
お知らせ
平成十一(西暦1999)年三月一日乃至九日 旧一月十四乃至二二日(月乃至翌週火)
筆者の都合により、上記の期間は休養を兼ねて日記の入力をお休みさせて頂きましたので、バックナンバーズも存在しません。 三月十日より日記入力再会しておりますので、御閲覧ご希望の方は画面をスクロールして下さい。 |
天才は忘れた頃にやって来る
平成十一(西暦1999)年三月十日 旧一月二三日(水)
愚歌裸神祭 雨が降る小雨の三月はまだ少々肌寒い。 自然の気まぐれの前では流石の人間も何時も受け身で対処せねばならない弱い立場である。 人間同士で誰が偉いの偉くないのと囀り合ったところで、日照りが続いたり、曇天が続いただけで農作物に変動が起きて景気が狂い、人間同士で目くじら立てていた連中も血相を変える事になる。 従ってこれにいち早く対処した者が利口者と呼ばれる様になるのは無理もないことである。 そう思えば自然が平安な時に人間同士が小競り合いをするのも、丁度家庭で両親の見守る中幼い兄弟達が玩具の取り合いをする様な他愛もない事に思えてくるのである。 「昭和の七福神」のビデオの中で弥勒の化身である布袋様が、子供達の相撲の行事をして喜んでいる場面があるけれど、神様から見たら地上で人類が起こす様々な問題は、丁度この場面の様に地球という土俵で人類が演じる相撲の様に見えるのであろう。 大地があって空があり、海があって雲があり、お日様、お月様、お星様がキラキラと輝いていて、喰う寝る所に住む所があり、着る物があり、仕事がらみで多くの人と交わり、男はいい女を見ればついニヤけ、女はいい男を見るとつい化粧に力が入る。 誰かさんが「みんなしあわせになれプロジェクト」の稿を閉じてから早一月、世の中は何だか締まりのない空気が漂い、それを後目に一度死んだ彼の男は、愚歌裸神祭の名を頂いて再生して来た。 相変わらずの脈絡のない文章は廃る事もなく、また時には人々に一時の喜怒哀楽を与える事になるのであろう。 以前のように日刊体勢でやるのか、気まぐれでやるのかは神のみぞ知るところであるが、そんな事は気にしてもつまらない。 とにかくまた何かが始まり、始まったからは何時かは終わる定めのこの世である。 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」 と阿波踊りでも踊りながら、今回もグウタラ且つ気まぐれに雑文新報を展開すれば、今まで三行半を突きつけられた駄目女房が訴える様に無責任だとか狼狽えていた連中や、もうアイディアがなくなったのだろうとお節介な心配をして下さった連中も少しは納得してくれるであろう。 ここのところ久しぶりに「ハリスの旋風」を読んでみたら、石田国松の気性に随分影響されていた自分を発見して驚いた。 こんな痛快な少年は昔も今も存在しないが、存在しないからこそ漫画の世界には、こんな奴がいたらさぞかし痛快だろうなという夢を現実逃避的に託す事が出来るのであろう。 考えてみたら宗教も政治も科学も哲学も、または芸術を含めた人類の全ての為せる業の原動力はこの 「偉大なる現実逃避」にある。 現実にどっぷり浸って納得している様では、新しい旋風が吹く事も無いのであろう。 人間は今迄の不快な現実から逃避する為に様々な智恵を働かして、これまで生き残って来たのである。 ヨガの聖者か木石の様にただじっとしていれば何の不安も感じずに済むかも知れないが、それでは人間に手足が付いて動ける様にしてある意味がない。 人間とは不安定で流動的な生き物である。 それは他の動物の様に本能だけでは生きていられない天性が既に証明している。 人間は不安や不満を失うとまるで努力に興味を失う生き物である。 「これでいいのだ」 と納得してしまうと物事に集中する執念が薄れてしまう。 執念がなければ人間は不可能を可能にする事が出来ないものである。 執念と執着心とは似て非なる物である。 執念がなければ執着心も消せるものではない。 幸に丸と書いて執と読む。 丸の字は九にヽをつけて十となる。 即ち「全き幸(○にゝで・ス)」という事だ。 |
解語呂詩
平成十一(西暦1999)年三月十日 旧一月二三日(水)
虞歌裸神斎 泣くに泣けない若山の 屍拾う手馬鹿莫迦し 朝から晩まで縛られて 僅かな金子に頭下げ 明日の食い扶持守る為 荒い命令敗這いと 文句も言わずに隷従し 日日毎日解語呂詩 俺にも少し甲斐性が あったならばと涙して 人に恨みはないけれど 安く叩いて人様を 食い物にして偉そうに 説教たれる仕事(六面八臂)の鬼を 退治てくれるか桃太郎 敵は誠の面被り 責任感で善人の 心を縛り解語呂詩 徹底的に人様の 時間を奪うこすい奴 誠、誠という奴に 誠を守る奴はない 惟神等と言いながら 神に逆らう魔言にて 智恵浅かりし善人を 食い扶持にする悪い奴 他人に鞭打ち本人は 上前はねて高笑い 俺がいなけりゃお前等 今の仕事も失って 路頭に忽ち食い倒れ 脅し好かして解語呂詩 金に恨みは無いけれど、金をどっちゃり貯める奴は細かい損得に気を配り、出す金は例え一円玉一枚でも減らそうという執着心の固まりである。 ところが金は女によく似ていて、そういう執着心の固まりの所で可愛がられるのを好む性質がある。 金は女と一緒で軽く扱うと離れて行ってしまうものである。 それから男は(女もそうだけど・・・)自分を安売りしては損である。 人がせっかく高値をつけてくれている時にまで自分を安く言うのが謙虚さである等と格好いい事を言っていると、世の中の見る目もそのまま安い値打ちになってしまう。 誰だって出す金は惜しみたいのが人情である。 そんな人情も弁えずに自分を安く言っておいて高値を出させようと思ってみても空回りするのがこの世の常である。 勿論イエス様も、 「天国では先の者が後になり、後の者が先になる。」 とか言ってみたり、新撰組の誰かさんの様に、 「伸びるほど頭を下げる稲穂かな」 等といって喜ぶのが武士道だったりするけれど、お金を扱う世界ではそんな理屈は屁の足しにもなりはしない。 誰が何と言おうと、 「俺の一時間は百万円の値打ちだ!」 くらいの大法螺を吹いても少しも恥じる所が無いという様な顔をしていても損はない。 それから先の交渉は相手の御予算と気っ風次第である。 「あんたにだったら大負けに負けて、一時間千円で動いてやる。」 とか、 「ただでやってやる。」 とか、 「一億円並べられてもお断りだ。」 とかいう選択をしたいものだ。 それでも世の中は恐いもので一寸油断すると、人一人の一生を僅か一ヶ月五十万円程度で買い取ろうという不届きな輩に騙されて、一生飼い殺しという憂き目に合わなければならないから余程注意しなければならない。 挙げ句の果てに、 「俺様が五十万円も恵んでやっているんだから偉そうに意見するんじゃないよ。」 という顔で、王様気取りになるんだから堪らない。 まあ、王様なんてものは国民から税金を集めるのが仕事みたいなもんだから、それに比べれば毎月社員に五十万円支給する社長は全然ましかも知れないが、だからと言って意見をするなと言われても、そんな乞食根性は捨てなければならない。 大体乞食という言葉だって元々は仏教から出た言葉で、僧侶が門前で有り難いお経を唱えているんだから、それに対して御礼を報わなければもったいないといって各家庭相応に僧侶に物を献上するのが本当で、その献上物に対していちいち御礼をする僧侶は僧侶の格を取り間違っているのである。 何にしても労働者が給料日の度に雇用者に頭を下げる様な世の中では面白くない。 世の中持ちつ持たれつである。また人間たるものそう簡単に人の為に働くものではない。 人間は基本的に自律した生き物である。 けれど元々資金の無い雇用者が相手ならその予算に応じて働いてやるのは労働者の自由だ。 |
甘い話しに御用心
平成十一(西暦1999)年三月十一日 旧一月二四日(木)
虞歌裸神斎 綺麗な物を見ると汚してやりたくなるのが悪というものだ。 ピン札を眺めて喜んでいる脇から手を出して、それをくしゃくしゃにして「へん」と言って笑っている奴がいる。 言いたい事は判るけど大人げないという物だ。 お札なんて物は使わなければ何の値打ちもない。 人の手から手へと渡り歩くうちに手垢が付いたり折り目がついて一人前だと言いたいのだろうけど、そんな説教をこれ見よがしにしてみせて得意になっている天狗様にはほとほと呆れてしまう。 などと周囲に同意を求める様な発言をしてみてもあまり面白くない。 人間の信念という物は恐ろしい物である。 信念が食い違えば親子だろうと親友だろうと敵味方に別れて雌雄を決するために殺し合う事さえ厭わない。 いくら口を酸っぱくして咽を枯らしながら、 「人類兄弟、皆家族だ!」 と叫んだところで、了見の狭い親方衆には通用しない。 まあ、それでもこれくらい目に見えて敵味方の判然とする関係なら好いが、世の中には甘い顔して近づいて来て、人を食い物にしてやろうという羊の皮を被った狼がたんといるから、余程気を付けて付き合わないと偉い目に遭ってしまう。 こんな言い方していたら、 「お前さんは言う事とやる事が矛盾しているじゃないか。」 とお叱りを受けそうだが、実際の話、人のやりたい事を押さえつけて、強引に何らかの力で従わせようとする奴は、たとえ神様の名前を持って近づいて来ようと、仏様の名前を持って近づいて来ようと、 「この無礼者め!さがりおろう!」 と叱咤するか、 「私はとんでもない愚か者で御座います。どうぞお構いない様に。」 と言ってだらしな〜くしているかして嫌われる様に振る舞っておくのも一つの手である。 まあ何にしても「食えない奴」と思われるか、 「奴は無用の長物だ」と相手にされない方が何かと都合が好い。 老荘ではないけれど、 「有用な木は伐られてしまうが、無用な木は伐られない。」 式の筆法だ。 「酢でも蒟蒻でもいかない奴」 と思われる事くらい楽な事はない。 金を持っていると思われては泥棒根性の連中の餌食になってしまう。 貧乏神くらいに思われている方が無上の富を独占出来るというものである。 物の怪を相手にする時は「饅頭恐い」式に、 「もう饅頭は勘弁してくれ」 と泣きを入れるくらいが都合がよろしい。 仕事の鬼を前にしたら、 「ああこの仕事は結構な極楽でございます。」 等とは言わないで、 「どうぞもうご勘弁下さい。」 と泣きを入れてやると丁度好い。 腹の中であかんべえをくれていてもそうそう判るものではない。 こんな事を言い出すと今度は早速、 「成る程奴の本音はそれかいな。」 と、今度は掌を返した様にこっちの裏を読んだつもりで敵さんも今までとは反対の事をして来るだろう。 だから、おいそれと口から出た言葉や、紙に書いた文字に踊らされるのがこの世の可愛い鬼共だと言いたくなってしまうのだ。 どっちにしても後手後手に回って権謀術数を巡らす事しか出来ないのが九分九厘の連中だ。 神様が誉めるものをわやくちゃにしてやろうというのが悪の性質なら、それを利用して悪を持って悪を制する事も簡単だ。 悪の炙り出しにもいろんなやり方がある。 利口が自慢の悪を得意にならせて自滅させるのは案外簡単である。 神様ともなれば悪の上行く悪どさで悪を自滅に追い込みもするだろうから、悪もうっかりしてられない。 なんと言っても神様の心次第で全てが結構という事になるのだから、人間心で如何に智恵を働かせても叶うものではない。 人間たるもの正義も悪もない。 先ずは法治国家の方針に従うのみだ。 触らぬ神に祟りなし。 深入りは禁物だ。 |
働かざる者お食べ下され
平成十一(西暦1999)年三月十二日 旧一月二五日(金)
虞歌裸神斎 人間皆オギャーと生まれた瞬間から、それは大変な働きをしているのである。 寿命の長短に関わらず、人間くらい生まれた時からよく働く生き物はいない。 人間が生きていると云う事は大変な御用である。 人目に見て何かしていようと、していなかろうと、これくらいよく働いている生き物はいない。 人間が生きているだけで世界は浄化されて行くのである。 老化、病気、犯罪、喧嘩、競争、勉強、遊技、etc.etc. 人間は死ぬ為に生まれて来る生き物である。 人間は死なねば本物にならない。 何故なら、人間は種だからである。 種は殻を破らなければ花を咲かす事は出来ないし、花は散らねば実を結ぶ事も、新たな種を増やす事も出来ない。 霊眼の開けていない者にはなかなか理解出来ないだろうけれども、人間一人に宿っている霊団たるや半端な霊能者が見る事の出来る様な少ないものではない。 一般の霊能者が見ている背後霊達はいわば氷山の一角である。 肉体一つが生まれて存在する事で、どれだけ多くの霊魂を救う事か。 それは天文学的数字でも記せない程ではないかと思う量である。 それだから、その肉体の御本尊を称して守護神と云うのである。 何を守護しているのかと云うと、その肉体に寄って来る全ての霊団を守護しているから守護神というのである。 守護神は神我である。 但し人間のまま守護神の本姿を現す事は出来ない。 何故ならそれは死を意味するからである。 本守護神になる為には肉体を捨てねばならない。 肉体を持っている間は正守護神と呼ばれる形で肉体を守護し、肉体に寄り集う霊団を守護するのである。 だから心の綺麗な穏和な人が、意外に最後に大病を抱える事があるのは、正守護神が使命を終えて本守護神に昇華するに際して、出来うる限り多くの霊魂を救おうという働きをしているからである。 大概の肉体はこの事に気付かないで、修行の苦しみに耐えている霊団の苦しみそのままの感情で最後を迎えるので非常に悲哀が伴うが、本守護神はどんどん霊団を浄化する働きをしているのである。 だから肉体は生きているだけで重要なのであるから、 「働かざる者喰うべからず」 等と云う愚かな諺に惑わされてはいけない。 等と云ったところで、 「世の中はそんなに甘くないんだよ。」 と御節介な御説教をなさろうとするお方には通用しないだろいうから、とりあえず空念仏のつもりで云っておこう。 現実主義者やニヒリスト達にとっては夢想家のたわごとにしか聞こえないであろうが、拙者の如き真理主義者からしたら、何も夢物語を話しているわけではないので、 「知らぬが花よ。強がり給え。」 という言葉しかない。 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。」 ではないけれど、人間というものは何処でどうしていようと無駄のない様に神様がこさえてあるのである。 こればっかりはこの虞歌裸神斎、これっぽっちもごまかすわけにはいかないのだからどうしようもない。 お釈迦さんも仰っていたけれどこの世とあの世は逆様である。 この世の人が働いていると思っている仕事は、あの世から見たら実は大した仕事ではない。 だから老婆心で教えてあげているのだが、この世には働いていない者など一人もいないのだから、あんまり偉そうに、 「働かざる者喰うべからず」 なんて云っていてはあの世に行ったら恥かくからおよしなさいよ、というのである。 「働かざる者お食べ下され。」 くらいの心が備わる様なら、あの世に行っても恥をかく事はない。 と云っても了見の狭い、頭の固い、苦労に呑まれている様な並の苦労人には判るまいから、あんまりくどくど云わない様にして云っておこう。 人間は黙っていてもムード・メーカーになる位でないと本物ではない。 |
タコマ山
平成十一(西暦1999)年三月十三日 旧一月二六日(土)
虞歌裸神斎 今月号の「ムー」総力特集は「シリウス」なる秘密結社についての内容が記されていた。 怪しい話が大好きな虞歌裸神斎は凝りもせず読みふけっていた。 「シリウス」は現代天文学では、 「シリウスa・シリウスb」 の双子星であるそうだが、この星は大犬座の星で、何でもシュメールの頃から信仰の対象になっている星だそうである。 シリウスは太陽信仰のルーツとなっている星で、初夏の七十日間は天宮から姿を消すそうである。 この消えている機関が「死」を象徴し、七十日目に再び姿を現す時は「再生」を象徴するのだそうで、この七十日目には太古は盛大な祭典を催したのだそうだ。 「虞歌裸神斎」は「みんなしあわせになれプロジェクト」の再生として十八日の沈黙を守って新たに始まった企画であるけれど、最近巷でも再生ネタのニュースが賑わしいのも、神様が何やらお考えがあっての事なのだろう。 現代の「シリウス信仰」の総本山は「ムー」によると、アメリカ合衆国カリフォルニア州にあるパロマー山天文台という事なのだが、神斎はこれを読んで急に「霊界物語」に登場する「タコマ山」の事を思い出してしまった。 例によって言霊学上父音(文法上は母音)の同じ言葉は通じ合うという見解から、タコマとパロマーに共通するアオアの父音から、このシリウスについて霊界物語に記されているのは、この「タコマ山」の節ではないかと直感したので、早速霊界物語第二・第三巻を引っぱり出して拝読してみた。 やはり案の定、霊界物語にはタコマ山の二個の国魂石によって象徴的に「双子星シリウス」を信仰する総本山「パロマー天文台」を示唆する内容と思われる暗号を読み取る事が出来た。 霊界物語があれば大概の事は説明がついてしまう。 現在タコマはタコマ・シティとしてアメリカ合衆国ワシントン州に存在する。 この丁度南隣の州が「パロマー山天文台」の存在するカリフォルニア州である。 「シリウス」という秘密結社の活動については「ムー」を読んで頂くとして、霊界物語ではタコマ山の国魂石が二つになった途端に、世の中で異変が多発して混乱状態になる様子が描かれている。 神様はこの問題を責める事はせず、タコマ山の二つの国魂石を境に常世国(北エビロス・北アメリカ)大陸を南北に分けて納めさせることに為された。現代では北アメリカは米合衆国とカナダ合衆国に二代分割されているが、その国境近くに存在するのが、ワシントン州のタコマ・シティである。 タコマ山とパロマー山に因縁があるとすれば、丁度カリフォルニア州が英語圏とラテン語圏のメキシコとの国境に当たる事からも、この地域が霊界物語に記された内容と浅からぬ因縁のある土地である事を読み取る事が出来る。 尤もこの推測も「ムー」に記された内容が事実に基づくものであるという条件の上に成立する事なので、現時点では仮説の域を出ない。 ただ神斎としては長年の経験に基づく直感から、この推測に少なからず自信を持つ事が出来るのだ。 そして霊界物語に記されている内容を優先する以上、この「シリウス信仰」を否定する事は出来ない。 南北に二分した上で一時の平安を招来して、その後天意による大審判を仰ぐ必要があるであろう。 この南北問題は、地球にとって非常に大きな意味があるものらしい。 嘗て米国での南北戦争が奴隷問題を解決した様に、朝鮮半島の南北問題も専制政治終結の分岐点となるのかも知れない。 そして北半球文化圏と南半球文化圏の問題も、どうやらこのタコマ山の二つの国魂石の問題と相応する問題となるのであろう。 南北戦争では北に軍配が上がった。 朝鮮半島では南に軍配が上がってほしいものだ。 南北半球問題では南の自然を守る事が重要だ。 |
虞歌裸神斎
平成十一(西暦1999)年三月十四日 旧一月二七日(日)
虞歌裸神斎 四年前私は日海サービスという人材派遣会社に所属してO○Cという会社の横浜工場に勤務していた。 ここでの私の仕事はクリーンルーム内での高圧ヘリウムガスによる海底ケーブルブースター匡体の気密テストだった。 社員達は実験中の事故を経験していた為と、先任の派遣者が半ばノイローゼの様になって辞任したせいでこの仕事を非常に嫌っていた。 お陰でリストラたけなわの当時に、私の様な派遣者が仕事にありつけたのであるが、とにかくそんな事情があって社員達からの待遇の好さたるや今思い出しても特別であった。 気密試験の仕事は時間がかかる為昼夜兼行で二十四時間に二体のペースで行われていたので、昼勤時は社員が気遣って暇さえあれば様子伺いに来てくれるが、夜勤時は我々検査班以外は工場にいないので、テスト中机に座って六時間近く監視していなければならない孤独な仕事である。 先任者はどうやらそれが耐えられなかったらしく、止める一寸前には、 「女の声が聞こえる。」 とか言っていたらしい。 ところがそういう話を聞くと無性に楽しくなる吾輩は、 「ようしそんな声がする様なら一丁話しかけて友達になってやろう。」 と嘯きながら腹の中では、 「な〜に、そんな奴いやしないさ。 先任者は止める理由が欲しくてそんな事を言っていたに違いない。」 と、てんで気にもかけず、自前のワープロを持ち込んで「天国建設」という研究レポートをせっせと作成していた。 案の定霊現象は起きなかったが社員達は相変わらず心配していたので、こっちも意地になり、わざと一日中一人で試験室にいりびたり、クリーンルーム用の廃物用紙を利用したメモを束ねて短編小説を書き始めた。 その中の一つに「今孔子雲斎」という作品があって、その中で「もののけ」についてたっぷりと書いておいた。 休憩時間等や退勤時には机に起きっぱなしにしておいたので、社員達がよく盗み読みしていたらしい。 私が試験室に戻ってくるとみんなが偉く感心した顔をして小説の内容に関係のある話しをもちかけて来たりした。 この小説の中で主人公の今孔子雲斎が和歌の師匠の「能天気楽」と過ごす時に名乗る称号が「愚歌裸神才」であったのだが、私はこの名前が気に入っていたので、今回、画数を見直して「虞歌裸神斎」に改めて自分で使う事にしたのだ。 ところでこの「虞歌裸神斎」を名乗る様になってから、当の本人は妙に細々と働く様になった。 今日も昼から一年ぶりくらいに部屋の掃除をしてしまった。 片づいてから見回すと自分の部屋がこんなに広かったのかといたく感心したのだが、何のことはない、今まで足の踏み場もないほどさんざん部屋を散らかしていたのは殆どが本や雑誌で、それを整理したらものの見事に片づいてしまったので、 「ああこれならもっと早く一念発起して部屋の整理をすれば好かったなあ。」 とつくづく思ったのである。 願わくはこれからは毎日少しずつ掃除をして、今よりもっと整理していきたいものだが、私はやる前に宣言すると大概挫折するので誓わない様にしておこう。 新約聖書にもあるけれどイエス様はこう仰る。 「汝天に向かって誓うなかれ。」 イエス様も誓いを果たす事の難しさを好く知っていたのであろう。 特に神事に生きる人程法難を受け易いから、無闇に約束をする事を嫌う物である。 下手な約束をすると必ず悪魔の妨害によって邪魔をされるから、こういう体験を修業時代に嫌と言うほど味わって来たであろうイエス様はその教えの中で、 「汝天に向かって誓うなかれ。」 と仰ったのであろう。 私には痛いほどよく判る。 この世では普段はぐうたらに構え、さもやる気なさそうにしておいて、邪魔の入らない時を見計らい全精力を発揮して一気にやってしまうのが一番好いのだ。 |
裸の大地
平成十一(西暦1999)年三月十五日 旧一月二八日(月)
虞歌裸神斎 大地には風が吹く。 風が吹けば木々が揺れ、岩肌を叩き自然の音楽が醸し出される。 穏やかな風はさわさわと木々を鳴らし、心地よい一時をもたらす。 強い風はゴーゴーと唸り、少なからず不安な気持ちを呼び起こす。 当に今宵の横浜の様に……。 この季節の強風を「春一番」等と呼んで、我が国では季節の風物詩として親しんで来た。 今日の夕方、季節外れの雷が鳴った。 何故季節外れかと云えば、雷は普通梅雨明けの合図で、初夏の現象と云う固定概念があるからなのだが、我が国の様に地理的にも四季のハッキリとした国土で育つと、やはり春直前の雷というのは、何か今後の自然環境の異変を警戒せねばならない警鐘の様な気になるのは、現代文明社会に於いて時代錯誤的感覚を持ち続ける神斎の思い過ごしなのかも知れないが、昔から季節外れの自然現象の後には時代の流れを変える様な事件が勃発したものである。 こんな事は何も神斎でなくとも多くの識者達が昔から訴え続けた事でもある。 全人類が惟神の道に生きる境地にいるならば、そんな取り越し苦労はやめなさいという事になるのだが、いかんせん惟神の道に生きるのは世界人口的には少数派という事になるので、惟神の道の浸透していない社会に対してはあれこれ警鐘を発しておかなければならない辛い立場にあるのが御使いというものだ。 何事も備えあれば憂いなしという。 散々心配しておいて何事もなかったのなら、それはそれで好かったという事にして頂きたいものだが、世の中 「狼が来たぞ。」 ではないけれど、法螺ばかり吹いていると肝心の時に痛い目に遭わなければならなくなるので、あまり警鐘をならすのも問題なのだ。 あちらを立てればこちらが立たず。 これなら御使い等にはならない方がましである。 義人ノアの様に一家で黙々と方舟を建造して、選ばれた種だけを後世に残すというやり方しかなくなってしまうのかも知れない。 少々悲観的な話しになってしまったが神に斎かぬ時代に対しては、これ以上の表現方法がない。 朝夕神に斎き、余暇は虞歌裸に過ごしていられる惟神の道を、誰もが快く受け入れてくれるなら、こんな言い訳じみた事を並べなくても好いのだが仕方がない。 神に斎かぬ人々の世界は、まるで草木一本無い裸の大地で、体中の毛を剃り落として丸裸で立たされる人間の様だ。 それこそ不毛だ。 風に吹かれて飛んで来る砂や石のつぶてから身を守ってくれる服も無く体毛も無いのでは、体中は傷だらけになるばかりか、つぶてが頭や心臓等の急所に命中すれば命を失う事にもなりかねない。 太古この世の楽園と讃えられたエデンの園にいたアダムとエバでさえ、頭髪や体毛で急所は守られていた。 乳房というクッションが無い男性に胸毛が生える事が多いのも、心臓のある急所を守る為だ。 脳、眼、気管、心臓、脇、腕、股間、足等の外傷に弱い部分には、外交的な男性の場合多く毛が生える。 すね毛が濃いのも茨等から守る為だし、鼻毛があるのも空気中の不純物を濾過する為だ。 神様は創造の始めから、大自然の中の危険に対する用意を人間に施して下されていた。 それにも増して情け深い神様は、約束を破って楽園から追い出す彼等に毛皮の衣を与えもした。 神から離れた自然は肉体にとっては決して安全な環境ではない。 我が家も越して来た当初は裏山の木々に守られて少々の嵐くらいでは騒がなかったが、最近裏山も宅地造成の手が伸びて来て裸に剥かれつつある。 生命の発する様々な邪気を浄化してくれていた木々がなくなると、大地の磁気が歪んで正負のイオンのバランスが狂う。 季節外れの雷を招いたのは人工的に日々裸にされつつある大地の悲鳴の様に聞こえるのだ。 |