今がすべて

    
平成十一(西暦1999)年六月一日 旧四月十八日(火)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 誰にも救いを差し伸べられない
 誰にも救いを求められない
 誰の力にもなることが出来ず
 誰も頼りにすることも出来ない
 誰かに縋れば楽になるという声もするけど
 誰に縋れば好いというのか
 そんな時私は神様の声を聞いた

 「重荷を降ろしなさい」

 誰かの為に生きなければいけないと
 誰が決めたのだ
 誰かを救わなければいけないと
 誰が決めたのだ
 誰もが今を生きることを許されている
 誰もが神様の救いの中にいる
 それなのに何故救いを求めるのか

 「重荷を降ろしなさい」

 誰にも今が目の前にある
 誰にも違う今がある
 誰にも真似の出来ない今がある
 それは過去でもなく未来でもない
 誰もが自分の今を生きている
 私はそれこそが力だと
 ただ神様に感謝するのだ


自分を赦し、他人を赦し

    
平成十一(西暦1999)年六月二日 旧四月十九日(水)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 少年の頃、私は全てを赦せなかった。
自分の境遇も、世の中の在り方も。
だから毎日が苦痛であり、戦いの日々だった。
けれど一冊の本がそんな毎日から私を連れ出したのだ。
連れ出されたそこが果たして天国だったのか、地獄だったのか。
ただ一つ言えることは、そこには今まで知らなかった安らぎがあった。
そこには真の神様の「愛と赦し」が満ちていたからだ。


他人のことはいい

    
平成十一(西暦1999)年六月三日 旧四月二十日(木)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 他人のことはいいよ。
何故かって?だってみんなしっかりやってるじゃない。
女の子は弱いから、男の子が守るんだって?
そんなの迷信だよ。
女の子は強いよ。
身を守る天才だ。
都合の悪い事はみんな他人のせいに出来るじゃないか。
守ってやるほどのものでもないよ。
誘ってついて来たらOKなのさ。

 他人のことはいいよ。
自分の人生を生きろ。
しっかりやってようと、やってなかろうと、
みんなとにかく生きてるじゃないか。
神様が生かしてくれているんだよ。
だから他人の事は心配しないでよ。
心配してもどうせ何か足りないんだ。
最後は自分だよ。
みんなが幸せになっても、自分が幸せじゃなければ半端だよ。
自分を犠牲にしてまで他人を幸せにする義務はないよ。
でも、それが幸せなら何にも言わないよ。

 とにかく先ず自分の幸せを考えてよ。
それが自然にみんなの幸せになるんだよ。
そういう事を僕の先生は、
「個人人類同時成道」
って教えてくれたんだ。
これが天国の法則さ。


団結なんかない

    
平成十一(西暦1999)年六月四日 旧四月二一日(金)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 団結なんかないよ。
だって始めから自他一体なんだから。
わざわざ団結するのは偽善だよ。
正義なんかないよ。
だって始めから正義なんだから。
正義に拘るのは偽善だよ。
自由なんかないよ。
だって始めから自由なんだから。
それを大義名分にするのは束縛だよ。
愛なんかないよ。
だって始めから愛なんだから。
それを口にするのは体裁だよ。
貧富なんかないよ。
だって始めから全部在るんだから。
他人の喜びは自分の喜びだし、自分の喜びは神の喜びさ。
眼に移る形に惑わされない事さ。


六五十一ミカエル

    
平成十一(西暦1999)年六月五日 旧四月二二日(土)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 私は今日の年月日を伊都能売と読む。
六五は水火しほ、体五霊五の体主霊従みのもとを現す。
この場合は私は、
「みのもと」
と読むのだが、
「われよし」
とか、
「ちしきのみたま」
と読む時は体五霊五ではなく、体に偏して霊を軽んずる時の読み方であり、所謂、悪情態である。
 一歩進んで、
「われもよし、ひともよし」
という読み方になると少々私の目指す所に接近するのだが、ここに霊体の結びが忘れられている場合は、
「われよし」
と何等変わらない情態なので、
「みのもと」
とは区別しておきたい。
 また人神合一とも読む事が出来るのだが、即ち現界に肉体を持って存在していながら、神としての活動をする情態である。
 神人合一と微妙に違うのは神人合一が神に使われる人というイメージが強いのに対し、人神合一は人として神の働きをするという意味になる。


教えと救い

    
平成十一(西暦1999)年六月六日 旧四月二三日(日)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 人にとって救いとは教えのことである。
教えを柱にして誰にも依存せずに生きてゆく自立した存在になる事を救いというのである。
 従って所謂しがらみに縛られずに、自分の手の届くことは自分でやり、手の届かない事は安心して他人に任せるという事が抵抗なく出来る様になる教えこそ、現代に最も適した教えであるといえる。
それが何を意味するかは各自が胸に手を当てて考えれば自然に氷解するであろうから、ここに詳細は記さない。
 現世で様々な職務に就いて、その職に固執するのは全て仏教に所謂
「修羅」
である。
 太古仏は法を以て教えたが、仏滅以後は報いを以て教えた。
現代は人に応じて教えるのであり、一度は悪に染まって、これは悪であるからやめようという身近な教えをするのである。
これを法身、報身、応身の弥勒という。


平成応身五六七ミロク

    
平成十一(西暦1999)年六月七日 旧四月二四日(月)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 六月というのは水の月である。
故に惟神的に我が国では六月に梅雨を迎える。
 六はまた体であるから、地上生活についての活動を現すものである。
従って五六七神が肉体人間に対して具体的な働きをするという意味あいが強くなる。
加えて平成十一年というのは言霊上、
「松平合一実る」
という事になる。
 要するに我が国の政治が安定して応身五六七の活動が始まると読むのである。
現総理は結構な年に就任したと知る事が出来る。
 応身の働きは個別に神が臨んで教えるのであるから、各自の悟りはそれぞれの境遇に応じて差異がある。
法にこぼれ、報にこぼれた者達の側に寄り添って友となり、師となって導いてゆくのであるから、通り一辺倒の教理の枠をはるかに越えた臨機応変の活動が出来る者でなければとても間に合わないのである。


幸という文字

    
平成十一(西暦1999)年六月八日 旧四月二五日(火)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 「辛い」という字の上部の「、」に「一」を交差させると
「幸い」
という文字になる。
 「一」の字は横一文字であるから、瑞霊という事になる。
人生の辛さから心を離す事が出来るのは瑞霊の教えだけであるというのは、そのものズバリ霊界物語を真面目に全巻読めば、ばかばかしくて嬉しくて神人を超越した人情の機微に触れ、辛い人生にも幸いが訪れるという事がよく判る。
 人間は出来るだけ長生きしてこの世で何らかの生産に参加するべきであるが、現代のように働きたくても職にあぶれた人たちが溢れている時節には、そう理想ばかりを押しつけるわけにはいかない。
 それもこれもブルジョアジーが、
「われよし」
に染まったまま、弱く貧しいプロレタリアを見殺しにしているせいであるが、そんな事も全て忘れて霊界物語を拝読する今日この頃だ。


私の地上天国構想その一

    
平成十一(西暦1999)年六月九日 旧四月二六日(水)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 今月号の「ムー」の付録漫画を読んで一案が生まれたので記録しておく。

伊邪那岐命いざなぎのみこと三貴子さんきし

  天照大神  は……セム・メーソンの本流である。
  月読命   は……ハム・メーソンの本流である。
  素盞嗚尊  は……ヤヘト・メーソンの本流である。


ノアの三貴子

  セム  は……黄色人種の祖。
  ハム  は……黒色人種の祖。
  ヤヘト は……白色人種の祖。

  赤鬼は赤色人種の祖でありアの御用をする。
  青鬼は青色人種の祖であるンの御用をする。

 これら三つのメーソンと二つの天の門番を統括するのが

  神素盞嗚大神かむすさのをのおほかみ

である。

 天照大神あまてらすおおほみかみは地上人民一切の衣食住を守護管理する御職掌である。

  月読命つきよみのみことハム・メーソンは、天照大神セム・メーソンの補佐として神秘を学問によって管理する。

 素盞嗚尊は天照大神の手足となり地上一切の事業を管理する。


私の地上天国構想その二

    
平成十一(西暦1999)年六月十日 旧四月二七日(木)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 現代に青色人種が明確に見分けられる形で残存していないのは七十五声の言霊に
「ン」
が含まれなていないことに起因している。
「ン」は即ちシリウスabである。
「ア・ン」二対のスフィンクスが一頭大洪水によって流された事と、皇典古事記に記される蛭子の間には深い縁がある。
ヒルコとニビル。
ヘブリュウとの関係を見逃してはならない。
 火星は赤い星であり赤鬼の故郷である。
 シリウスbは青白い星で青鬼の故郷である。
 宇宙の諸惑星には地球上の人類と同様の争い好きな人類は存在しない。
他天体人類から見た場合、人類は人にして人にあらず畜生、野獣と見えているのである。
火星とシリウスbは地球人類にとっての大宇宙参入の門番の位置にある。
人類は先ずこの門番の身魂改めがあって宇宙天国参入を裁決される。


私の地上天国構想その三

    
平成十一(西暦1999)年六月十一日 旧四月二八日(金)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 霊界大宇宙の主宰は神素盞嗚大神である。
地上現界の主宰は天照大神の御光の下、国常立命くにとこたちのみことの肉体である素盞嗚尊が担う。
 天照大神は天の機織り姫として地上一切の衣食住を守護管理するのであり、
 素盞嗚尊は農耕を象徴する牛頭天王ごづてんのうとして地上一切の破壊と建設を担う。
 月読命は天地を繋ぐ神秘を守り、地上一切の宗教を管理する。
従って地上一切の人民は天照大神の栄光と月読命の慈光によって生涯を通じて衣食住を保証され、闇のない人生を約束される。
 素盞嗚尊は地上の一切の邪悪を一掃して、地上天国建設のリーダーとなる任務がある。
この三つの働きによって地上から一切の苦役、貧困、不平等、病魔は悉く根絶されるのである。
三つのメーソンと二つの天の門番はその天命を自覚して、地球を明るい大家庭としてゆくのである。


私の地上天国構想その四

    
平成十一(西暦1999)年六月十二日 旧四月二九日(土)

      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 世界は主神を中心に一家族となる。

 事業は全て国際事業とし、グローバル・メーソンが管理する。

 肉体労働の完全ロボット化を推進し、人類は神事を第一にして余暇はひたすら趣味を追求し、生活の光明化を努める。

 科学の進歩は不老長寿に貢献し、宗教と融合して霊界の邪気を浄化する。
永久エネルギーの開発と、自然環境の活性化を推進して、これを保持する。

 国際銀行を配し、個人の生涯生活資金を一億円(時価)と決定して、誕生と同時に各個人の定期口座に振り込まれる。個人の生活はこの利息によって賄われる。
 遺産制度を廃し、個人の往生に際しては個人生涯資金を国際銀行を通じて国際政府に変換し、新たな生命の生涯資金に還元する。



雛形の役割

    
平成十一(西暦1999)年六月十三日 旧四月三十日(日)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 雛形というものはいろいろといじられるものである。
その度に完成品も変化するのだ。
 大本教に出口王仁三郎聖師が関与した頃は、やはりいろいろといじられた。
関西ではいじる事を「いらう」というのだが、人間も動物も聖なる場所は、
「いらえばいらうほど気持ち好くなる」
様に出来ている。
 特に男の場合、聖なる場所を息子というくらいだから、ここは男子の雛形である。
 大地の五大陸を男子と見た場合、日本はこの息子の位置にあり、女子と見た場合は台湾を加えて日本は観音様になる。
 女の子が月経毎に白地の綿に日の丸を描くのも、あながちこれに無縁ではない。
しかも女の子はいらわれると気持ちよくなる日の丸を胸に二つ、観音様に一つ、併せて三つも持っている。
また地球を宇宙の雛形と見れば生態実験場にされいらわれていると判る。


グローバル・メーソン

    
平成十一(西暦1999)年六月十四日 旧五月一日(月)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 世の中でよく騒がれるフリー・メーソンには秘密の臭いが漂い過ぎる。
それは何故かと言えば、大宇宙の真理と一体化していないからである。
私が地上天国構想の中で提唱した、
「グローバル・メーソン」
というのはもっと明白な組織である。
 メーソンリーの意味は工夫という事だから、
グローバル・メーソンというのはそのまま地球的工夫と直訳すれば好い。
 工夫の夫は天之峯火夫神あまのみねひおのかみである。 天之峯火夫神は大宇宙創造の根本神であるが、これを夫の文字一つで現しているのであり、
天之峯火あまのみねひというのは天上の光という事で、大霊界に光明燦然と輝く大太陽の事である。
 そしてその分身として地球的工夫となり地上天国建設に従事する組織を称して、私はこう銘々したのである。
 従ってグローバル・メーソンは断じて秘密結社ではなく神明結社だ。


理想世界

    
平成十一(西暦1999)年六月十五日 旧五月二日(火)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 広い世界に男と女。
宇宙から見ればきっと砂粒みたいに見えるだろうこの大地の上に、何十億もの人工を二分するほどの数がいる。それなのに一生のうちで出会い、恋するほどの縁がある相手は本当に率が低い。
 それにもまして一生添い遂げる様な相手には、運が悪ければ今生のうちには出会えないかもしれない。
だからこそそんな相手に出会った時は、全ての人々に祝福されたいと思うのが人情というものである。
 けれど子供の頃からテレビを通じて大人のどうしようもない愛憎描写を見慣れてしまい、恋は勝ち取るものだという歪んだ常識に閉じ込められて、遂にはコギャル達の様に男を信じられなくなって恋を金で売る様な時代になってしまった。
 事実力関係というものは倫理さえも無視させるものだ。
私はそういう世界が嫌いである。


幕末の結婚

    
平成十一(西暦1999)年六月十六日 旧五月三日(水)


      虞歌裸神斎ぐうたらしんさい

 幕末の理想に燃える若い志士達の中には、女郎屋から救い出した女性を妻にした奴等が少なからずいた様だ。
現代ならリストラ対象リストにすぐに歓迎されそうだが、当時の若い志士達はきっとロマン派だったのだろう。
 自由意志を奪われた可弱く美しい女郎が、借金の為に商品にされている事実に対しての憤りの現れだったのかもしれないが、いつの時代でも金と力に物言わせて弱い立場の者を束縛する側と、それを我慢できない側とが対立している様だ。
 そして必ず英雄という者は後者から現れる。英雄とは弱い者の味方であり、暴力と横暴の敵である。
どんなに高い理想を持っていた若者も、一旦高見に昇ってしまうと、どうしてもそういう憤りがわき難くなるものである。
 「憤り」というものは「怒り」とは違う。
天も味方するほどの雄叫びだ。



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