
お書き初め
平成十一(西暦1999)年一月一日 旧十一月十四日(金)
愈、新年平成十一年である。 西暦一九九九年は聖師様開教百一年目であり、二百歳への第一歩を踏み出した事になる新生の年であるから非常に結構である。 大晦日午後十二時から仏教の除夜の鐘を聞きつつ、本当の生地に当たる土地の土産神社に詣でて来た。 日本人は昔から仏教で閉じて、神道で明けるというのが殆どの在り方である。 土産様中村八幡宮には父、叔母、従兄弟との四人連れでの御参拝であった。 父と叔母は創価学会員であるが、父は割と常識家で、仏罰とか神罰をまるで迷信と言って受け付けないのに対し、叔母は文盲故に日頃お付き合いしている仲間の言葉を鵜呑みにしてしまうので、創価学会員は鳥居を潜ると罰が当たると言って、鳥居の脇をすり抜けて、広場の出し物だけを頂戴して帰って来た。 父もお参りはせず、広場でくれる年越しそばだけを頂いてまるで拝殿には眼もくれない。 けれど鳥居を潜ると罰が当たる等というのは迷信だと叔母をからかいながら状況を楽しんでいる。 父は昔から信心よりも行い優先の人であったから、罰を当てるなど糞食らえ観音だというしっかりとした信念を持っている。 けれど叔母はそうもいかない。 迷信だろうと何だろうと信じた道を外れないという点では見上げたものだが、叔母の行動を端で見ているこちらとしては何とも疑問が残る。 私は二人の姿に現代人の信仰姿勢の縮図を見た様な気になったが、「神の国誌」新年号の「幸福の本体」にも、 「僅かの差違を探り出していかにも天下の真理でも発見したごとく、理性に勝つ人ほど天下に不幸なものはない。」 という聖師様の教えが掲載されているので、これを鵜呑みにすれば父も叔母も自らの信じる道を守る事で満足しているのだからそれで好いという事になってしまう。 と言ってこれが正しいのかというと少々疑問が残る。 文面のままだと信仰というものも、幸福感というものも、このそれぞれの生き方の選択の自由の前には閉口せざるを得ないもので、こういう事は本人が覚っていく事であるから周囲でどう説き伏せてもあまり意味がないという事か。 けれどこの文は聖師様の言葉だから身にしみるのでそれを他人様からこれみよがしにつきつけられても糞面白くもないという事になるであろう。 人間というものはどう殊勝そうに振る舞ってみても結局は体主霊従で自分は正しいと思うから一人前に人に説教がしたくなるのである。 そういう意味では私も同じ穴の狢という事になるであろうから、狢は狢なりに感ずる処を囀ってみようと思う。 父にしても、叔母にしても創価学会の根幹である法華経よりも自分を信じており、また他人の言葉を信じてああでもない、こうでもないと他人のやることにケチをつけているだけの様に見えるのである。 この二人が本当に法華経に説かれている事を深く理解していたら、神社の鳥居を潜ると罰が当たるとか当たらないとかで心を悩ませたりしないであろう。 もし法華経こそ最高の真理であるという徹底した確信があるならば、神が敵対して罰を与える事など絶対にないという事に安心していられる筈である。 法華経の真意は神仏人天地全てに通ずるものであるから、これを守る者を正しい神が罰するわけがないのである。 しかしこういう事をうっかり口にしたり書面にしようものなら、 「あいつは差し出がましい奴だ」 といって敬遠される事になる様だ。 私には正体の判らないものをひたすら愚者になって信ずる事など、とても頼りなくて、恐ろしくて出来はしない。 そのかわり、自分の出来る限りの調査をして、これは侮れないと了解したものはとことん信頼する。 だから私は理性的にも聖師様を信頼するのだ。>br> |
五十歩百歩
平成十一(西暦1999)年一月一日 旧十一月十四日(金)
昔、二人の修行僧が修行の道中で、水溜まりをまたげずに困っている女性に遭遇した。 修行僧には女戒禁というのがあり、修行中の身で女性に触れる事は破門にも及ぶタブーであった。 一方が女性に手を貸すべきか否かを煩悶している脇で、もう一方の修行僧が事も無げに女性を抱き抱え水溜まりをまたぐと、ひょいと降ろして感謝の言葉も聞き終わらぬうちにまた歩き出した。 さて、ここで益々悩みを深めた前者が思わず後者に問いかけた。 「貴方は何故女戒禁を破って女性を抱き上げたのか。」 彼には後者が大罪を犯したとしか思えないのである。 こう強圧的に問われた後者の僧は、表情も穏やかに答えたものである。 「貴僧はまだあの女を抱いていたのですか。」 禅問答の様な話しだが、明らかに後者の僧は既に一人前の菩薩境に達しているが、前者は人を助ける事等とても出来ない境涯である。 聖師様の逸話にも、とある女性が自殺覚悟で死ぬ前に一度聖師様にご挨拶をするつもりで参拝し、一人寂しく死出の旅路を向かう道で後ろからふわっと聖師様に抱き留められて自殺を思いとどまったという事実があったと聞くが、当時聖師様は無理解な信徒達や、その筋の淫教邪説の排撃を受けている最中で、丁度先の修行僧同様の女戒禁に監視されている様な状況であったにも関わらず、自らの安全よりも女性の自殺願望を救う愛念の方が優先した様である。 はっきり言って私はこの逸話を和明氏の講義で聞いた時、身も心も踊る様な感激を受けたものである。 という事を考える時、私はこの話を即座に取り上げたい。 修行僧の話しでも、聖師様の話しでも、女性が水溜まりに困ったり、自殺を考えたりしなければ、誰も悩む事も批判される事もないのであるが、そもそも愛情というものは、強者の弱者に対する施しである。 心弱い女性を助けてやる愛情が罪になるわけがないのである。 問題はその心に執着があるか、ないかという事であろう。 仮にも霊界物語を拝して、吾こそは瑞霊の教えを守る天使であるという心根があるのならば、自らの修行的立場の安全を守る為に、悩み苦しむ者を見過ごす様な弱さとは縁を切りたいものである。 宣伝使とは、神素盞嗚大神の救いの福音を未だ信仰未開の地にもたらすのが職務である筈であるから、それが例え自称宣伝使であろうと正式な宣伝使であろうと、自らの立場の安全を考えて困っている者を見過ごす様な心はない筈である。 霊界物語には宣伝使に対する様々な試みの一つとして女性からの恋着に対するものがあるが、こういう事は悩んだ方が不合格なので、善も悪もなく、助けなければと思ったらぱっと行動し、結婚したいと思えば悩まず求婚するという状態が合格である様である。 また、者に依ればお金が在る事イコール富と思いこんでいる人もある様だが、こういう心では先の女戒禁に煩悶する修行僧や、聖師様を助平視していた手合いと五十歩百歩であるといえるのではなかろうか。 神様は何の為に心豊かな者に富を分配するのかといえば、それは強者が弱者を守る愛念を発揮してくれる事を期待しての事であろう。 まさか神様ともあろうお方が、富める者が富まざる者をあざ笑うのを見たくて富を信仰の正しい者に与えているのだ等と、体主霊従や力主体霊的にたかをくくっている様な下劣な輩が愛善の志士の中にいるとは信じ難いが、その採決は惟神の裁きに委せるとしよう。 現代は女性も強くなり、物質的富も豊かになった。 そして何より技術という力がある。 これがお金なしには動かないという発想の方が貧しい心の様に思うのだが違うだろうか。 |
波動(覇道)調整(懲征)
平成十一(西暦1999)年一月二日 旧十一月十五日(土)
年が明けた横浜は見事な日本晴れで、今年は去年とはまるで波動が違う晴れやかな陽気に満ち溢れた幕開けである。 本年正月元旦の試合を最後に合併するプロ・サッカー・チーム横浜フリューゲルスも見事に優勝して有終の美を飾ったし、何か一皮剥けた新鮮さが溢れて来ている様な気がする。 去年の再興愛善苑は一昨年の改革で一皮剥けた事と、聖師様の記念行事が重なり非常に勢いがあった。 まるでそれが好く反映した様に一年遅れで漸く国体も陽気に満たされて来ているのであろうと思うのだが、今年は平成十一年であるから日本国の再生統一が為されて行く年である様に感ずる。 「神の国誌」でも丸山氏が年号についてかなり拘った論文を載せていられたが、キリスト教暦を中心に動いている海外や国内の機関にとっては、恐らく今年が正念場となるのであろう。 幸いといっては何だが、天皇暦を使っている我が国は一足お先に再生の陽気の中に入って行くと思われる。 あるカメラのCMでも年号を上手くもじって平成イイ年と今年の良縁を唱っているけれども、これは好いことである。 大晦日は北野たけし氏の「奇跡体験アンビリバボー」でも超能力が常能力になる近未来を予測していたが、そうなるとタイトルからもアンの二字を取り除かなければならなくなりそうである。 私も時々、この番組に奇跡体験を投稿しようかなと考える事もあるのだが、私の体験は宗教色が強過ぎるから、番組には不向きかもしれないなと思って遠慮している。 本音を言うと私にとって自分の日常には、どれが本当に奇跡と呼べる体験なのか判らなくなるくらい豊富な体験が在り過ぎて、奇跡が奇跡ではなくなってしまっている所があり、とても断片的に編集しきれないのが残念だ。 奇跡といえば、最近の横浜のスポーツでの素晴らしい活躍ぶりは当に奇跡である。 私も負けずに頑張らなければという気持ちにさせられるが、これも広義の奇跡である。 人の喜びが、自分の喜びとなり、活力となるという現象は単なる分析的科学の域を超えた奇跡であると言えるであろう。 「1999年7の月」のノストラダムスの預言も、これはキリスト教暦に対する預言であり、しかも陰暦によるものだそうだから、陽暦では八月になるらしい。 ノストラダムスは元来ユダヤ教徒であったが当時隠れ蓑的にキリスト教徒に改宗してこの預言を認めたらしい。という事は恐らく、当時既に歪められていたと考えられるキリスト教を利用した支配者に対する警告としての意味が込められたものであった事は間違いない。 だから他宗教社会にとっては余り関係ない預言なのである。 二十年近く前から、この預言に記されている ANGOLMONIS の文字をゲマトリヤというユダヤ式暗号解読法を使用して並べ替え MONGOLIANS の文字を導き出した日本人の本があったが、これが現代キリスト教社会にとって恐るべき発見となるのであろう。 去年までに我が国が味わった苦しみは、この問題に無事に対処して行く為の波動調整であった様な気がするのである。 今年は私に強い影響を与えた人達の干支である卯年である。 我が心の星、愛美ちゃんも、エレキの神様寺内タケシ恩師も、奇しくも共に卯年の一月十七日生まれのA型であった。 その他有名人には百恵ちゃんもいるし、有名事件では阪神大震災があったが卯年ではない。 卯は東方に縁がある。 ヨハネの黙示録で有名な東方の日出ずる国と云うのは、霊主体従の「ひのもと」である。 聖師様再臨にとっては多くの条件が整っている様だが至仁至愛世界の夜明けの年というならば大歓迎である。 |
自他一体
平成十一(西暦1999)年一月三日 旧十一月十六日(日)
最近、女性漫画家高橋留美子さん作、少年サンデー連載中の「犬夜叉」というコミックにハマッてしまっているのだが、妖怪フィクション的内容もさる事ながらヒロインの少女「かごめ」が時折ヒーロー「犬夜叉」に見せる表情や言葉が、私が「愛美ちゃん」と過ごした遠い昔の一場面を思い出させてくれて、何とも切なく甘酸っぱい気持ちにさせられるのが最大の原因なのだ。 十年前に再興愛善苑に出合った頃は、もしかしたら愛善苑に入会すれば、こんな女の子に出会えるのではないかという虫のいい期待をしたものだったが、残念ながら今の所そういう現実はない。 けれども真理は自他一体とはよく云ったもので、こういう女の子を、一度も会ったことのない女性漫画家か描いてくれているという現実には、神様の深い思いやりが感じられて妙に有り難い気分になってしまう。 コミックも今や現代の芸術といっても差し支えないと思うが、私も少年期に漫画家に憧れた頃があったので、筆ペンを取り出し当時の 私の一番のお気に入りのオリジナル・キャラクターである 「おとぼけハリー」 を、お書き初め宜しくノート一杯に描いてみた。
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美しい魂
平成十一(西暦1999)年一月三日 旧十一月十六日(日)
人の美しさは魂の大きさにある。 そして大きな魂というものは例えようもなく美しいものである。 大きな魂の持ち主に出会うと、この人との時間を何時までも大事にしたいという気持ちになれるものである。 この世で最も魂が大きい存在は主神であり、私達愛善苑会員は神素盞嗚大神と号して信仰している。 何故なら、自らの魂をより美しくする為にである。 本当の神様を信仰して交流を続けると、その人の魂はどんどん大きくなる。 従ってその魂はどんどん美しくなってゆくのである。 仮にそういう人が、学問に深く精通していなくても、美しい魂には主神の徳である愛善と信真が流れ来たり、彼をより豊かで愛深く賢い存在にしてくれるのである。 世界には、神素盞嗚大神を知らなくても、素神の分身である神々と交流しつつ、間接的に主神からの愛善と信真を頂いている人々が大勢いるのは有り難い事である。 先天的に美しい魂を持っている人々や、人生経験を通して魂を美しく保って来た人々は神の名を語らなくても、非常に大きく愛深い働きをしているのであるが、こういう人々は何も語らなくても、その人自身の全人格や、行いを通して主神の愛善と信真を現し得るので、周囲にいる人々は自然にこの人と過ごす時間を非常に大切にする様になるのである。 それは二重三重間接的にその人を通して主神の愛善と信真を頂くことが出来る事を、誰の魂も本能的によく知っているからである。 しかし人間の魂の器は蓄電池の様なものであるので、多くの人に出会い続けて、多くの人々に対して自分の魂に蓄積されていた好いエネルギーを分け与えてしまうと、どうしても年月と共に自らの魂が小さくなってしまう。 こういう時に信仰を通して主神の配下にある神々や主神と間接的直接的に交流を保っていれば、主神の無限の徳を頂き続ける事が出来るので、その手段の一つとして、各地に祭壇等が設けられる様になったのである。 この様に人間は祭壇を通じても自らの魂の大きさを保つ事が出来るが、やはり美しい魂を持った人から間接的に主神の愛善と信真を頂いた方が、人間的友愛も同時に吸収する事が出来るのでとても心地よい状態になれるのである。 人間社会に自然と人気者と不人気者が別れてしまう最大の原因は、こういう仕組みによる所が大きいのである。 例えば仮に、素晴らしい旋律と素晴らしい歌詞を持つ楽曲を、素晴らしい技術を持った歌手が唱いこなしたとしても、本当に魂が大きくて美しい人が、その魂の響きを全開にして唱う歌にはとても叶わないという様な事があるが、こういう人の歌声は、理論も技術も超越した所、即ち人類共通の故郷から響いてくる歌声なので、その歌に包まれた人々は皆、父母の優しい懐に抱かれた様な愛深い世界を体験出来るので、その人を高く評価するのだ。俗に一流と呼ばれる人に人気が集中するのは、その人の魂が殆ど主神と直接交流している様な状態にあるからである。こういう本当に魂の美しい人は、何処にいても殆ど一瞬の内に人々を美しい心の世界に導く事が出来る。 人類や世界にとって最も理想的な環境は、こういう大きく美しい魂の持ち主達から科学、宗教、芸術、政治、経済がもたらされる環境である。 出口王仁三郎聖師は霊界物語の拝読こそ、主神との直接内流を約束する大神書であると断言し、我々愛善苑会員はそれを絶対的に信じ、体験として会得しつつあるのである。 勿論、他宗教の聖典等も主神からの間接内流を会得する事の出来るものであるから大切なものである事に変わりはない。 直接間接に関わらず人間の魂は美を希求しているのだ。 |
宇宙無限発電所
平成十一(西暦1999)年一月四日 旧十一月十七日(月)
宙返り何度も出来る無重力 無限発電宇宙で起こす この歌の上の句は、我が国を代表して女性宇宙飛行士としてスペース・シャトルに搭乗した女史の作によるものであるが、私も下の句をつけてみたくなったので、以上の様な歌にしてみた。 我が国のとある建設企業は将来宇宙ホテルを建設しようという構想があると、三日朝にフジテレビで放送していたが、それならば一つ地上の電力会社が一斉に技術提携して、人工衛星発電所を開発してみてはどうかと考えたのである。 星が巨大な磁石であるという事は現代科学の常識となっているが、人工衛星大の磁石を宇宙空間の無重力の中で高速回転させれば、無尽蔵に電気エネルギーを発生するシステムを創る事が出来るはずである。 このエネルギーを、人畜無害の周波数帯域の電波とか光波に還元して地上の受信システムに送信して、再び電気エネルギーに還元する事が出来れば、起動時のエネルギーを除けば、無限の動力を得る事が出来るのではないかと、薄学の私も一寸考えてみたのである。 立ち上げるまでは莫大な資金と技術力が必要であろうから、とても一国のみの力では難しいので国際プロジェクトとして取り組む必要があるとは思うけれども、理論的には不可能な事ではないであろう。 これは現代科学で公式に認められている、自転公転する地球と太陽の関係の様な発想である。 これを地球対宇宙発電所の間で成立させようというのである。 従って国際レベルの事業にしなければ、維持するのも大変難しい問題であるといえる。 また一国が独占する様な事業では、国際政治上大変都合が悪いであろう。 人工衛星写真も、あの遠い空間を超えて送られて来る情報である。 電力をデータ化する事が不可能な事とは思えないし、こういう発想は既に何処かの国で研究中の事かもしれない。 もし、電力のデータ化が可能な事であるならば、携帯用のデータ・バッテリーを創る事も可能であろう。 ヴァーチャル電池である。 ここまで進歩出来たら、宇宙発電所も不用になってしまいそうだがそれはそれで構わない。 宇宙発電所が可能ならば、宇宙気象コントロール・センターを開発する事も出来るであろう。 地上の磁気の乱れを、衛星軌道上から修正する事が出来れば、地上の気象を制御する事など容易い事である筈だ。 勿論、神人は龍神に命令して部分的に気象をコントロールする事が出来るが、神人にも寿命があるし、こんな神人はめったに出現しないから永久的に頼れる存在ではない。 以上に述べた様な施設を国際プロジェクトとして成功させる事が出来れば、自然の脅威も大昔の話しという事になるのである。 地球が巨大なビニール・ハウスの様になるわけであるから、地上全てがエデンの苑になる。こういうシステムを開発するためには地上で地域が分裂して小競り合いをしている場合ではない。 地球大家族精神が成立していなければ、とても不可能な事になる。 太古エバが食した「善悪を知る木の実」の正体は、人間的小さな価値観で、神様が全て善しと宣言して祝福した世界を勝手に値踏みした事である。 悪は絶対に存在しないという事は、敵は全く存在しないと云う事と同意義である。 地上を荒れ狂う龍神達を管理するのはアダムとエバの本来の天職である。 これは決して神への冒涜などではない。 自然を創造したのは真の科学者である主神である。 人間が神の子としての本性を現すと自然も当然これに従うものとなるのである。 |
三度目の鴿
平成十一(西暦1999)年一月四日 旧十一月十七日(月)
ノア六百歳の二月十七日に発生した大洪水を、神の命じたつがいの動物と共に方舟の中で150日の間無事に過ぎ越し、彼等は七月十七日にアララト山の頂に漂着したと創世記には記されている。 この頃の一ヶ月が何日であったかは定かではないが、現代の太陽暦でもこの年が閏年でなければ二月十七日から数えて150日後は丁度七月十七日になる。 ただし古い言い伝えでは、この頃の一ヶ月は30日で区切られていたという。 どちらにしても150日後は七月十七日である。 十月一日に山々の頂が現れ始め、それから更に40日後、ノアは方舟の窓を開けて鴉を放って大地の水の引き具合を知ろうとした。 一月を30日とするならば、それは丁度十一月十日の事となる。 この時放った鴉は大地に羽を休める所が無かったにも関わらず、ノアの所へは戻らず上空を往復するばかりだったので、同じ日に今度は鴿を放ったが、やはり大地には水が一杯だったので鴿はノアの下に戻ってきた。 それから7日経った十一月十七日(一月を30日とする)に、ノアは再び鴿を放った。 しかし、まだ全地は乾いていなかったので鴿は再びノアの下に帰って来たが、この時鴿のくちばしには橄欖(オリーブ)の初葉をくわえていたので、ノアは地上に植物が生えて来た事を知って喜んだ。 更に7日経った十一月二四日(一月を30日とする)にノアは再び鴿を放ったが、今度は鴿は戻らなかった。 これでノアは地上から完全に水がひいた事を知ったのである。 ノア六百一歳の一月一日に地上は乾いた。 この年の二月二七日、漸く神からの命が降りノアは方舟から降り立ったのである。 この洪水後の期間は天地再創造の縮図的期間であり、ノアを神に例えて、神が地上に降り立つまでの予言となっているのである。 先ず初めにノアが放ち戻らなかった鴉は、神を裏切った堕天使の象徴である。 そして次に放った鴿は地上に降りられずノアに象徴される神の下に戻って来たので、第一アダムを象徴しているのである。 二度目に放たれた鴿は、地上に降りる事は出来なかったが橄欖(オリーブ)の初葉をくわえて戻って来た。 これは第二アダムと称えられたイエスの象徴である。 彼はオリーブの若枝と称されていた。彼は地上に完全に受け入れられなかったが、そこには期待が出来るという事をオリーブの初葉で象徴している。 三度目に放たれた鴿はノアの下には戻らなかったが、これは第三のアダムが大地に完全に受け入れられ、地上に完全に根を降ろして生活する事を成就する象徴であり、神に象徴されるノアが地上に降り立つ為の準備を成し遂げるという予言である。 水は天から洪水の様に降り続けた雨である。 これは混乱していた地上を立て直す為の神の救いの象徴である。 この水が大地から乾き切るというのは大地に染み渡り、地上を潤す命になって行く経緯を象徴しているのである。 即ち、瑞霊の教えが大地に浸透して、第三のアダムが受け入れられ、大地に根を降ろして生活し始め、完全に準備が整ってから、漸く神が地上に降りて来るという事を象徴しているのである。 つまり第三のアダムは第二のアダムが残した宗教や教会を用いず、瑞霊の染み渡った地上の人々と手を取り合って神を招待する準備をする神の使いであるという事が判る。 神道でいえば神武天皇が第三のアダムという事になり、鵜草葺不合命が第二アダムであり、邇邇芸命が第一アダムに当たる。 鴉は蛇即ちヘブライであり、水は聖師様であり、ノアは神素盞嗚大神である。 これは予言である。 |