新陳代謝

    
平成十一(西暦1999)年四月一日 旧二月十五日(木)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 去年の八月に電話外線工事のアルバイトを止めて以来、待つだけ待ってもらった家賃を一月分、昨日漸く大家さんに納めて来た。
よく今まで待ってくれたものだと感謝感激他に浮かぶ言葉もないが、私の部屋を占拠していたバブリーな奴等は、七ヶ月の間に殆ど姿を消した。
今は私の骨肉となり血となって、こうして御神業の糧となってくれているのだが、こういう事を世間では苦労というらしい。
 けれど肥満しきった体をシェイプ・アップしようと思えば、運動したりサウナに入ったりして体内の水油を絞り出さねばならない様に、身分不相応なバブリー・グッズは丁度生活上の肥満物質という事が出来るのだろう。
 サウナ等に入って無理矢理水分を搾り取ると、かえって吸収力が高まって少しの飲食で余計に肥満化するという逆効果を産む事もあるが、ゆっくり時間をかけて無理なく成功した減量にはそういう事は少ない。
勿論、減量に成功してもその後の生活が無配慮ならば、バウンディング作用で以前よりひどい肥満を誘発する事もあるから全く油断大敵である。
 肥満というのは個人の怠惰の象徴であるけれども、人間は精霊の貧富が体型に現れて来るので、体格がガッチリしていたり、豊満である事は精霊が好く成長している証明なので喜ぶべき事なのだが、何分御時世は軽量で細身である事が美形の条件となっているから、だらしのないブヨブヨの体型をしているわけにはいかない…。
筈なのだがお相撲さんやデブ・タレントはどういう訳か人気が高い。
 スマートで美形である事は見栄を張る世界では重宝がられるが、昔から、
「色男金と力はなかりけり」
とか言われる様に過剰スマートは貧相という事になり易い。
それに、あまり美形過ぎると婚期が遅れたり、失う事が多い。
だらしのないデブではいけないが、やはり人も家も、ある程度は太っていないと肝心の時に力を発揮出来ないものだ。
減量も骨が浮かび上がる程のガリガリの減量をしてしまうと、考え方も陰に隠りやすくなり、好きな物を無理に食べない生活は包容力のない性格を造り易い。
しかし人間は毎日汗をかかないと健康に対して宜しくない様に出来ている。
その上上品ぶったり大人ぶってトイレに行くのを我慢ばかりしていると、余計新陳代謝が悪くなって体内に老廃物質が蓄積され、結局は後で大きな調整をしなければならない事になる。
つまり入院とか事故という様な急激で過大な新陳代謝を体や家が要求するのだ。
そう云うことになったら、もう誰が側でいろいろ親切な助言をしてくれてもどうなるものでもない。
大きなツケが回って来たら、それにキッチリ型をつける為にひどく難儀な思いをしなければならない事になるだろう。
でもこればかりは誰にもどうにも出来ない。ただ新陳代謝が成されるまで、じっと孤独に耐え続けるのみである。
 温故知新と云うけれども、やはり古くなり過ぎて現在の自分に不相応なものは自分よりレベルの低い後輩に譲り渡すか、下取り処分してもっとレベルの高いものに代替えするかした方が進展主義としては正しい事であろう。
成長したので不用になった物は、迅速な行動を必要とする立場にはかえって邪魔なものである。
赤ちゃんのオシメやおしゃぶりを小学校に入学しても使用している様では何かと問題だし、補助輪付きの自転車のままでは何かと動きづらい。
楽器なども本当に多彩に歌わせようと思えば、飾りの様な機材に頼らず慣れた少数の楽器を丁寧に使い続ける方が好い場合が多い。
器用貧乏であるよりは一つを極めて大成してから幅を広げた方が好い筈だ。
狭き門から入って広い天国に至るという事はそういう事だと思う。
小さな誠が膨らむのだ。


追っても逃げても

    
平成十一(西暦1999)年四月二日 旧二月十六日(金)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 誠の神様というのは奥が深い。
誠の神様に従っても逆らっても、結局は誠の神様の思惑通りに事を運ばされてしまっている事になる。
そう思うと躍起になって他人を改心させようとか、救いたい等と云う事には興味が無くなってしまう。
別に特別に力まなくても、助けなければならない人は自然に助けてしまうし、改心する人は自然に改心してしまう。
その逆に助けてはいけない人は、どんなに助けてやろうとしても助けられないし、改心してはいけない人間はどんなに真心込めて接しても改心などしてくれない。
 けれどもそれで嘆いたり、自分の至らなさを責めたりする必要はないのである。
何故なら誠の神様に逆らわなければならない人は、経綸上大事な役割があって逆らわされているのである。
また助けられない人も同様の理由で助けられない様になっているのだ。
 どんなに素晴らしく、崇高で奥深い教えがそこにあっても、それを受け取る準備の出来ていない人は、誰がどんな風にその教えを奨めても、その教えを正しく受け取る事は出来ないものだ。
このタイミングは一人一人皆全く違う。誰一人として同じ者はいない。
 それで「神も時節にはかなわぬぞよ。」というのであろう。
神様にしてそうなのだ。
 例え世界一の人材が現れて試行錯誤を繰り返したとしても、時を迎えていない相手を変える事など不可能なのである。
表面帰順を装っていても腹の底からの帰順は他人がさせるものではないのだ。
本人自らが誰の命令や忠告に依らずに帰順するのでない限り、本音と建て前はなくなりはしない。
 では何故私はこの様な事をいちいち書き表すのかというと、こうして書き表す事で様々な善悪想念を自分の中から掃き出してしまう為なのである。
 人間は好い思いも悪い思いも心の中に募らせていてはいけない。
そうすると絶対に自らを滅ぼす事になるのである。
だから様々な手段を駆使してこれを外部に発散して心の中の掃除をしてしまうのだ。
こんな事を言うと無責任な奴だと思う人もいるだろうが、一度書面にしてしまった思いは、再度読み直す内に他人の思いに変わってしまうのだ。
そして完全に自分の外に出た時、それが将来の夢だったのなら、ぼんやりとした夢ではなく、明確な目標に昇華して行くのだ。
 自分の中の願いを一度外に捨ててしまう為には、その願いをハッキリ言葉にして声に出すか、またはこの様に書面に書き連ねて自分の願いの可能性を冷静に見直す必要がある。
夢や願いに酔っているうちは、それはたんなる自己陶酔で終わってしまうのだ。
 願望というものはそれが強ければ強いほど一度書面にして自分の中から掃き出してしまう方が好い。
そうして全て詳細に書き尽くしたら、今度はそれを忘れてしまうのだ。
そうする事でその願いが時間をかけてゆっくりと芽を吹き、葉を茂らせ、花実をつける様になってゆくのである。
 だから他人様を本当に改心させようと思ったら、改心させようとする事をやめる方が好い。
他人を本当に助けたいなら、助けようとして身構える事をやめる事だ。
そうすると周囲の状況が彼を改心へと導き始め、自分の体が彼を助ける為にひとりでに危険をも顧みず行動を起こす事になるのである。
 本当の願いや夢は、いくら捨てたって必ず実現しようとして動き始めるものである。
自分の頭や体に固執して必至に力んで考えれば考える程ドツボにはまるものだ。
丁度現代の世界の様に、無理に世界に和平をもたらそうとすればする程空回りし、景気回復を叫ぶ程行き詰まる様に。
時を待つのだ。


よっこいしょ

    
平成十一(西暦1999)年四月三日 旧二月十七日(土)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 春のくせにまだ寒い。
それとも睡眠不足のせいで俺だけ寒いのか。
う〜ん、風邪でもひいたかな……。
夏風邪は馬鹿と言うけれど、春の風邪も間が抜けているなあ……。
えっ?「間が抜ける」というのは「魔抜け」という事で験が好い?
ああ……、そう言えばそうね。
風邪と言えば竜馬大先生が暗殺された時も、大政奉還を成し遂げて油断したせいか、風邪をひいていたんだったっけ。こりゃあ気をつけねばいかんぜよ。
神様が「勝って兜の緒を締めよ。」とお示し下さっているのだろう。
そう言えば維新の火付け役といわれた清河平八郎も風邪をひいている時に、路上で声をかかえられて斬られたんだっけ……。
風邪は万病の素と言うけれど、こうなると風邪は暗殺の危険信号みたいなもんだなあ。
桑原桑原。
 新年度を迎え、入学式や入社式を控えて一安心して気が緩んだ頃に魔の差し始める兆しとして風邪をひくんじゃったら、これは十分に気をつけねばならんぜよ。
ととと……中途半端な竜馬訛りじゃ……いけん、いけん、あしゃあ竜馬じゃないきに……。
 横浜生まれの横浜育ちじゃんか。
えっ、春の大会で横浜高校が負けたって?そりゃあ、しょうがないよ。
松坂がいないんじゃ……。
高校生離れした選手だったからなあ。
でも、やっぱりプロは凄いね。
あの松坂が鍛えられてるよ。
まあ、そんなの当たり前だあね。
ありゅあ、こんだあ江戸弁になっちまったい。
 今年ゃ横浜もダークホースってえわけにゃあいかねえぜ。
一花咲かした後が肝心さあね。
何たって、リーグ全体にマークされる身分になっちまったんだからたまったもんじゃあねえやねえ。
ま、おいらも浜っ子だが、今年ゃ巨人が上っ調子みてぇだなあ。
横浜育ちってえのはどうも遠慮深ぇから、一片でも優勝しちまうと次もまた勝ってやろうってぇ執念が薄れっちまうあっさりした気性なもんだから、まあ、結局楽しく野球をやる方を選んじまうんだろうなあ。
そこへ行くと江戸っ子ってぇのは人一倍見栄っ張りで負けず嫌ぇだから、横浜に一本取られたのが悔しくて悔しくて夜も眠れねぇって気になって、横浜を目の仇みてぇにして勝っちまうんだろうなあ。,br> 横浜育ちはそういうの苦手なんだよねぇ・・心底。
 おいらも去年は「横浜が優勝しなければいけない」なんて書いちまったが、元来がON時代の巨人の大ファンだったわけだから巨人が優勝したって悔しくとも何ともないんだからねえ。
無理にでも「横浜優勝!」なんて叫ぶ様な強烈な地元贔屓でもないからなあ。
 まあ松坂選手も多くのファンに愛され見守られながら、少なくとも三年くらいはプロとしてみっちり鍛え上げられなければ大リーグをびびらせる程の大選手にはなれないなあ。
でもきっと五年後にはワールド・リーグで大リーガーを総なめにする様な大投手になっちまうんだろうねえ。
あんまり焦っちゃいけないよねぇ。
あ、いっけねえ、おいら野球は専門じゃなかった。
知ったか振りばかりしてっとまたプロの皆さんに嫌われちまわあ。
 何たって去年、横浜が健闘しちまったせいで全国のレベルと志気が急激に上昇しちまったから、こういう条件下で去年同様の結果を出すのはプロだってかなりきついのは間違いない。
横浜が弱いんじゃなくて、他が強くなって来るんだから、横浜を責めようにも責めようがねぇやね。
参った、参った。しかし何だね、こうやって見るとつくづく横浜ってえのは煮詰まった時代に喝を入れる為にある街なんだねえ。
明治維新の前後も横浜は、随分日本の国際化の為に働いたみてぇだしなあ。
でもこう世の中に気合いが入って来たんじゃ横浜はまた慎ましく陰に隠れちまうんだろうねえ。
メシアなんてもんはそんなもんだな。


一途なのが男

    
平成十一(西暦1999)年四月四日 旧二月十八日(日)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 「これと決めたらまっしぐら。他の事には脇目もふらずに突き進むのが男ってもんよ。」
そういう風に育てられて来たのが俺っち昭和のテレビっ子だ。
星飛雄馬や矢吹ジョーを見ながら育った子供だから、たとえ惚れた女が目の前にいても、選んだ道に命を賭ける。
そんな風に心が動いちまう様になっちまってるんだなあ、これが。
梶原一輝の思想にもろに影響受けちまってるんだねえ。
そういえばあの人も蠍座(実はこの日記を書いた五年後、氏は乙女座である事が判明したのだが、この時は以前読んだ星占いの本に紹介されていた事をそのまま信じていたので、以下訂正せずにそのまま掲載します。)だったらしいけど、中途半端に物事に惚れるって事が出来ないんだね。
 漫画漫画というけれど「たかが漫画、されど漫画」でね。
つまらない事をいうまわりのこちこち頭連中よりも、よっぽどツボにはまった教訓を与えてくれるんだな、骨のある漫画ならね。
漫画だってペーソスもあるけれど、男が男らしく生きる事だとか、女が女らしくする事を明快に見せてくれる素敵な世界もあるんだな。
日本の映画やドラマみたいに妙に文学臭くて人生の皮肉や人間の矛盾ばかりを描いていたんじゃ子供達は喜ばないからね。
 大体漫画家なんてものは理想主義者で夢ばかり追いかけるロマンチストなんだし、子供相手に夢を売るプロなんだから、大人を満足させる様な矛盾を描いていたんじゃ仕事にならない。
また、そうじゃなきゃわざわざお金を出してまで漫画を読みたいとも思わない。
 「三つ子の魂百まで」というくらいだから何だかんだ言っても結局、子供心に花咲いた漫画の主人公達を格好いいと思う心は、そのまま自分の理想像となり目標となって一生を支配する事にもなる。
結局それはないものねだりにも繋がるんだろうけど、そういう中で同じ漫画を読んで来た連中とはどういうわけだかすぐに意気投合してしまう愉快さがある。
これは男女の差別がない。
そんなわけで普通で物事に熱中しない、ノリの悪い女の子や野郎共とは一緒にいてもどうしてもつまらない。
漫画心のない連中は誠実で立派だけれども、どう譲っても面白くない。
マニアックだとかお宅っぽいなんて言われても、こればかりはどうしょうもない。
だから、もし、たった今東京あたりの高級地で就職なんかさせられたら、俺は間違いなくすぐに気が狂っちまうだろうな。
これは誰のせいでもないね。
もう、この年になっちまったら変えようにも変えられるもんでもないしね。
社会に適応出来ない出来損ないとか、かたわ者だとか嘲笑されても、どうにもならないね、こればかりは。
 世の中が嫌いなんじゃない。
まるで言葉の違う外国にいるみたいな感覚なんだよね。
だから同じ漫画を読んで来た連中とは、まるで外国で同国人に出会ったみたいな安らぎがわいちまうんだ。
こういう体験した事ある人結構多いでしょう。
それで今度はそういう仲間が集まると、またその中で更に通じ合う者同志だけが集まっちまう。
人数もどんどん少なくなる。無二の親友も恋女房とも共有出来ない心の世界がある事に気がついて、どうしようもない孤独感に襲われている時に神様に出会ってご覧なさいよ。
これが惚れずにいられますかっての。
本当に自分の全てを知り尽くしてくれている自分以外の唯一の存在。
それが神様なんだから、捨てろって言われても捨てられないよ。
世の中にいたって退屈で淋しいだけだもの。
マスコミでアンナに愛だ恋だ好きだなんてお熱を見せつけてくれていたお嬢さんが、男が金にだらしないのを理由に掌を返す様にポイと切り替えられる世の中だもの。
危なっかしくて女に惚れる気にもなれないよね。
昔好きになってくれた娘さんでも何時心変わりするか判らないものね。
それなら夢を見させたまま去って行く方がその娘も一生綺麗な夢だけ見ていられる。
誘えないよ、血身泥でボロボロの一途な男の世界には。

(後日談:
 間違えて思い込むのも、その時、その時で惟神であるから、その時の自分自身の行動原理になっていればいいわけだから、あんまり気にしない事。
占いもゲームだからね^0^当たるも八卦、当たらぬも八卦。
こういうカルマ的な実体の無い法則性を超越するのが誠の神の道!
……てなことで、アシカラズ。
以降宜しく御閲覧のこと、御願い奉ります〜
……それにしても正式に後悔する前に誤りが判明していて好かったわい^0^
神様!感謝、感謝。……ですな!)


神様の邪魔をしない

    
平成十一(西暦1999)年四月五日 旧二月十九日(月)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 神様の御計画通りの地上天国を現出させたいなら、まな板の上の鯉の様に徹底的に無抵抗になる事だ。
ただこの例えだと、
「冗談じゃねえや。鯉みたいに好い様に料理されてお食事にされてたまるか。」
と言って逆らい始める人も出て来るだろうから、もう少し言い方を変えると、
「神様のお手伝いをしたいと思ったら、神様のお手伝いをしたがらない事だ。」
という事になるのかもしれない。
 素人や新人の早とちりくらい神様の邪魔になるものはないから、神様が世界を地上天国にしようとしていると判ったら、もう神様に任せきって余計なお手伝いをしない事である。
そういう風に気を長くしていると、ちゃんと静かに平安に神様のお仕事をさせられる人がその場その時毎に決まって来るから、変に力んで神様の段取りを引っかき回さない様にする事である。
勿論、神様の邪魔になる早とちり達を引っかき回して牽制するお役もあるから一概にどうこうとは言えないのだけれども、とにかく御用に対して無頓着でいるくらいで丁度好いのである。
そうすると自分の小さな脳味噌では見間違える事も神様の采配でトントン拍子で運ぶ様になるのである。
出来ない仕事は出来ない方が好いのだし、会えない人には会えない方が好いのである。
買えない物は買えない方が好いのだし、喧嘩別れする人とは喧嘩別れした方が好いのである。
人間の方で小さな我を出して完全主義的に妙に踏ん張っていると、上手く行く事が上手く行かなくなる事もあるのだ。
 肝の小さい利口者はこういう事が耐えられない。
常に鼻息を荒くして、何か叫んでいないと心細くて仕方がないのだ。
そういう時は神様の方も「しょうがない奴め」式に病気にさせたり、事故に遭わせたりして大人しくさせたりもするものである。
だから、この世の為、世界の平和の為、地球の未来の為等と、妙に背伸びばかりをして気炎を吐くよりも、のんびりと構えて出来てしまう事に委せる位で丁度好い事も結構あるのである。
出来る時には一気に片づける。
こつこつやれる時にはこつこつやる。
別に誰かの見本になる必要もない。
ただ神様に世界の全てを委せきって、ひたすら自己を全うする事。
人との関わりというものはその中での一場面でしかない。
と同時にまた一期一会式に、小さな出会いを大切にしながら、それに振り回されずに自己に与えられた様々な機会を楽しみ続ける事である。
例えどんなに立派で大きな働きをしたとしても、それは全て神様がした事であり、自分とは無関係の事と思えるくらいが丁度好いのだ。自分ではただ普通の人間として色々と気苦労したり、楽しみを見つけたりなどして、当たり前に生きていればそれで好いのである。
人の真似はどうしたって出来るものではないから、人を簡単に見本にする事もやめた方が好い。
……のだけれども、人はなかなかそう自分に自信を持てる生き物でもないから、誰か憧れのヒーローがいるなら、それを真似して生きる時期も必要といえば必要であるから、これもまた否定できない。
 要するに他人をどうこう言っても始まらないし、世の中に意見しても自分の時間がなくなっては始まらない。
お国の事や外国の事など所詮外野が何を言っても結局は当事者の決断によるのだから余計なお世話である。
 各自が胸に手を当てて、真剣に神様に問うてみれば好い。
何も答えてくれなければ、信ずるままにやるよりないだろう。
誰か相談出来る相手がいるなら相談すれば好いだろう。
でも結局は自分で決める事である。
伊藤博文だって高島易断に、
「朝鮮に行けば殺されるからやめておけ。」
と警告されたのに、 と自決したのだから……。


無線リモコン時代

    
平成十一(西暦1999)年四月六日 旧二月二十日(火)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 公衆電話、家庭用電話、携帯電話、インターネット、携帯テレビ電話、世の中に氾濫する電波、電磁波が少なからず人体の神経系統等に影響を及ぼし、また精密機械等の誤作動を併発する事が近頃問題になっている様だが、腕時計型の携帯映像電話が出てくるといよいよ一つの時代が終わる事を覚悟しなければならないらしい。
果たしてそれ迄私は生きているのだろうか。
 二十一世紀には早くも携帯映像電話は登場する計画が進行中であるというから、その時が楽しみである。
夢の霊界電話とか霊界テレビなんて話を前にもした事があるけれど、人間の体は本当はそういう機械に頼らなくても、霊界の先輩達と交流をはかる事が出来るものなのだが、いかんせん人間はそういう部分が退化してしまい、交流回路が麻痺してしまいやたらと争いを起こすようになってしまった。
 昔「鉄人28号」というコミックがあったけど、あのアニメ・ソングでも歌っていたが、
「敵に渡すな大事なリモコン」
とか、
「いいも悪いもリモコン次第」
という様に、リモコン即ち無線装置はそれを使う人間の心次第で善にも悪にも転ぶものである。
 若い頃、武術に熱中していた頃は所謂「殺人術」なるものを熱心に研究したものである。
そのお陰で、人間という生き物が如何にか弱い物であるかを学んだので、今度は神様を通して人と争わない方法を徹底的に学ぶ事になったのだ。
身の回りにある物はその気になれば何でも殺人兵器になる。
武器一つ無い様な状態でもシャツ一枚脱げばそれが充分殺人兵器に変わるものだ。
けれど、それもシャツを武器にしようと思えばという事で、普通一般的にはシャツは暑さや寒さから身を守る為や、異性の目を引き付ける為のファッションとして使うのが常識である。
大概の人達はそれをいざという時の為の武器にしようなどとは思わない。
こういう発想はこの世の人間が皆敵であるという迷いから生まれるものである。
けれど嘆かわしい事に世の中には、こういう迷いに深く陥っている民族や国家が少なからず現存している。
 前にもキング・ダビデの稿で神の祝福が闘いの勝敗を左右すると書いたが、もう一つ大事な事がある。
それはダビデの闘いは神様が命じた闘いだったから不敗であったのであり、ダビデが神様にどうかこの戦に勝たせて下さいと拝み倒して得た勝利ではない。
あくまでも神様の代理としてダビデがイスラエルの軍勢の先頭に立っただけである。
 ここを勘違いしてイエスの十字架後にユダヤ人達が神の祝福も受けずにユダヤ人の意志でローマ軍に闘いを挑んで惨敗したわけであるが、日本でも過去、東条英機率いる日本軍が神の命令に従うのではなく、日本人の神聖ばかりを信じて戦火に臨み無惨な敗退を喫した事は、まだ決して記憶に古い事ではないであろう。
 例えば横浜が去年スポーツ当たり年だったのも、カリスマをあてにせずに実直に戦い続けた結果だったわけで、何も神様が命じて勝利を得たわけではない。
それがいつの間にか、横浜の活躍を神の御加護と結びつけ過ぎて、またそれをあてにし過ぎた結果、肝心の練習が疎かになったのでは勝てる試合も勝てないのも当然であろう。
 私だって一週間もギターを弾かずにいると指の筋肉がすっかり鈍ってしまうのだ。
神様がそう簡単に勝負事の後ろ盾になるわけがない。
勝負は何処までもフェア・プレイの精神、五分五分の勝率でやり合うのが筋である。
日本が負けたのは神様のせいだろうか。
今横浜が苦戦しているのは神様のせうだろうか。
今世界が混乱しているのは神様のせいだろうか。
今リモコンを握っているのは人類だ。


神幸成終始大神カムナナシトオイツオホカミ

    
平成十一(西暦1999)年四月七日 旧二月二一日(水)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 小学校の映画鑑賞会で素盞嗚尊様の八岐大蛇退治の人形劇を見て、無邪気に日本の神様は素盞嗚尊様だと信じ込み、中学校の多感な頃に漫画家の永井豪氏の、
「スサノ王伝説」を読んで衝撃を受け、同時期につのだじろう氏の、
「うしろの百太郎」を読んで守護霊だとか超常現象に感心を持つ様になり、途中拳法を研究した後エレキギターに完全にはまり、幽体離脱体験や神霊治療体験を経て神霊の実在を確認してから徐々に霊的能力の開発に向かい、何時しか自分は素盞嗚尊様の分身の様な人生を送っているなあと思う様になり、近所のおばさん等に何気なく、
「俺は素盞嗚尊なんだよね。」
等と言う様になり、おばさん達が、
「そんなに自分を悪く言うことないよ。」
等と応酬して来るのがどうにも不可解に思いながら日々を送るうちに、自然に出口王仁三郎聖師様の世界に導かれて来た。
 これは生まれついてからの因縁以外の何物でもないだろうが、当時一般人で素盞嗚尊様を真の救世主だ等と思う人は皆無であり、私は書店の宗教コーナーで素盞嗚尊様を好く書いている書籍を探す事で心の平安を得ていた。
同時にイエス・キリストについての種々雑多な研究書を読み漁り、私はいつの間にか一端の宗教学者にでもなった気分でいたのだ。
 そんな経緯でイエス・キリストを通して旧約聖書の世界にも興味を抱く様になりモーセの奇跡を描いた
映画「十戒」等には衝撃と共に強い共鳴を得て、モーセが信仰した
「名無しの神」
という観念が、私が信じ続けて来た、
「名付けるのも畏れ多い真の神(素盞嗚尊様)」
と一致した事が、私により一層イスラエルの神に対する親近感を抱かせる要因となったのであろう。
 更に私をイスラエルの神と結びつけた要因はもう一つある。
それはある日突然家庭訪問して来た統一協会から派遣されて来た蒲生氏との出会いであった。
 彼に連れられて横浜駅近くのビルでビデオ講座を無料拝観し、宿泊研修の施設となった南区の光陽館での一週間で、どうしても出口王仁三郎聖師口述の霊界物語を拝読してからでないと統一協会の統一原理の真解が出来ないのではないかという疑問が沸き起こり、元共産党員だった統一協会の講師と激論した後、泉田瑞顕氏の出版した多くの神示研究書を読んで、その内容が破壊的で救いが無いのが気に喰わずにいる時に、
「名無し統一」という言葉が頭の中に閃光の様に閃いたのがきっかけで、
「七四十一大神」という存在との問答をしながら、
「大本神諭」天、火の巻を入手して読みふける内に八幡書店から遂に霊界物語が一般販売される様になったのだ。
 「名無し」という観念は、
「妄りに我が名を唱えるなかれ」
という十戒の最初の戒律から来ている。
 老子が「無名は万有の父なり」と説いたのも、釈迦が婆羅門に対する警告を込めて外なる神を否定して、内なる仏を求めさせたのも、孔子が神とは呼ばず天命と称して弟子達に仁礼の奥義を伝えんとしたのも、達磨が禅による実相観相の道を開いたのも、耶蘇が天に在す我等の父という敬称を用いたのも、全ては真神の謙譲の美徳を求道者達に伝授したかったからであろうと思う。
 真神は神幽顕の三界を含む大霊界を創造され、人類の主師親のお立場にありながら、自ら名乗り出て人類を従わせようとはなさらない。
 何処までも隠れて人類が生き生きとこの世の天国を謳歌するに委せておられる。
この謙譲の美徳こそ人類の全てが真神から継承しなければならない力徳であろう。
真神に対しては聖師様が正式な神号を発表しておられる。
神素盞嗚大神かむすさのをのおほかみである。
私は神幸成終始大神(カムナナシトオイツオホカミ)の神名で真神の謙譲の美徳を表現しているのだ。



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