
月の灯り
平成十一(西暦1999)年二月一日 旧十二月十五日(月)
昨晩、日曜日の夜八時五十分から九時四十分頃まで我が南永田一〜二丁目界隈は、停電に見舞われた。 何かトラブルがあったらしいのだが、近所のショップの旦那さんや薬局の若旦那がレジのコンピューターの修復を考えるとぞっとすると溜息をついていた。 こんな事はここ二十年ばかり一度もなかったと思うが、とにかく一帯は公衆電話も街灯も全く消えてしまい、軒並み窓ガラス越しに揺れる蝋燭の黄金の光が、妙に頼りなげだった。 それでも夜空の蒼碧とした月灯りを暫し楽しみながら、辛うじて生き残った情報機関であるラジオや携帯電話が、この時間帯には非常に役立ったらしい。 一頃アフリカ救済のアイディアの一つとしてゼンマイラジオという珍品が話題になった事がある。 開発の遅れている地域にマスメディアを普及して、災害時の情報源を確保しておこうという発想だったらしいが、やはり世の中いざという時はシンプルなものが役に立つ。 夕べの停電中にも活躍したのは電池製品や蝋燭だった。 まあどちらも有限動力には変わりないが一時しのぎには充分な力を発揮してくれた。 そこへ行くとゼンマイなら、もうすぐ切れるなという頃にまた巻いてやればよいのだから半永久的であるといってもよい。 ただ巻く時に少々面倒くさい気がするだけだ。 そういえばゼンマイも渦の力を利用したエネルギーの一つである。 シンプルなものは強い。 「力を合わせる」というシンプルな言葉がある。 これなども本当に世界総動員して一つの事業に従事するならば、現代の様に一方は資金力にもの言わせて表面上は管理職といいつつ接待営業と称して遊技に耽り、一方は安月給を稼ぐ為に一日の大半を費やし、家庭の婦女子は旦那の労をねぎらうのも忘れてゴロゴロしているというような不公平な事はなくなり、しかも一日の労同時間が三〜四時間程度で済む様になるという事を、聖師様は仰っていたようだ。 漠然としてはいるが私もそう思う。 今までの様に嫌な仕事を弱い者、無能な者、体力しか能のない者等に差別的にやらす様なやり方を何時までもしていても、この世界の不公平は永遠に無くなる事はないであろう。 これは社会主義や共産主義ではない。世界大家族主義の労働体勢である。 万民が一斉に一つ一つの事業をお祭でもする様にやっていったら、それは賑やかで一体感のある毎日になる事だろう。 物事中途半端は絶対にいけない。 団体生活という言葉を使うなら、一つも個人主義のない世の中にしなければならず、個人主義というのならば、一つも団体主義のない世の中にしなければ世の中の苦渋は耐える事はない。 世界中でお日様の昇る順に三〜四時間働いて、一斉にお日様の昇る順に余暇を楽しむ世の中になったら楽しくないわけがない。 余暇も日の出順に団体毎の自由行動をすればよいのだ。 お金の事も、お金の要らない世界を創るというのなら徹底的にお金を退けなければならず、お金を使うというのならば徹底的にこれを生かして万民の潤うように使わなければ偽物である。 中途半端は争いのもとである。 ごく一部の者だけが儲けて、大半の者は貧困に苦しむという資本主義の最大の汚点を一掃するには、やはり世界大家族主義を徹底するのが一番シンプルで、一度味わったら止められない毎日になる事は間違いない。 夕べの停電も一地域だけが味わった停電だから不公平を感ずる人も出るので、全世界で停電だったら文句の言いようが無かったろう。 世界の何処にもお金がなかったら誰もこれがなくても不服は言わないだろう。 世界中隈無く大地震に襲われたら誰も助け合わずにはいられないだろう。 なら逆に万民富めば最高だ。 |
こんな宗教なら
平成十一(西暦1999)年二月二日 旧十二月十六日(火)
正直言って十代後半の私は宗教や神に頼る者を弱者とみなして軽蔑していた。 信者というものは全て教祖に上手いように騙されて、手を合わせるだけの自ら戦う心のない臆病者だと思っていたのである。 反面、時代劇の見過ぎだったのか、法然、親鸞、日蓮、耶蘇等の信者達が時の権力から弾圧を受けながら、命がけで信仰を貫こうとしていた姿には、志士たるものこうでなければ本物ではないという義侠心にかられたりもしていた。 私は民間宗教独特の拝み倒しておすがりするだけの信仰が大嫌いだったのである。 しかし、多勢に無勢という言葉は何時までたっても通用するもので、例え聖者が一人二人現れても数と力に頼って押し寄せてくる強制力の前には、信念を貫いて死んでみせる事しかないような現実には、全く無力感を感じていたものであった。 当初の私の宗教観は、善悪対立する闘争手段としての大義名分の様なものだった。 そこに突然電撃のように一つの言葉が私の胸を貫いた。 それは、 「人間は神の子・神の宮であり、その天命は主神による地上天国建設のお手伝いをする事である。」 という明治以降の日本の新興宗教が掲げた大真理であった。そして祈りの尊さを知った。 私は五体満足で、気にくわない事があれば誰が反対しようと、これを満たす為に手段を選ばず努力する質だが、世の中には志はあっても病弱だったり、すでに家業があって自由な行動がとれないそれぞれの事情がある人が大半以上を占めている。 しかし、祈りならば、どんな立場に置かれた人でも、志さえあれば地上天国建設に参加することが出来る。 しかもこの祈りが簡単で短いものでよいという事になれば、私の様な短気な合理主義者にとっては、有り難いことこのうえない救いであったのだ。 しかし、私がこれを知った環境には、これを理解出来る人材が殆ど皆無といえる状態だった。 だから先ず自分からこの祈りを徹底して遠国の同志が活動しやすい様にするのが先決問題だと思ったのである。 南無阿弥陀仏は弱者の来世の救いを説いたものであり、南無妙法蓮華経は現世において仏力を現して行こうという積極的なものであったが、今一つ仏力が具体的なものではなかった。 しかしここに地上天国建設を目指すという明確な指標が示されれば私などの様に無学の者でも一目瞭然にその真意が伝達される。 そしてこれを祈りとして行ずるだけで、どんな立場にある人も、神様は地上天国建設の労働に参加したものとして承認して下さるという内容は、あまりにも容易で掴み易い教えであったのである。 こんな宗教なら堂々と胸をはって参加できると、当時の私は思ったのであった。 何しろ仕事中だろうと何だろうと、心中で祈っていればよいのだから、外見上は全く周囲に違和感を与えないですむ。 手を合わしたり、占いによって名前の画数を変えるだけでは人は救われないと、今日もある人が訴えていたが、それは全くその通りだ。 しかし占いや統計学や、所謂常識的な世界での救いというのは、あくまでも物質上の満足感である。 霊的問題を無視した上で、結婚相手が現れたとか、仕事が成功したとかいうだけの事で終わってしまう救いである。 要するに宗教上の救いと物質的な救いを混同して批判しているのだが、世の中にはそこから昇華して行く立場もあるから、これを否定してしまっては宗教家としては懐が狭すぎる。 ただお互いに救われたい心と救いたい心が一致しなければ効果が現れないという合致点はあった。 しかし一方で好い思いをする者があれば、これに追いつけ追い越せというのが人情であるから結果的にはみんな救われるのだ。 |
蟹・ザリガニ・蝦・蠍
平成十一(西暦1999)年二月三日 旧十二月十七日(水)
占星学上蟹座を守護している星は月である。 蟹の母は卵が孵化するまで大事に抱えているので、占星学では母性を象徴する生物として数えられている。 聖師様の旧暦の誕生日は蟹座に当たるのだが、聖師様もそれを意識したのか霊界物語の中に蟹をよく登場させている。 蟹は横に歩くし、母性を象徴する月に当たるから、緯役の変性女子の陰陽の活動を例えるのに丁度好かったと思われる。 さて、横に歩くのが蟹ならば、縦に歩く同類の蟹はザリガニである。 タロットの世界では月を象徴するのはザリガニである。 タロットはカッバーラに基づく魔術の瞑想用に考案されたものらしいが、何時しかそれはジプシー達によって占いに変容していった様である。 ジプシーは流浪の民である。 タロット・カードは大アルカナ二一十一枚と、小アルカナ五六枚の計七八枚からなるカードであるが、大アルカナの二一十一という数え方は、何故二二枚と素直に数えないのかと考えると思い当たる節がある。 それは例の、 四六九二という字は三七二一 もひとつ読めば王仁も喜ぶ という聖師様が唐突に詠んで霊界物語の余白歌に使用している歌だ。 二一足す一は二二。 21+1=22 の暗号を読み取る事が出来る。 ということは聖師様はタロットを通じてカバラ魔術の世界のルーツが、神素盞嗚大神にある事を示唆しておられたのではないかと思うのである。 小アルカナ五六枚は四枚のペイジを除いて、後に五二枚のトランプに簡略化された様である。 つまりトランプのルーツも瑞霊にあると考えられるのである。 ザリガニは主に沼や川等の泥水の中に済む生物だが、丁度蟹と蝦の中間の様な存在である。 尾を丸めれば蟹になり、ハサミを小さくすれば蝦になる。 そして案外知られていないのが、ザリガニが砂漠のオアシスに取り残された生物が、現在毒を持ち恐れられている蠍であるという事だ。 これらは全て同類の生物である。 占星学上では蟹と蠍と魚が水宮の星座であり、魚だけは同類ではない様だが、魚が鱗を持つに至った理由は、もともと海に発生した生物が一旦淡水性の川や湖で生活してから、再び海に戻ったものが、海水の塩分から身を守る為であるといわれているので、その進化の家庭に何か共通するものがあるのであろう。 因みに魚座を守護する星は海王星という事になっている。 月刊「ムー」二月号には、 「初公開!ノストラダムスの大予言を解く幻の直筆絵画を発見」 という見出しで十枚の絵が掲載されていたが、その十枚目に当たる絵は、私には大いに思い当たる節があった。 「月・ザリガニ・渦」の描かれたこの絵には深い因縁を感じずにはいられなかったのだが、それはこれまで記しておいた私の原稿からも容易に解読出来るであろうから今回は詳細しないでおこう。 勿論、私個人としては「ムー」によってこの絵の存在を初めて知ったので、神様の方で何か深い配慮があって、こういうものが今頃になって符節を会わせる様に姿を現して来たのであろうと思う。 関連図書は学研から市販されている。原本はイタリアという事だが、私はどちらの存在も今回初めて知ったのである。 全ては神のみぞ知る大いなる秘密の計画に基づくものであろうけれども、 「風が吹けば桶屋が儲かる」式の展開で、世界中がまるで人体のツボの様に、ここを指圧すれば彼処が反応するという様な具合になっているのであろう。 実は私も詳細は後になって知らされるのだ。 神様は世界中の同志に少しずつアイテムを授けて、みんなで組み立てる様に配慮しておられる。 出来上がればみんなで喜ぶ事になるのだが、途中は許されるまで秘密が一杯である。 |
時には間違いも神示のうち
平成十一(西暦1999)年二月三日 旧十二月十七日(水)
「蟹・ザリガニ・蝦・蠍」の原稿を送信してから、二カ所誤字があった事に気がついた。 頭では「進化の過程」と記したつもりであったが、実際には「進化の家庭」になっていた。 確認不足のお恥ずかしい話しなのだが、一寸考え直すと「進化の家庭」という言い方も、これでなかなか言い得て妙だなと思った。 宇宙の進化が主神を長とする巨大な家庭の中で行われていると思えば、何ともほのぼのとした温かみのある話しであると思ったのだ。 実はこういう事はよくある事で、愛善苑の会員の中にもこういう体験から神意を感じたといって喜んでいる人を何度か見かけた事がある。 現代社会は失敗を軽蔑する社会であるが、昔から「失敗は成功の素」という格言がある様に、楽天主義者の間ではこういう失敗も疎かにしない謙虚な姿勢が尊ばれているようだ。 昨日も夕方に面接後の採用の可否の連絡が入る事になっていたのだが、昨日に限って留守番電話を解除して、呼び出し音の音量を最大にしたつもりが最小にしてしまい、おまけに肝心の時間帯に居眠りしてしまうという失敗を犯してしまった。 普通ならここで落ち込むのだが、私の様に信仰を土台にしている者は、 「どうやらあの会社は神様のお眼鏡に適わなかった様だ。 また次の機会を待とう。」 という様な自己を過度に責めて萎縮させない考え方を自然にしてしまうのである。 神様はこの期に及んで改めて人の褌で相撲を取る様な就職をさせたくないらしい。 私としては有り難い様な、この先思いやられる様な複雑な思いであるが、何分約束の時間帯に本人が電話に出なかった時は採用取り消しという事であったから、神様としても随分念の入った断り方をさせたものであると思った。 運命の全てを神様を信じて委せきってしまうというのもしんどい様な、気楽な様な、何とも表現のしようのない人生である。 こういう生き方はタロット魔術の世界では、「愚者」というのであるが、 「愚者」はイコール「最大の賢者」の裏反しであるらしい。 何事においても優秀さを問われる現代に於いて「愚者」等と言えば笑い者にされるだけだが、人間頂点を極めた人程、己の足りなさに気付き、更なる精進を貪欲に断行するらしいから、きっとこういう事を言っているのであろう。 とはいえあまり軽率に失敗ばかりしていたのでは相手にされなくなるから、これも考えものである。 この問題はあくまでも本人の暗黙の了解で納めておかないと問題を起こしかねないから、過度に主張するのはやめておこうと思う。 一昨日の原稿で「こんな宗教なら」という題材で一節ぶったのだが、翌日ニュースでは何やらまたオウム真理教が活発化しており、これを地域住民が懸念して立ち退き闘争をしているという報道があった。 しかし、社会に新興宗教が現れる時は、何時も時の権力との軋轢が激しかったものだが、たいがいの場合地域住民には歓迎され受け入れられていたものである。 それは何故かと考えるに、その新宗教の開祖や弟子達が何処までも自己犠牲的に道を説いたからであろう。 にも関わらず、問題のオウム真理教は他人を犠牲にしたのだから、地域住民の怒りを買うのは当然の結果であろう。古来人を殺して天下を取って好い死に方をした君主はいない。 真理の上からは生命は永遠で肉体を失っても地獄に入るよりはましだ、という事も言えるが、それはあくまで自分に対して言う事で、他人を承諾もなく強制的に殺す事ではない。 これは過ちなどで済ますわけにはいかない問題だ。 現代は世界中で死刑の廃止が叫ばれているが、人を殺した者は改心した上で自ら進んで死刑による罪償をしなければ霊的には苦しむのだ。 |
天国+地獄=獄楽
平成十一(西暦1999)年二月四日 旧十二月十八日(木)
私の好物の一つに「地獄ラーメン」というのがある。 辛さが売り物のラーメンだが、私が選ぶのは中級というランクで、それ以上だと私の舌は味を判別出来なくなるので注文しない。 一頃爆発的に流行した豚骨スープに、特性の辛みソースを加えたものだが、月に一度食べれば満足できる。 毎日食しては私の体質では肥満に歯止めがきかなくなりそうな代物であるから、月に一度か、収入が安定していれば週に一度で充分なのだ。 ただいまの所は、 「欲しがりません勝までは」 という現状であるから控えているけれども、裕福な時には地獄と名付けられたラーメンでも、 「こんな地獄なら何度でも」 という気持ちでついつい足の運んでしまう味である。 どんなに地獄と言ってみたところで、本人がそれを地獄と感じなかったら何の効果もない。 私は意地っぱりなのか、昔から先輩等に寄って集って、 「現実の厳しさを思い知れ」 という様な特別待遇を受けると、 「何がこんなもん、地獄なもんかい。獄楽、極楽。」 と尻でも食らえ式に対処してしまうので、随分目の敵にされたものだが、こういう俗に言う鬼連中は私の様に何処に行ってもニコニコしている奴が気に喰わないらしい。 こんな先輩に恵まれたお陰で、組織で出世など死んでもしてやるかいという天の孔雀になってしまったのだ。 「こんな私に誰がした」 と言ってやりたいところだが、私としては承知の上で乗り込んだ鬼様方の住処であるから、もとより文句を言うつもりはない。 薬は病気だから飲ますのだし、溝は汚れているからさらわれるのである。 「世界平和の祈り」に撤していた頃は、よく修羅場霊界に赴いて荒んだ霊達を相手にして、 「世界人類が平和でありますように」 とやったものである。 「水清ければ魚住まず」 というけれど、この世の黴菌は差詰め金だろう。 だから神の在る所に黴菌が寄りつかなくなるのは仕方がない。 薬が効いて来た証拠である。 薬が効いて健康が回復すれば、今度は薬が要らなくなるのも道理である。 となると神様にとっては地獄も必要という事になる。 世の中から犯罪がなくなれば警察は食い上げ、病人がいなくなれば医者は廃業、事件がなくなれば記者も用済み、 それでこの世の楽園は地獄の「獄」を取って「獄楽」というのである。 仏法の蓮の華が咲くのも泥沼池の真ん中である。 大地の土だって大概は草花、昆虫や動物が腐敗して肥料化したものである。 この世に肉体が生存しようと思えば、差別なく地獄を楽しまなければ間に合わないのが摂理である。 この摂理を誤解無くすっきりと教えてくれるのが真の宗教である。 真の宗教家は天国と地上天国を混同する様な真似はしない。 地上天国は何処までも地上天国である。 霊界の中の地上という境域に建設される地上天国と、神界に実在する天国は、まるでレベルの違うものであるのは否定できない事実である。 そういう事実を前提として、現代は 極楽とは一寸違う地上天国の一歩手前の獄楽であると私は評価するのである。 この世の辛酸を舐めるのも、地獄ラーメンを食べる時の様な、一瞬の舌への刺激と、翌朝の黄門様への 「く〜っ」 という何とも狂おしくも切ない刺激の様なものである。 未来の五十年も、過去の五十年と化してしまえば一夜の夢の如きものである。 難しい事を鼻歌混じりにやってみせるのが、プロ中のプロであり、簡単な事をさも難しそうに見せるのがプロである。 拘らなくても好い事に拘るのがアマ中のアマであり、何事も程々に楽しむのがアマチュアである。 私は甘さの固まりの様な男であるから、少しくらい辛い思いをしてもすぐにケロッとしてしまうのである。 天国+地獄=獄楽なのだ。 |
素直な心
平成十一(西暦1999)年二月五日 旧十二月十九日(金)
綺麗な物を綺麗と感じ、醜い物を醜いと感じ、美味い物を美味いと感じ、辛い事を辛いと感じ、楽しい事を楽しいと思い、苦しい事を苦しいと思い、会いたい人には会いたいと思い、憎い人は憎いと思い、忘れた時には忘れたと言い、判らない時には判らないと言い、知っている事は知っていると言い、欲しい物は欲しいと言い、要らない物は要らないと言う。 そんな当たり前の事を大事にする。 笑可しい時は笑い、悲しい時は泣き、楽しい時は喜びを現し、腹が立ったら大いに吠える。 喜怒哀楽も人間なればこその味わいだ。 感情を理性で抑制するのは何の為だろう。 それは悪意のある暴力的な感情もあるからだ。 陰湿な環境で育ってしまうと、感情表現も陰湿になる。 爽やかな大人が少ないと、子供が爽やかさを表現出来なくなるのも当然だ。 世の中に大人の真似をしない子供はいない。 全て子供は大人達から学ぶのだ。 学校に行けば色々な環境で育った子供達や大人達の中で、大切な物を失うこともあり、また大切な物を得る事もある。 けれど、それを理性的に整理出来る程、子供達は大人ではないのだ。 そしてそれを見守る筈の大人達も案外大人ではない。 ただ年齢だけを重ねる内に周囲から大人扱いされているだけに過ぎない場合も多い。 逆を言えば子供達の中にも、耳年増や、本当に大人びた子供もいる。 こういう事はその中に浸りっぱなしでは判らないものだ。 一度外に出て見つめ直す機会がないと判らない事の方が多い。 素直な心の大切さを、本当に知る為には、一度はひねくれてみる事も好い薬かもしれない。 けれど社会という奴は一度はみ出した者をそう簡単には受け入れない。 それは社会という生き物が、出戻りに自らがかき回される事を本能的にも経験的にもよく知っているからである。 こんな時には判った事を一度捨ててしまえれば好いのだが、人間なかなか一度判った事を忘れられるものでもない。 はみ出た者はその場所で大きくなるか、完全にその体験を忘れてしまい、一からやり直すつもりで帰って行くしかないのが社会というものだ。それは哀しいことだろうか。 霊界の事を例に取るならば、神様は神様のままでは人間の世界には関われない。 人間になる時は神様である事を忘れないと上手くいかない。 上位の天国の者は下位の天国に行く時はまるで言葉を失うものだ。 人間が再生して来る時に、天国での経験や前世の記憶を消して生まれて来るのもこの理屈である。 これが人間社会に簡単に神様が現れてくれない理由である。 そしてこれは人間が神の子・神の宮であるという事が真理であるとしてしか語れない理由でもある。 だから、どんなに真理からかけ離れている様な社会でも、そこで出会う人々は本当は神様の仮の姿なのであると思って、ただ素直にその社会のルールに従う事である。 霊界全部の理屈が通用する程人間社会は巨大な場所ではない。 もし、本当に人間が神様の本体を現してしまったら、この地球では小さ過ぎるのである。 人間になったら神様のままでは役に立たないのである。 人間になったら、死が魂を解放してくれるまで、人間を貫徹しなければ立派な仕事は出来ないのである。 人間になったら、人間として泣き、笑い、怒り、喜び、学校を卒業して社会人になり、結婚して、子供を設け、年老いて、死を迎えるだけだ。 神様になったら人間社会では生きられないのがルールである。 これは素直な事なのだ。 神様から見たらどうでもよさそうな事で気を揉むのが人間である。 しかし、それがなくなったら人間は人間ではなくなる。 人間としての素直さは神様そのものではない。 |
下座行を楽しむ
平成十一(西暦1999)年二月六日 旧十二月二十日(土)
人間は神の器である。 この器を選択するのは神様の御心よりないので、人間の側からの都合はあまり考慮されない。 だから神示として発せられる御言を拝する時は、その御言だけを見れば好いのである。 その器の人格に左右されては神の言を聞き損なう事になる場合が多いから注意するべきだろう。 神様は自らの絶対権威を御現しになる時に敢えて人格の低い者を選び、人間の価値判断を超えた所で神様の絶対性を現すのである。 誰が見てもこの人ならばという人間がまともな事を言うのなら、わざわざ神様が御力を貸さなくても好いのである。 こんな小さな子供が、とか、こんな無学の者が何故こんな高度な事を話すのだろうという奇跡的な出来事を通して、神様は御力を現すものである。 それで学問の長けた人が神様の不思議を現そうと志すならば、どうしても下座行が必要になって来る。 何事についても人の下に自らを置く事で、不思議は現れる様になっているのである。 即ち下座行とは謙譲の美徳を養う事であり、そこから神様の無限の情愛が溢れ出る様になっているのである。 例えば自ら好む事を続けるのは誰でもやる当たり前の事であるが、自ら好まざる事を進んで行う事で忍耐力が養われ、この忍耐力が即ち謙譲の美徳となり、下座行となるのである。 ここでいう忍耐は我慢ではない。 我慢というのは我が慢心であり、我慢する事で己が高まって行く様な錯覚に陥っているのである。 即ち自ら進んで我慢する事で優越感に浸っているのであるから、そこには他者への愛念がない。 こういう心には神様は寄りつかないのである。 忍耐というものは何処までも全体の向上を確信する所から生まれて来るもので、仁愛に基づく正しい叡智、即ち愛善と信真の徳から発揮されるのであり、この世界の全てが主神の仁愛の現れであると断言して安心していられる絶対境から沸き上がって来る情態なのである。 大自然に偉大なる恵みをもたらす水が高きから低きへと流れる様に、そしてその偉大な水が決して驕る事もへりくだる事もなく淡々黙々と大自然の営みを繰り返す様に、静かに忍び耐える心を、ごく自然に現すのが幼子のそれであり、無学者のしおらしさであるのだ。 神様は美しい鼻を好まれるが、高いだけの鼻は嫌いなのである。 神様は誰からも低く見られる者を通してその存在を明らかにする事を好み、誰からも小さく見られる者を通して大きなお仕事をなさるものなのである。 それは自分で自分を低くする事ではない。 叉、自分で自分を小さくする事でもない。 周りの者から低く小さく見られる事である。 神様は憎まれる者を通して愛を現し、貧しき者を通して富を御現しになるのである。 そして愚かな者を通して叡智を現し、弱き者を通して強さを御現しになるのである。 自ら愛を吹聴し、富に溺れ、利口に高ぶり、強さに頼る者には、神様はそれ以上の結果を御現しにはならない。 何故なら彼等は、既にそれらの報酬を得ているからである。 これは以前にも述べた隙間の作用である。 自らが自己愛で高圧になっていては、神様のエネルギーは決して流れて来る事はないのである。 自らを下座に置く事で低圧を確保する時、そこに神様の不思議が現れて来るのである。 先ず自分を通してどんな好い事が起きても、 「これは自分がやったのではない。 神様が私の体を器として働かれたのである。 神様有り難う御座います。」 と、何処までも自らを神の活動の賛美者の位置に置く生活を体験する事で、他人から現れて来る神様を覚る事が出来る様になる。 自分も他人も神様の出口だという事が判れば自然に下座に着けるものだ。 |
水を綺麗に致しましょう
平成十一(西暦1999)年二月七日 旧十二月二一日(日)
私達の地球は水の星である。 水質が変化すれば、生態系もそれにお付き合いして変化するのが、この星に生まれた者の宿命である。 年末と言えば心に浮かぶのは大掃除だ。 二十世紀は丁度年末の様に、地球の本格的な大掃除をする為の水洗いの時代であった。 ノアの大洪水以来地球上の歴史は全て表面的な試行錯誤の時代を過ごし、釈迦出現以後愈人心掃除準備時代となり、耶蘇昇天後はまな板の上の鯉の様な歴史を人類は過ごして来たのである。 疫病、宗教革命、産業革命、思想革命、世界戦争、天変地異等の現象は、丁度まな板の上で一尾の魚が裁かれていた様な事態であった。 魚の鱗と血や肝・骨等ですっかり汚れたまな板を洗うには綺麗な水が必要なのだが、肝心の水が汚水の影響を受けて汚染されてしまったので、いくらまな板を洗ってもあとからあとから悪臭は沸いて来る、陰干ししても気を抜くとすぐに黴が生えて来る。 こんな汚れた水を使っていては、せっかく丹精込めて容易した全ての素材の持ち味が生かしきれないので板長は気に入らず、この水に命を与えて活性化せねばならないと思い至った。 汚い水で洗濯を続けては何時まで経っても洗濯物は綺麗にならない。 何度も何度も汚水を流しては浄化して使い回して来たが、遂に肝心の水の疲労が激し過ぎて、浄化が間に合わなくなってしまったのである。 こんな老化した水では地球上の生態系は満たされない。 始めは海と空の汚れの結合した雨の影響で植物が異常を示し、次いで海や空の生き物達が減少し、人類の体質にもぼちぼち悪影響が現れて来た。 肉体が不完全ならば、その魂も不健全になって行くのは当然の事だったが、漸く心の浄化が進んで来て、多くの人間が危機的状況に気づき始めて来た。 水は我々の肉体の殆どを占める物質だが、空気、海、土の濾過層には、これまでの水垢や汚れが一杯に目詰まりしてしまい、遂に濾過能力が低下してしまったのだ。 大地にとって水は血液の様なものであるから、人間の血液が肉体の隅々に酸素を配給する様に、水は地球に酸素を配給する血液なのだ。 しかし、この水が老朽化して満足に酸素供給の役目を果たせなくなって来てしまったのだ。 従って地中、水中、空中の微生物達も健全な活動をする事が出来なくなるので、尚更水の老朽化が進行して行く。 自然システムが異常を来している以上、ここで人類が果たすべき使命はより明確になって来るのである。 科学的に水に酸素補給を施し、その活性化された水の供給によって、更なる老水の活性化を繁殖し、順次地中、空中、水中の微生物を活性化させて、地球の自然治癒能力を再生させる必要があるのである。 これが出来るのは人類の中の選ばれた人達以外にない。 水の洗礼で汚れ、老朽化した水に酸素を供給して洗礼する。 これは聖霊による洗礼を受けた者達が、これを繁殖する上で最初に手がけなければならない大事業である。 これを水火の洗礼というのである。 水が水である為には火と結合しなければならないが、水の元素は2H2Oである様に、二つの水素と四つの酸素の結合によって構成されている。 ここに不純物が多く含まれていると、酸素の泡を運ぶ事が困難になるのだ。 水の活性化は、地域と各家庭の歩み寄りにより地から昇天する形で為される必要がある。 水は流通機関である。 この水を汚れたままにしていてはいけない。 魚の乱獲の事を恐れるよりも海水の汚染浄化を考えた方策が現代最も要求される事である。 地球が水の星であるならば日本は水の国である。 それ故に世界の水を活性化させて、地球を救う使命を天与されているのである。 聖水は万物の母である。 |