いちいち十を現さないのは、未だ覚らない者に対して気を配る時間を多く取るためである。
 私は天を基準にしているから、どんなつまらない仕事をしていても、御神業として地上天国建設の御用をさせて頂いているのであるという感謝の気持ちに満たされているから、仮にも不平不満など御天道様に対して勿体無い事だと思ってしまうのである。
こういう姿勢に反する言葉は不快なだけで、私は返す言葉を失ってしまうのである。
例えば私が毎日書いている原稿にしても、これは私の視点を通して神様が書いているのであり、私はそれをあいぜん出版にFAX送信することが世界に対する重要な仕事であると感謝して行っているのであり、「神の国」誌に掲載されなければ世の中の役に立たないものだとはかけらも思っていない。
手紙ではなく電信電話回線を通じてFAXで送信するからこそ重要な事であると思ってやっているのである。
最近長い間続けてきた電話外線工事のアルバイトを一切止めたが、これもその仕事が気に入らないから止めたのではなく、私がやる必要がなくなったから止めたのである。
また、映像関係のエキストラや端役の仕事をやらしてもらう様になったが、この仕事にも特に執着を抱いているわけではない。
その出演する作品の内容が、嘗て私が多くの職場で叫んできたことの映像化である事を確認させて頂きながら、神人合一、自他一体の経綸の一部に仕えさせて頂いているのである。


考えない事

    
平成十(西暦1998)年十月十二日 旧八月二二日(月)


 私は審神判ではない。
といって神主でもない。
それでも何かを書こうとパソコンを起動してキーを打ち始めると、文章が流れる様に脳内に閃いてくるのだ。
キーを叩きもしないで何を書こうかと考えてみても、全く何も思いつかない。
考えないことでかえって文章が湧き出してくるのである。
 私は二十歳の頃から、主神への全託生活に徹してきたので万事神様事については考えたことがない。
考えた所で未体験の事ばかりなのに何が分かるであろうか。
それは丁度何処かの師匠に弟子入りして、一からその師匠の流儀を学び始める時の様なものであるから、考えたところで役に立たないのである。
 神様の道に生きる以上、体主霊従的私心を出して何を考えてみても常識的に理解できる事ばかりであるわけがない。
 始めの頃は人間として当たり前と信じられている事からやらされた。
それは当時何よりも嫌いだった喰わんが為の労働に従事する事である。
その中で常に神様と一体になっている事がどんな事なのかを、徹底的に体験させられたのである。
初期はこの境遇をとても理解する事は出来なかったが、覚悟を決めて忍耐して黙々と神様への祈りを繰り返しながら、喰わんが為の労働を積み重ねる内に、一般の信仰を持たない人々が、如何に神様を恐れて敬遠しているかを知る事が出来たし、神様と接する為には山篭りだとか、厳しい修行や善行を積み重ねなければ無理だから、自分達と神様は無関係なものだと強く思いこんでいる現状を詳しく知る事が出来たのである。
私自身は、どんな状況下でも、どんな仕事をしている時でも、祈りさえ繰り返していれば必ず神様と接していられるという貴重な体験を得る事が出来たが、あまりに長い間神様と離れて、自分の小さな頭で必死になって考えながら活きてきた人々には、何も考えないで神様に全託し切って活きて行くという行為が不安でならないのだという境涯の違いを嫌というほど見せつけられたのである。
 安心立命という境地は、私にはどういうものか明確に分かっているが、もとより体主霊従的にしか物事を判断出来ない人々にはかなり難解であり、また憎々しい態度として映るのである。
当に「人を見たら泥棒と思え」という地獄層修羅道で活きてきた人々には、信じるという行為が恐くて仕方がないのである。
 例えば神様に全託していると、仮に自動車を運転している最中に、前を走っている車が急に止まったとしよう。その時一寸油断してよそ見をしていたとしても、咄嗟にブレーキを踏ませて事故を未然に防いでくれる。
知らない土地に用があって出かけた帰りに道に迷ったりした時に、大丈夫、大丈夫と思いながらそのままハンドルを握って走っていると、右とか左とか声が浮かんで、その通りに走っていると表通りにたどりついて、標識を見ながら無事家に帰る事が出来るというような事が何度もある。
こういう次元の低いことから、もう少し高度な問題解決に関する事もその都度メッセージがあって、それを守っていると必ず思いも寄らない方法で解決する様になって来るのである。
現代は人知ではどうにも出来ない事態が山ほど現れて、神様の側からほぼ強制的に神人合一世界を開始する為に人知の限界を思い知らされる様な経験をさせられている時代である。
どうしても、
「溺れる者は藁をもすがる」
という様にしなければ、現在の人類は慢心が強すぎて大宇宙全体の発展の為に活動しておられる神様に一致協力して、人本来の使命を果たす様にならないから、
「聞かねば聞くようにいたす」
という事態が次々に発生しているのである。
考えない事が最大の神智である。


好く学び、好く遊べ

    
平成十(西暦1998)年十月十三日 旧八月二三日(火)


 日本人は優秀な民族である。
そして勤勉である。
その上忠孝の念篤く、義理堅い。
神様はそんな日本人をとても愛しておられるので総まとめで休養を与えようとしているのだが、これが仕事が趣味と言い出しそうな勤勉さなので、遊ぶ事が不真面目であると思い込んでいてなかなか神様の声に振り向かない。
日本人ばかりがあまり突出して勤勉ぶりを発揮しては、和を持って尊しとする大和精神にもとるというものだ。
中国人だって、韓国人だって、優秀さを誇るチャンスは持っている。
現代文明の基本は全て白人からもたらされたものばかりだ。
日本発の文明というものはまだまだ本当に少ない。
それをカバーして来たのは、先に並べた精神性の部分である。
 日本人というものは、元来が神の宮であるから、受け身の民族なのである。
その精神に天地の神の水火を受けた時に、初めてその超越的な力を発揮するのであるが、現在は西洋文化を取り入れて、その宮となっているから、どうしても本当の力を発揮出来ないでいるのである。
 このまま金権の奴隷となっているならば、いつまで経っても大和精神を世界に拡充する先端の国とはなりえないので、神様はその仕事を取り上げて強制的に遊ばせて、神の宮になる様になさっておられるのである。
日本人がこれからやらされる事になるのは、地上天国的生き方の先端となる事である。
具体的には天祖たる神を中心とした社会主義国家の建設ということになる。
神主義と共産主義が融合した世界である。
資本主義は神無き社会の自由民主主義だったが、この様な言い方で名付けるならば「神本自由共産主義」という事になる。
今までの社会は資本があれば何でも出来るという悪人にはもってこいの主義であったが、この「神本自由共産主義」というのは正しい信仰に基づいた事業ならば何でも出来るという悪人には少々厄介な主義である。
とはいえこれは一応理想論という事で「絵に描いた餅」程度にしか聞こえないであろう。 だが、これを実行なさろうとしているのは私ではない。天界で決定された事が、霊的強制力でもって社会現象的にそうなって行くのであるから、これを理解できない者には少々きつい思いをする事になるであろうと思う。
この国際的不況は人間が働きたくても働けない様にして、遊びたくなくても遊ばざるを得ない様な状況下で、人間が本来持っている無から有を生み出す創造力を回復させようという荒療治である。
暇な時はその逆境を利用して好く学び、好く遊ぶ事である。
その中で金が無くても出来る事をやり、大がかりな設備が無くても出来る業を身につけ、都市化で眠っていた野性的な自然本能を回復する事が実現可能となって行くのである。
日本人は優秀な民族である。
これを先端を切ってやってゆくのは我々神の宮たる日本人しかない。
だが、この日本人の宮の中には神ではなく、お金や地位や名誉という余計な物が一杯に詰まっているので、これを逆様にして一度空にして、神の器として立ち直らそうとしているのが現在の大不況であるのだ。
物質至上主義の終末とともに訪れるのは、神人合一の地上天国である。
何一つ恐れることはない。
今ここでどんなに知恵を絞って政治家や事業家達が付け焼き刃的な政策を打ってみても、この流れは決して止められはしないのである。
主神がその救世の大光明霊団を率いてここまで動き始めた以上、我々は無抵抗に身を委せるよりないのだ。
その間、悪戯に苦慮して過ごすより、この流れに全てを託して、好く学び、好く遊ぶ事である。


言葉遊び

    
平成十(西暦1998)年十月十四日 旧八月二四日(水)


 神様と出会った頃は、私としてはやっと神の子として新生したわけだから、赤ちゃん同然で、世の中もまだ湾岸紛争以前の比較的穏やかな時代で、しかも日本はバブル経済絶頂期であったから、私も、
「バブバブ、ダアダア」
と淡い言葉で神様と会話していたのである。
神様は、私を喜ばすように駄洒落を並べてはこの世の全ては人間達だけで手を加えて出来て来たように見えるけれども、実は奥で御三体の神様が糸を引いて、組むず解れつ綾なして、
「東京で仕組みを駿河美濃尾張」
と松梅竹の仕組みを繰り返しながら、遠い遠い昔から霊力体の三元の御活動で出来上がって来た経緯を教えて下さったのである。
 私は小学一年生の頃から漢字の当て字の名人で、担任の先生から面白がられていたから、言霊遊びというか、言葉遊びというか、そういう事には慣れていたのだ。
 今では大本関係者で聖師様を中心に据えている人なら誰でも知っている筈だが、駿河といえば今川、松平、徳川という事で政の松である。
美濃といえば斉藤道三と明智光秀の事で法の梅である。
尾張といえば織田信長と豊臣秀吉の事で武の竹である。
秀吉が信長に代わって天下統一を成し遂げたのは梅の身魂である明智光秀を殺さずに、千利休として知恵袋に抱き込むことに成功したからである。
それを証拠に千利休を失ってからは武に偏り朝鮮出兵を重ねる事に気を取られ、後継者造りに失敗している。
 徳川は世界の事を考えるのは、日本国内が完全に統一されてからでないと早過ぎる事を、ある予言書によって知っていた。
それは聖徳太子が残した先代旧事本紀「未来紀」であると私は確信している。
故に徳川家は鎖国を実践して、仏教中心の幕府を布いて海外との垣を設けて来るべき世界的天下統一の時期を待機させられた訳である。
 諸外国は力主体霊の上に、より優れた文明と勢力を持っていたから、ようやく天下統一を果たしたばかりの日本では太刀打ち出来るものではない事を覚り、老荘の教えを取って消極策を強行したのである。
 さて日本を再び世界の桧舞台に復帰させる為に働いたのは、
「長廷担いで会津して仕組み土佐わぐが薩張じゃ。」
とでも言いたくなる様な段取りで、織田信長の開港貿易論を取って来た薩摩と、朝廷を担いで長州幕府を擁立しようと企んでいた長州と、それに倣って土佐勤皇党を立てようとした土佐郷士達が、佐幕派の会津とやりあって、結果明治政府を立てはしたが、明智光秀の家臣の流れを組むと信じてきた坂本龍馬を暗殺したり、肝心の親玉がすげ替えられたりしたので、神州日本の誠が現れず、世界を敵に回しての大騒動を演じねばならない事になり、出口王仁三郎聖師様が現れて、全ての陰謀を穏便に露見させる仕組みを為されて、三千世界の立て直しを実行されているわけである。
 日本は世界の過現未の型であるから、日本で明らかになったことは必ず世界でも実地となって明らかとなり、その真実が露見して、
「何だそうであったか。これで納得がいった。
これからは昔のことはすっかり水に流して、人類皆兄弟、天地の御先祖様を中心に据えて、みんなで天地の御恩を分け合って、金等廃して家族同然に生活をしていきましょう。」
という結構な段取りにしようと為されているのである。
「神様は本当に何もかも御存知であったのだ。」
という事がはっきりして、それを知らなかったから争ってきた過去の恨みを超えて、大宇宙の資源を有効利用して、苦役労働のない天産自給の地上天国を、世界中一致協力して完成させていくのである。
言葉遊びも神業だ。



次ページへ



前ページに戻る



目次に戻る