
十一十一
平成十一(西暦1999)年十月一日 旧八月二二日(金)
天乙貴人 私は今日の日を天之御中主神と読む。 円満具足という事である。 全ての中心が定まり、全てが満ち足りるという事である。 これに因み私の送信活動は今日を以て一先ず休止する。 しかしプロジェクトは継続しているので誤解しないで頂きたい。 ただ送信を休止するだけである。 天地創造の時も神様は七日目に休まれた。 創られた物が全て善かったからである。 過去の結果として現れている現在は別として、私が一年一ヶ月かけて創造して来た物は全て善かったので、あとは創造の手を休めてそれらが成長するのを見守るだけである。 要するに未来に希望が持てるという事である。 古い時代の悪い種の根は枯れた。 後は時と共に悪い花は咲き尽くし、枯れるばかりである。 これからはどんどん善い種が芽を吹き、葉を茂らせ、花咲き、身を結び、種を落として繁殖して行くばかりである。 その間には風雨雷鳴もあるだろうけれど人類を滅亡させる程のものでもない。 気に病むには及ばないのである。 すぐに皆さんの眼に善い花が咲くのが見えなくても騒ぐことはない。 中心は定まったのである。 神様が目の前に降りて来ても、もう驚く者もいないだろう。 怯える者は神様を見る前に消滅してしまうだけである。 準備の出来た者から神様にあいまみえ、喜びに満たされて人間として生き、聖霊として生きて行く。 光も闇も生命には欠かせない愛である。 善き人々はそれを知ったのだ。 光だけでも闇だけでも何も見えなくなる。 それが世界である。 生命はその中程にあるのだ。 そうである。 中心とは生命そのもだ。 地位も名誉も富みもあらゆるものがその周囲にあるものである。 堕落も汚名も貧も同じくその周囲にあるものである。 どちらに偏っても良くない。 中心に定まるのである。 それが主神であり、生命はそこに在る。 皆に祝福を。 |
正負作用
平成十一(西暦1999)年十月二日 旧八月二三日(土)
天乙貴人 「あ〜、よく休んだ。皆さんお元気ですか。私は相変わらずですよ。」 それにしても何ですね。 別に予言したわけではないけれど少し休んでる間に、私が書いた内容に所々符号が一致する様な事が善悪両面で現れて来ちゃいましたね〜。 けれど送信が止まる度に自殺の話題が取り上げられるのはかなわんねえ。 何処やらの問題宗教団体まで一時休眠とか、どこかで聞いたことあること言い出して、思わず吹き出してしまった。 善人が天国に行くのは当たり前として、悪人や罪人も天国に行きたい気持ちは変わらないと見えて、神様の真似をすれば助けてくれるんじゃないかと思うんだろうね。 まあしょうがないね。 間違った信仰でも真心でそれ一つを信じて忠を尽くす心には一点の美があるから、それを縁にして来世では正しい信仰が持てる様にはなれるよ。 でも今生では因果腰を決め込むしかないな。 もう何処に行っても憎まれ役しかないよ。 それも修行だと思って忍耐しなさい。 でも人殺しや、拉致監禁なんて真似はもうやめないといけないよ。 修行はさせるものじゃない。 天地の真理とタイマン勝負の覚悟で一人でやるもんだ。 仲間を作ったり、金持ちを食い物にしている間は悟りの「さ」の字も持てないぜ。 仲間とか家族という発想に囚われているから敵と味方のカルマから解脱できないんだ。 中心が定まるとそれが核となって天に伸びる物は無限に天に拡大し、地に沈む者は一層深みへと沈んで行く。 一つの言霊が陽の花を咲かせ、陰の花を咲かせる。 言霊の種は小さな粒なのに、池に投げ込まれた小石が波紋を広げる様にして三百六十度球状に変化拡大して行く。 神様とはそういうものだ。 見ようによってどういう風にも取れる。 だから善とも悪とも言えないので素というのである。 本当に無にならなければ、その意味は判らない。 |
光と闇の源
平成十一(西暦1999)年十月三日 旧八月二四日(日)
天乙貴人 親よりも子供が大きくなるのはよくある事だ。 それでも大きくなった息子や娘達は、何時まで経っても小さな親の前では頭が上がらない。 例えるなら丁度それは映画のフィルムと画面の様な関係である。 片手の中に簡単に納まってしまうネガフィルムに光が当てられて迫力満点の大画面になる様なものである。 聖師も言っているけど、あの小さな月が母親で、そこから今は大きくなった全ての星が生まれたんだそうである。 小さな子供が大きな大人になる様に、子供星も小から大へと成長して来たらしい。 勿論、この地球もそうらしい。 成長するにはたくさんの栄養が必要だし、それだけ排泄もあるわけだ。 世の中が便利を極めようとすればするほど、問題も多くなるのもその理屈である。 だから科学が進歩するほど非科学的な分野が排泄されて来るのは当然だ。 だからそれを一掃したければ科学の進歩を止めるしかないが、それは出来ない。 大便が出る所も小さいのに、あんなに太いのがこんもりと出てくる。 お姫様の有り難い所も小さいのを大きくしてあげて、これまたお殿様の大きくなったのを挿入するのである。 台湾が大地震になったのは、神様夫婦のその衝撃なんだけど、そんな風に言ったら人間は怒っちゃうから難しいのである。 この理屈で行くと阪神淡路大震災は、胎児の初めの鼓動でもあり、男根がびくんとする時の衝撃の様なものになるのだが、神様が動くと細胞の一部の人類もまた忙しくなる。 その細胞の新陳代謝の激しい事、まさに戦場の様でもあり、現代の世相の様な有り様である。 排便として捨てられるものも肥やしとなり、微生物の餌となり流転を繰り返す。 「みんなしあわせになれ」の「みんな」とは主神も神も仏も天使も悪魔も人間も禽獣虫魚も草木も水も空気も土も全てで贔屓はない。 |
電磁波宣伝
平成十一(西暦1999)年十月四日 旧八月二五日(月)
電話は孤独から救い出してくれる。 だから電話をかける。 しかしそこから抜け出さなければ世界は何時までも本当の孤独から抜け出せない。 そして電話の時代が終わらなければ金為本時代は終わらない。 テレビは面白い。 しかしテレビに釘付けになっている間は虚像の世界から抜け出せない。 テレビの中の恋人と子供を造る事は出来ない。他人の描く恋愛ドラマや、他人の不幸を見聞しても、自分のドラマは始まらない。 人は傷付くのが恐いから電話で事を済まし、テレビでドラマを疑似体験する。 それはある意味では救いだが、とどのつまりはごまかしである。 熱狂と陶酔の必要性は虚無感からの逃亡だ。 生きている実感が欲しいのは平凡な毎日に対する嫌悪と恐怖のせいだ。 「自分はこれだけの人間である。」 そう認めるのだ。 特別な逸材だなどと思わない事である。 天下を動かす程の大物だ等と考えても必ず失意に狂う事になる。 人の人気を真似ようとしない事だ。 今の自分が真実だ。他には何もない。 背伸びも畏縮もするな。 手の届く事で十分満たされるのだ。 天の負わす仕事には逆らいようもないが、自分から切り出したりするな。 天の道に従いたければそうするしかない。 野山に人知れず咲く花の様に、自然のリズムの中に住むのだ。 神が見ておられる。 「天地の間に吾一人。」 全ては実体のある様に見える幻影である。 他人は他人なのだ。 他人を通して見る神は遠い。 自分で直に神を見るのだ。 自分で直に見る神は他人には伝え難いが、必要もないのに伝えようとする事が迷いの始まりなのである。 虚実は沈黙を恐れる。 真実は大いなる轟音を発する沈黙である。 それに倣えば自然のリズムに乗る事が出来る。 無意味な電話、無意味な情報に心を奪われるな。 自分が電話であり、テレビであるのだ。 (後日談: 確かこの日くらいから完全に電話回線が使用停止になったので、頭を切り替えて、ブラウン管から出る電磁波で傍受されているだろう事を想定して日記を書き始めたのである。 怪我の功名だが、後日、この作戦が図に当たる事になった。) |
やれる事をやる
平成十一(西暦1999)年十月五日 旧八月二六日(火)
誰よりも優秀である必要なんてない。 自分に出来る事をやるんだ。 誰かの役に立たなくたって気にしない事だ。 もし何かの役を考えるのなら、神様の役に立っている事だけを知っていれば十分だ。 人間の尺度で価値観を考えるな。 自分が在る事だけで十分だ。 神になる必要もない。 仏になる必要もない。 人になる必要もない。 鬼になる必要もない。 悪魔になる必要もない。 天使になる必要もない。 ただ自分が在るだけで十分だ。 それが、紛れもない大宇宙の意志だ。 社会も、国家も、天国も、地獄もない。 在るのは自分だけだ。 自分が在るからこそ全てを感じられる。 どんな生き方をしたって、どんな死に方をしたって、他人には結局関係無い事だ。 親子も、夫婦も、兄弟も、師弟も、同胞も、友達も、結局は他人である。 仲好しであるだけの事だ。 喜怒哀楽の全ては一瞬の感情の高まりでしかない。 たとえ一生の記憶になっても、それは永遠の前では儚い夢の様なもの。 誰も自分の代わりは出来ない。 世の中が受け入れてくれるかどうかを考えるな。 どうせ考えても思い通りにはならないのだ。 世の中は世の中が必要なものだけを受け入れる。 しかし世の中が必要なものばかりが天然の衝動ではない。 自然現象の中には、世の中が拒みたいものが山程あるけれど、それは誰にも止められず、誰にも変えられない。 自分自身が自然の一部である事を忘れるな。 それを忘れなければ世の中に拒まれても落胆する事もなくなる。 世の中で成功する事が、その自然の衝動を犠牲にする程魅力的でないなら、つまりお前は世の中に納まり切らない代物なのだ。 誰にも期待するな。 誰にも口答えするな。 誰にも依存するな。 お前の寿命をお前の感性で生きてゆけば良いのだ。 後天的な常識で自分を束縛する必要はないのである。 |
メシアとメシヤ
平成十一(西暦1999)年十月六日 旧八月二七日(水)
聖師さんは霊界物語の中で、 「ナザレの聖者キリストは神を楯としパンを説き、マルクスパンもて神を説く」 と説いておられるけれど、メシアと云う者は民族の王であるだけでなく、飯屋家業が重大な仕事の様である。 儒教でも「衣食足りて礼節を知る。」と説いているけれど、人類にとって衣食住の問題は重大である。 人類は常に自然の運行に逆らいながら欲望を満たして来たから、野に咲く花や鳥達の様に、 「汝明日に何を食い、何を着んと思い煩うなかれ。」 というわけには行かなくなっている。 それは人類が自然の運行に背を向けて生きて来たからで、人類自らが神の敷いたレールの保護から脱線して来た以上仕方のない宿命の様なものでもある。 地上の生物は全て食住の問題に命懸けで挑んでいる。 唯一人類のみが衣の問題に煩うのであるが、霊界物語に因れば衣食住の守護は全て我が天照大神様が行う事になっている。 嘗てトルコの地から艮の位置に在る日本に御隠退なされた国常立尊様も日本に渡る時には冠と沓を脱着された。 それが大本神業中のメインイベントとも言える冠島、沓島開きの因縁になるのだが、それはそのままアジアの玄関である朝鮮半島から床の間である日本に渡る為に冠と沓を脱ぐのは当然の礼節であるからである。 海外では土人を除けば室内でも帽子を冠り、靴を履くのが殆どであるが、それは神様がそこを外だと区分けしている事が自然に現れているのである。 従って国祖様はトルコに仕事で出かけていたので冠と沓を身につけていたが、日本は本宅だったからそれらを脱着なされたのである。 天照大神様は国祖にとっては吾が妻なので、日本がある東を吾妻と呼んでいたのである。 内儀さんの仕事は家内炊事洗濯掃除子育てと盛り沢山である。 従ってメシ吾は夫で、メシ家は妻だと判る。 |
断食修行
平成十一(西暦1999)年十月七日 旧八月二八日(木)
聖師さんは、 「食べる物が在るのにする断食は本当の断食にならない。 神様の宣伝の途中で食事を忘れたり、工面に困って食べられない時などが本当の断食になるのだ。」 と説いておられる。 要するに心と家計に十分の余裕があってする断食はお遊びの様なもので、食べられる時にはちゃんと食べる方が好く、神様の方から食うに食えない状況にされる時こそ本当の断食修行だから、その時こそ神様に感謝しろというのである。 先日、茨城県の核施設で発生した放射物質漏出の時の様に、表に出るに出られないとか、土地の食べ物を食べるに食べられないという時が本当の修行になると考える事が出来るだろう。 過去も含み、今後も起こるであろうと考えられる災難の時こそ神様から修行をさせられているのであるから、この時の真剣な心が大事なのである。 元来、修行は一生をかけて命懸けでやるものである。 野生の魚と養殖魚が味に微妙な差があるのも、野生には逞しいしまりがあるのに対して、養殖は安閑たる緩みがあるからである。 修行も人間の側から自主的にやる時は養殖同然で、したくもない苦労や貧乏を乗り越えて来た事で培われた本当の逞しさはどうしても育まれないのである。 自然な苦労を乗り越えて来たユーモアには毒があっても人生に対する優しさが垣間見えるものである。 対して贅沢育ちの坊ちゃん、お嬢ちゃんのユーモアには何処か人生を小馬鹿にした所がある。 本人にその気が無くても根が浅いから仕方がないのである。 だから彼等は苦労人に扱かれないとそのギャップが埋まらないのだ。 と言っても学校でのイジメや社会での虐待に同意しているのではない。 あくまでも修行としてのシゴキである。 神様にさせらる断食はこのシゴキになる。 自分からする断食はどうしても緩いものだ。 |
空腹と飢餓
平成十一(西暦1999)年十月八日 旧八月二九日(金)
空腹の文字は空にて満たされし 聖き言霊御霊麗し 飢餓なるは空を悟らぬ心より 起こる情態省みて吉 「武士は食わねど高楊枝」という諺がある。 武士は見栄を張って空腹の弱味を見せないという解釈もあるが、元来武士は戦人である。 戦場では何日も食に有りつけない窮地に陥る時も多々あるものであるから、そういう時に味方の志気を高める為、自ら空腹に弱り果てて味方を困らせない様に配慮するのが武士たる者の心得であるので、こういう事を普段から鍛練していたのである。 決してただ見栄を張るだけで武士が弱味を見せないのではないのである。 何故なら武士はそういうさもしい心を何より嫌う誇り高い人種であるからだ。 神に使える者、仏に帰依する者の心も本来こういうものである。 先ず周囲に気遣うのが天使の心であり、菩薩の心である。 しかし、この配慮も敢て理由付ければそうなるというだけで、本当は神仏への信仰と感謝に満ちた心には、空腹さえも身を浄める為のお恵みであり、また慈悲の現れと自然に思えるのであるから、この空腹という状況に気が負けない。 気が負けなければ、空腹に苦しむより先に、法悦が湧いて来るのである。 満腹の時は気が緩むものであるし、また神気が入って来る隙間が無いという事は空腹の清々しさを知っている者でなければ判らないであろうと思う。 対して飢餓の情態は食えない苦しみは勿論の事、食っても食っても満たされない無限の枯渇感を味わっているのである。 炎天下の砂漠でいくら水を飲んでも満たされない様な苦しみに似ている。 勿論、これも心平安な者には有り得ない事だが、そうでない者には都会の真ん中でも満たされない苦しみがあるのだ。 水滴の一雫でも空腹は満たされるものだ。 |
清貧と貧苦
平成十一(西暦1999)年十月九日 旧九月一日(土)
貧の字は貝を分けると記すなり 分かつ心は神が源 古の貝は人等の主食なり 次いで貨幣の元となりたり 清貧は瑞の御霊の心なり 食と価値とを分かつ生活 貧苦とは分かつを苦しむ心にて 神を忘れた時に始まる 「貧しい」という事は豊かさの裏返しである。 「豊」の文字は豆が曲がると記すけれど、豆が曲がるという事は要するに芽が生くという事である。 豆が芽生く時は豆を分けて来るのである。 豆というのは陸の貝である。 「貝」というのはまた「快・界・解」等に通じ、これら全てを仲良く分かち合う事を称して「貧しい」というのである。 「まずしい」の言霊は「ますすしい」という事で「真素子思惟」という事である。 即ち「真に素直に子を思い惟る」というのが本当である。 これを清貧というのであり、神の子・神の宮、仏の子の中に自然に浮かぶ心である。 貧苦というのはこういう事を苦しむ心である。 貝を分かつという事は貝を食べる事であり、喜びも苦しみも分かち合う事である。 豆もこれを食べれば豆としての生命を人が曲げて頂くのであるし、また豆が曲がらなければ新しい芽を生く事も出来ない。 こうした事を拒んで貝が閉ざしたままでいようとし、豆が曲がらずにいる事は、新しい生命を生まないから草葉の陰で古びて行くというのを苦しむというのである。 これは自己愛の心である。 人は何事も瑞霊の神の清きに心を置いて真解を頂き直さなければ天国の門を潜り、そこの住人となる事は出来ない。 あらゆる体験を見直し、聞き直し、正しく理解して地上天国を建設するのが、神の子、神の宮、仏の子達の使命である。 真の勇気はその為の力である。 |
垣内の語源
平成十一(西暦1999)年十月十日 旧九月二日(日)
垣内を「かいと」と訓むは藤原の 奈良の栄えの名残りなりけり 「かいと」とは神の身内の意味にして 海戸、貝藤、垣藤とも書く 神不二の響きを汲んで「かきうち」と 訓んで喜ぶ藤原の民 吾が親は実も育ても藤原の 末とは縁の妙技なるかな 二十二の人を祖とする血筋は誰も皆 天孫ニニギの遺伝子を持つ 二十二の人は王仁なり遥かなる 初めの霊止の生れし御代より 王仁は明治大正昭和のみ 生きた人とは俗の迷信 王仁は天祖の皇命なるからは 無限絶対無始無終なり 名前や血統にこだわるのは私の方針ではないけれども、御先祖様はこれを隠す事を大変不足に思われるので、御先祖様を大切にする日本人としてはこれを堂々と表明しなければならない。 また誠の神の歴史と未来を語る資格は、霊系も体系も継承していなければならないというのが重要条件であるから、これを隠す事は出来ないのである。 勿論、世の中には藤原家を本家筋として継承しておられる方がおられるのであるから、私の様な者はそういう意味ではただの没落者なのであるが、これはあくまでも体系のみの話である。 体系の継承は家系の継承であるから、これは妻方である。 即ち母系である。 これは家の長男が継承するのである。 日本はこれを守って来たのである。 霊系は吾系の継承である。 即ち父系である。 それは即ち父からの祝福を受ける事で、これを守って来たのがノアから始まるセムの末裔である。 中近東から移民を続けて日本に帰還したイスラエルの末裔がこれに相当する。 |
仕事が食らう
平成十一(西暦1999)年十月十一日 旧九月三日(月)
人間は寝ていても腹が減る。 腹が減れば飯を食うのが当たり前だが、本当ならこれを満たすのは米を主とする五穀で十分なのである。 果物でも好いが、特に日本人は神前に献じた五穀を一日二食ずつ僅かに頂いておけば好いのである。 しかし現代は信仰が堕落しているので医学的見解に従って他の物を食べながら腹のみを満たして働いているのである。 現代社会では食糧問題が懸念されているけれど、これは全て信仰が堕落して、神様から霊的栄養を頂いていないので、腹を満腹にし、霊の虚しい血液に物質的栄養を詰め込まなければ不安で仕方がない餓鬼情態であるから、こういう事になってしまっているのである。 五穀の採れない小さな島国や水質が稲作に合わない地方には、それに必要なだけの食事が備わっているのであるが、現代の様に季節外れに外国の物まで飽食に耽る様な食生活を続けていてはそれが不足して来るのは当たり前の結果である。 科学の力で遺伝子組み換え食品を生産するのも一つの方法であるが、やはりこれは一時しのぎのごまかしであるから、こういう物ばかり食べていては永久に現代の様な犯罪過多社会から解放される事はない。 野生の世界の弱肉強食は自然の生態系を保つ為の法則であるけれど、神の子、神の宮、仏の子である人類がこれを真似るとどうしても血が汚れるので畜生道に堕落してしまうのである。 肉はうまい。 美味である。 けれどもそれは舌のみの事で、霊を満たす事は出来ない。 霊魂を満たすのは主神の祝福以外には無いのである。 霊魂が満たされていれば自然に人格も向上するので、優しく賢く強い万物の霊長になるので、畜生達も自然に従順となる。 人の仕事とは神仏の道に「仕える事」である。 この為の労力は五穀で充分満たされる。 道は瑞霊である。 これが地上天国建設である。 |
中肉中背
平成十一(西暦1999)年十月十二日 旧九月四日(火)
体格を創るのは霊魂である。 好い体格とは尖った部分の無い体格で、肥満でもなく、貧相でもなく、筋肉質でもない。 所謂、中肉中背である。 男性と女性は全て対照的に凹凸があるのが好い。 中肉中背でない場合は、それに見合った性質になるもので、肥満であれば怠惰となり、貧相であれば陰湿となり、筋肉質であれば争いを好む様になる。 育ち盛りに無理な減量をしたり、土に接して遊んだ経験がないと凶暴な性質になる。 男性は三十年かけて肉体を育てて、肉体が出来上がると霊魂も漸く納まるので自然に中肉中背になって行く。 体格が丸くなるとか、柱の様にどっしりするという事があるが、これは使命によってそうなるのでどちらも中肉中背に含まれる。 育ち盛りにたくさん食べた者は太っていても霊魂が納まれば自然に中肉中背に調整されて来るものである。 女性は二十年かけて肉体を完成させて出産の為の充分な体力のあるうちに霊魂が納まる様になっている。 子供を出産して育て上げると自然に男性的になって来るので、夫との関係は恋愛から友情になってゆく。 体格の丸さや美貌はその仕事に関係しているので、女性が何時までも若い頃の体格を保つのは男性的な努力が必要なので、性質も自然に男性的になって行く。 どちらかというと丸みのある女性の方が女性的な面を残し続けるものである。 男性も女性も体格が完成するまでは女性的だが、霊魂が納まると男女の区別なく男性的になるものである。 女々しさというのは俯いた情態で、消極的だったり、卑怯である事をさしていう。 雄々しさとは天を見上げる堂々とした情態で、積極的で公明正大である。 天を見上げると自然に柱の様にどっしりと中肉中背になる。 |
猫背の意味
平成十一(西暦1999)年十月十三日 旧九月五日(水)
猫は普段は大人しいが、機に応じては野獣の本性を表す。 武術家も猫の様に敏捷で用心深いと自然に猫背になる。 対して達人は常に自然体である。 穏やかで朗らかな円相に包まれているので、警戒させる事もする事もない。 猫背というのは警戒心の現れである。 これは女性的性質の暗い面である。 しかし霊的には猫は魔王であるから、猫がいる家には魔が寄り付かない。 猫が魔王の格を表している時は人間からも可愛がられない。 猫が人間に可愛がられる様になると、自然に行儀よく主人である世帯主を見上げる様になるものである。 これは犬と同じである。 犬も忠犬と野良犬がいるが、忠犬は男性的に背筋が伸びているのに対して、野良犬は女性的に猫背になるのである。 格闘は野獣的行動であるから、どうしても防御が必要なので猫背になる場合が多い。 それでも男性的な格闘家もいるもので、彼は堂々と背筋を伸ばして圧倒的な迫力で相手を屈してしまうものである。 しかし格闘は男女混合の情態に位置するので、如何に雄々しく見えても、荒々しく見せる態度そのものが、体系の行為であるから霊的には猫背である。 霊体共に男性的になると全く敵を寄せつけなくなり、相手を仲間に取り入れてしまうのであるから格闘にならない。 猫も男性的になると忠を尽くす様になるし、犬も女性的になると懐疑的で背く様になる。 霊界物語にも記されているが天国の住民は常に顔が天に向いており、地獄の住民は常に顔が地に向いているのである。 猫背というのはその中間で、皮肉な程人間的であるとも言える構えである。 背骨は地に俯きながら、顔だけが相手を見上げている。 天を見上げると背筋が伸びて顎が上がり咽首が天に晒される。 |