いのちのひびき

    
平成十一(西暦1999)年新十月十九日 旧九月十一日(火)
乃至 新十月二七日 旧九月十九日(木)


「初めの神」


 暗く冷たい混沌たる泥海にそれは眠るように漂っていた。
どれだけの時間が流れたのだろう。
吸い込まれるような静けさの中に横たわっていたそれは、身の丈五百丈、身の太さは三百丈もある鰻に似た生き物であった。
青黒い光沢を放ちながらそれは「の」の字形に縮こまっている。
スースースーと澄み切った中で、目覚めているのか、眠っているのか、しかしそれは心地よいまどろみに似た時間であった。
その中でそれは、自分の過去を振り返っていた。明らかに意識を持ったそれは夢を見る様に物思いに耽ることが出来た。
「天も無く、地も無く、音も臭いも色も温みも無い。無いということも判らない筈のそのだだっ広く懐かしい大虚空に、ある日小さな穴が空いた。
穴としか言い様のない隙間が出来たのだ。
すると何の動きも無かった大虚空全域が、その穴を埋めようと渦を巻きだした。
それが全ての活動の原因となり、それはマイナスの力となって大虚空の痛みとなったのだ。
それは陰の気となり、その周囲は全て陽の気になった。
その陽の気を引っ張る力が引力になったのだ。
痛みが結晶して血が現れた。
それが初めの霊となった。
嗚呼そうだ。
それが私の始まりだ。
私は隙間から生まれたのだから、これから私は自分の事を『す』と呼ぼう。
隙間が穴となり、低い所が生まれたから、周りの物は全て高くなったのだ。
その穴は反対から見ると高い山の様に見える初めの地となった。
だからそこを初めの地と書いて『ハナ』と呼ぼう。
私は全ての活動の素である。」
 そう自覚した途端にそれは自らが大虚空の主である事を悟った。
その様子を太古の日本人は天之御中主命と呼んだ。
その感動が光となって初めて闇と光が別れたのである。
この光を天之峯火夫神と呼び、穴を反対から見た時の山を須弥山と呼び、スメール山、芙蓉山、富士山等と称される様になったのである。
その感動と共に「の」の字形に縮こまりながら横たわっていた「す」は両手両足を広げて「大」の字になって立ち上がって喜んだ。
この世界に天地東西南北の六合が出来たのはこの瞬間であった。
この「大」の字で六合に立ち上がった姿を称して大六合常立命と云うのである。
この一神二命を称して六百六十六億年大神と云う。
六百億年は天之峯火夫神、六十億年は天之御中主命、六億年は大六合常立命の事で三つは全て同一の存在である。
大虚空中に穴が空いた時に陽気を引き寄せた引力を称して瑞と云う。
水が高きから低きに流れるのはこの為である。
瑞は引力である。
それは大虚空の隙間を埋めようとする力なので愛と云うのである。
恋人同士が好き好きと言って愛し合うのもこの因縁に依るのである。
好きと云うのは互いの隙間を埋めようとする心で、愛というのは互いの合間を満たそうとする心である。
そしてこの満たそうという心が瑞の心で、初めに現れた「す」と称される一神二命を指して「瑞霊」と総称する様になった。
 彼は元来隙間が生んだ陰の気であるから、主である事を悟った後も心に淋しさを感じずにはいられなかった。
それで彼は思った。
「世界中に数え切れない程の物言う者を創り、これを私の慰めにしよう。
私と彼等で協力して世界を拡大して、そこに新たな創造を重ねながら全地を楽しみに溢れた天国にしよう。」
 だが「す」の分身とも云える使い神達の中には時々未熟な者も生まれて来た。
そうした者達は寿命も短く、その亡骸は自然に重い物質となって大虚空は軽い霊の集まる天と、重い物の集まる地とに別れていった。
この亡骸が堆積した地を「積み」と呼び、瑞霊はこれを更に役立てようと洗い直すことにした。
この時の働きを神伊邪那岐大神と称し、初めの夫婦神の守護神として御出現になり、夫神伊邪那岐命は亡骸を祓い浄め、妻神伊邪那美命は浄められた亡骸を美しい体に生み直して行かれたのである。
伊邪那岐命は大六合常立命(天常立命)の御子で国常立命、素盞嗚尊とも称されていた。
この頃の全地は未熟な使い神達の争いが絶えず、その為地上は邪気充満して天の天国にも悪影響を及ぼしつつあった。
そこで一旦神伊邪那岐大神(瑞霊の別名)は天地を神幽顕の三界に分断して、地上顕界の邪気が天上神界に進入出来ない様に、幽界を一種の濾過装置の様にしたのであった。
 この政に逆恨みした地上の未熟な使い神達は魔軍となって神伊邪那岐大神の神軍に反逆を試みたが悉く敗退した。
この有り様を快く思わなかった大六合常立命は深い溜息をおつき遊ばされた。
するとその溜息は大彗星となって太陽系内惑星群を襲い、地上には大洪水が降り、選ばれた者以外は全て滅ぼされたのである。
この時国常立命(別名国治立命、伊弉諾尊)様は深く省み給いて天教山(富士山)の火口に身を投じた。
しかし、元来不滅の神霊である命は火口を通じて瑞霊の在す天上天国に参入する事を得た。
そこで母神、神伊邪那美大神と再会し、大救世主神として大洪水で滅ぼされた未熟な使い神達の霊的改神を完成させる御職掌を明らかにされ、再び神素盞嗚大神として地上天国建設の為に臨まれる事になったのである。

平成十一(一九九九)年十月十九日 旧九月十一日 記す 



「大宇宙の誕生」


 宇宙は始め無く終わり無い生命力である。
完全無欠、円満具足の宇宙には何一つ不足が無い故に、それは全く活動していないかの如く平安な静寂に満ちていた。
原初の宇宙には天も無く、地もなく、それはまるで真空を漂う水の様に無形の体を持つ平安な霊であった。
けれども地球の海水がただの水ではない様に、原初の宇宙は生命と元素のスープとも云うべきあらゆる要素が溶解した液体だったのである。
生命ある所には必ず意志がある。
一見無目的に漂うかに思われた液体は、その内部では自然に撹拌遠心分離運動を行っていた。
 意志は物質の隙間に存在し、物質の核に働きかける。
それは異なる元素の電子が奇数から偶数へと結合を繰り返す事にも似て、一つの意志を満たそうと絶えず活動し続けるものなのである。
生命とか意志というものが物理的視観で確認する事が出来ない理由はそこにある。
生命と意志は物質の隙間に身を隠しているので「隠れ身」と書いて「カミ」と呼ばれる様になったのである。
意志の隙間を満たそうとする物質の活動は電流を生み出す。
 全て流れのある所には波動が発生する。
この波動の軌道が渦となり、その姿こそ超ひも(スーパー・ストリングス)であり、「御琴・ミコト」と呼ばれる「素」の原型であった。
「素」の文字を「主の糸」と書くのも、琴が弦楽器であるのもこの為である。
「糸」はまた「意図」という事で、それは即ち「宇宙生命の意志・企画」を意味するものである。
 意志を満たす為に現れた波動は渦となって輪郭を現した。
これが「・」を中心に「○ 」で囲まれた「素」を象形文字で現した「日」の言霊であり、また「日」の活動を意味する「月」の言霊となったのである。
「日」は平安の象徴であり、「月」は活動の象徴である。
故に「日」は中心に不動で輝き、「月」は 「日」と「地」の間で運動し続けるのである。
 大宇宙の誕生は一霊四魂の活動に依る天地の創造から始まった。
一霊とは先天の素を云い、これは天地東西南北を定めぬ自由体であった。
しかしてその内部には、やがて意志の中心たる頭となる直霊があり、更に東西南北の相を現す両手両足に当たる四魂があった。
頭は意志の中心であり先天である。
この先天が足場を定めた事によって天地が発生した。
足場は即ち地であり、天地創造は地が定まると同時に行われたのである。
 それは例えば原液中の比重の重い元素が集合して沈殿する様にして、自然に天地が別れたのである。
霊は元来霊体一致である。
霊は見えない実在で、体は見える実在である。
見える実在は比重の重い霊素で、体の磁力に引き寄せられる。
体の体は足となり、体の霊は手となる。手は天に位し、足は地に位する。
これは即ち一霊四魂一体で、天地東西南北の六合となる。
この天地の体は霊の視覚化されたものであり、体は即ち霊の顕現であるから異種同体である。
霊天地体の決定が天地の交流を生み、この交流によって力が発生する。
したがって天地は始めから霊力体の三元によって存在しているのであり、これらは独立して存在するものではない。
先に記したように天地創造は、地が出来た事によって同時に行われたのであり、労力としては地の創造一つで出来たものである。
霊力体の発生も同じで体を顕現する一つの力で三つが同時に現れたのである。
要するに「一石三鳥」という事になる。
一つの真理意志で三つの理を生み出した訳である。
一つは真理。
一つは物理。
一つは心理である。
真理意志が常に一つで奇数である以上、物理と心理は永久的に交流を繰り返すのが絶対法則となる。
何故なら偶数は常に奇数に向かって移動するからである。
よって二元論という事は活動の停止を意味するので生命に溢れた宇宙には絶対有り得ない。
 かくて三位一体である素は更に霊の三元を生み、その三元はまた各々の三元を生んで無限に分裂して行く。
力もまた無限に三元を分裂し、体もまた無限に三元を分裂して宇宙に拡大して行った。
この宇宙空間にも重力の大きい星団の集合する大大地と、重力の小さい星団の集中する大大空がある。
更にそれぞれに二十八億三千五百万ずつの大地と大空とがあるのである。
大大地と大大空の大地と大空は各五十六億七千万となるのである。
 霊力体の三元には各々一霊四魂一体があるので三六十八の三元ミロクと云い、六六六と記すのであある。
更に霊力体にも陰陽天地の雌雄が在るので、十八は二倍され三六となる。
これをまた「王ミロク」と唱え、天中地を現すために五六七と記すのである。
 大宇宙は一つの意志によって撹拌遠心分離され、やがて天地が別れると、天は金流が更に撹拌遠心分離して無限分裂を行い、地は銀流が更に撹拌遠心分離して無限分裂を行ったのである。
この金流の中心を国常立命と称し、銀流の中心を豊雲姫尊と称した。
各々撹拌遠心分離によって生み出された分身達は更に回転して大宇宙の細部の創造に従事した。
分離の初期には無言に意志を通わせ合っていた分身達であったが、大地に降った者は末端に至る程多言を必要とする様になり、次第に誤解も生まれる様になって来た為に、それは次第に争いの元となっていったのである。
争いが長じるとやむなく派閥発生し、その対立の雄叫びは天をも揺るがす程の勢いとなって来た。
我が地球の在る小宇宙は大宇宙の中心に位置し、大大空と大大地との中心に位置しているのである。
我が地球は大大地の中心に定められ、末端に発生した争いが大大空に影響せぬよう設けられた瑞垣となっている為、ここに天使降臨して和合の教えが大大地下に向かって敷かれる事になったのである。こうして降臨した天使の中には天に背を向けてまで大大地下の生命に同情する者が現れた。
何故ならば彼は原液時代の全てが混在していた頃の宇宙を知っていたからであり、大大地下の生命が大大空の神々に一方的に批判される事を己の影に唾する様な我を知らぬ行為と感じていたからである。
しかしこれを過激と感じた天使達は彼を悪魔と呼び極力その活動を妨害する様になったのである。
大大空もし大大地と敵対する時は恰も両手が両足を非難するが如き愚行となり、これは善に在らず不全にして、天に位置しながらも天国とはなり得ないのである。
素はこれを改めねば天地に楽土は建設されない事を悟り直接行動を決意なされたのである。

平成十一(一九九九)年十月二十日 旧九月十二日 記す 



「選ばれた大地」


 そこは大宇宙の全てが交わる所。善悪美醜の差別無く、何もかもがここを介して通い合う。
昇華するのも落第するのも、全てがそこで決定する。
そんな聖地ともいうべき場所で最も幅を利かせていたのは、人間という生き物達だった。
彼等はこの三百年程の間に驚嘆すべき技術的進歩を遂げたが、彼等がそこを地球という風に呼び始めてから、まだそんなに歴史を重ねていなかった。
五十年ほど前には世界中が取り憑かれた様に軍事競争に参加し、まるで共食いの様に人間同士で殺し合っていたのだが、多くの愚行の末、漸く会議による平和維持に努める様になっていた。
それもこれも彼等が科学文明と呼んでいるシステムが全地球を覆える程に発達して来たからである。
 彼等は地上に境界を設け、幾つかの国家に分れて、互いに交易を通じ、極力協力し合いながら生活していた。
時には争う事もあったが溢れかえる程の人工を滅亡させるまでには至らないでいる。
しかしそんな彼等にも自分達の住む世界が大宇宙にとって重要な場所であるという事に気づく者は少なかったのである。
 この地球を遥か上空から見おろす時、それは青く輝く水晶の様でもあり、その中央に赤い巨人が一人、うつぶせに眠る様に見える。
この赤い巨人は宇宙全体に地上の管理者達の姿を示す様に存在している。
その形はまるで地上の日本という国で使われているカタカナの「オ」の文字の様に見える。
頭に当たる場所はアフリカと呼ばれ、胴体に当たる場所はユーラシアと呼ばれ、右手はユーラシアの一部であるスカンジナビア、北極圏のグリーンランドと呼ばれ、左手はオーストラリアと呼ばれ、右足は北アメリカ、左足は南アメリカと呼ばれていた。
日本という国はユーラシアの東部に当たるアジアの国々の一つで、世界の臍とも、男性器とも言える場所にある。
この日本という国もまた不思議な形をしており、一見「龍馬」の如く、しかしながら赤い巨人そのままに頭、胴体、両手、両足を備えていた。但し左足に当たる台湾という国が、日本の頭の先にあり、まるで女性器の如くそこにあった。
日本に住む人々の中には日本の国土は世界の雛形であると主張している者がおり、彼等は神の預言者と呼ばれていた。
預言者とは神の御言を預かる者という意味で、通常生命と呼ばれる霊によって、眼に見えない神々と連絡をとる特殊能力を持つ人々だったが、世界の国々の力を一応の均衡に導いた科学者達からは怪しき者供として差別的扱いを受けながら、眼に見えない神々との連絡を保っていたのであった。
しかし彼等預言者達の中の優れた者には、大宇宙に対して地球が果たしつつある偉大な使命がありありと見えていたのである。
地球は大空に住む神々の世界と、地下に住む亡者との関所の様な位置にある。
地下に住む亡者が神々の世界に復活するには地上生活を経て試されねばならず、また、天上の神々が地下の亡者達を教導するにも一旦地上に降らねばならないのである。
それは即ち各々人間としての生活をする事であり、それは地上以外では認められない事であった。

平成十一(一九九九)年十月二一日 旧九月十三日 記す 



 神霊界は意志想念がそのまま現れる世界であるから、想念の一致しない霊界からは自動的に離れる様になっているので、正反対の想念が交わる事は決してないのである。
想念の境界を超越して往来出来るのは霊国の天使、菩薩のみで高位天国の神々が降臨して来る事はないのである。
高位の神々の意志を伝達するのは天使、菩薩の仕事である。
また地獄魔界の妖怪も天使、菩薩に化けて天国に侵入する事があるので、これを監視するのも霊国の天使、菩薩の任務となっている。
 亡者の陥る地下世界はそのままにしておけば決して向上する事はない。
その不都合を改める機会として地上での人間生活があるのである。
その為大空の所謂宇宙人の中には地球人を忌み嫌う者共もあるのである。
勿論、陰あれば陽ありの法則に基づいてこの勢力を牽制する宇宙人も存在している。
地球はそういう意味でも微妙な位置にあるのである。
 地上人間界の管理は地上の政治家、軍人、事業家等が行うのであるが、こうした霊界の管理は天使の媒体として地上に生まれて来ている人間が無言の内に実施しているのである。
ただし顕界は幽界、神界の写しであるから、幽界で神軍と魔軍との戦いがあった場合にはどうしても顕界にも戦争、天災、人災等として現れて来る様になっているのである。
これをなるべく小規模な結果にするのも天使、菩薩の媒体として生まれている人間の使命で、彼等の祈りはその為に行われるものである。
 霊界では地球を境に神霊界と物質界が区画されている。
故に地上には物質界のみ秀でた人類と、神霊界にのみ秀でた人類が存在しているのである。
地球が大地の中心にある以上、物質界に秀でた人類が地上に繁栄しているのは当然の結果で、彼等は地上の時間軸に合う速度で能力を発揮する事のみを優秀と認めるのに対し、神霊界に秀でた人類は神霊界の時間軸で思考し、能力を発揮するので百年の計は当然の事で、千年、万年、億兆無数の年限の大過去、大現在、大未来を視野にして行動するので、物質界側からは非常に遅鈍に感じられるのである。
これは当然の事で、そうでなければお互いの天職を怠慢している事になるのである。
神霊界での地球創造は五十六億七千万年前に始まったのであり、物質界からの観測では凡そ四十六億年前から始まっているのである。
宇宙人も物質界側と神霊界側とに別れており、お互いに全く異なる知識を有しているものであるから、諸説あるのも当然である。
例え宇宙人であっても大宇宙の主御自身のみより知らない事情に通じているわけではない。
何故なら彼等も素尊の使い神達であるからである。
 大宇宙の誕生が六百六十六億年前であるというのは無限絶対無始無終という事で、決して額面通りの小さな数字ではない。
重い霊素が大大地の地底から現在の地球まで堆積するのに、凡そ六百二十億年以上かかっていると思えば好いので、それから四十六億年かけて選ばれた大地として開拓されて来たのである。
 嘗ては緑の大地だった地上も、現在では赤い大地に変わろうとしている。
緑の大地は酸素を必要とする物質人類にとって重要な物質であるにも関わらず、それが赤く変色して来ているのは、次第に物質人類の生活圏が減少し、神霊人類の生活圏へと変化しつつある兆候である。
赤は血の色であり、血は霊である。
現在生命はいないと公式に報告されている火星も、それは地上的物質生命がいないというだけで、火星の赤が示す通り、神霊人類が主導権を握っている事の証であると考える事も出来るのである。

平成十一(一九九九)年十月二四日 旧九月十六日 記す 



「アメーバ」


 現代、生物の起源はアメーバであるという説が定説になりつつある。
SF等でも外宇宙から侵入して来たアメーバによる恐怖を描いた物が多くあるが、これも強ち被害妄想だとは言い切れないものがある。
現代にはバクテリア、細菌、寄生虫等による被害が多く報告されているが、それを考えればアメーバは生物の起源であるのみならず、生物の仕置き人の様な働きをも兼ねている様にも考えられる。
しかし、もしそうならばこの宇宙にはそのアメーバに目的を持たせる意志が存在している事を認めざるを得なくなるだろう。
 日本は言霊の幸倍う国であると昔から言われているが、言霊とは要するに神の意志である。
そして幸倍うという事は幸を倍やすと云う意味になるので、神の意志による幸の倍する国という事になる。
日本とはヒノモトという事で、ある宗教に依ればそれは霊主体従という意味になる。
しかしもっとシンプルに見るならば「霊の素」という事になるのだ。
この「霊」の文字は「靈」の簡略化された文字であるが、分解すると、

   「雨」
   「口、口、口」「工」
   「人、人」

となる。
「雨」というのは「先天」という事で原初の海、宇宙の原液を意味する。
「口、口、口」は「三つの言」で「ミコト」である。
「工」の文字は「天中地」を意味し、「人、人」は「男女」である。
つまり「靈」とは「先天、ミコト、天中地、男女の全てを含む大宇宙」という事になる。
その「素」であるのだから、「大宇宙の素」という事になるのである。簡略化された「霊」の文字も同じ意味である。
 「アメーバ」の「アメ」は言霊学上「エ」に反る。即ち言霊学上「アメーバ」は「エバ」になるのである。
また「アメーバ」というのは漢字を当てると「雨胞場」という事で、つまり「先天の母」という意味になる。
勿論「先天の母」というと物理的意味合いよりも宗教的、哲学的意味合いの方が強くなるが「はは」の言霊の詰まりは「ば」になる。
「胞」の文字は「月包む」と書くので、要するに「霊体」という事である。
「月」は「活動する日」である。
つまり「アメーバ」は「地」に属する「体」の位置にある。
体は霊に従属するものであるから、「アメーバ」は生物の起源となるのである。
それは生命の起源ではない。
命は「ミコト」であるから「天」に属する「霊」となるものである。
 「アメーバ」は「体」であるから「霊」を主とすれば「幸」を倍する事になるが、「念」を主とすれば「喜怒哀楽」の機関ともなるのである。
アメーバが生物の脅威になるのは念に反応している時である。
喜怒哀楽の念は自己愛に陥った時に起こるものである。
「念」とは即ち「今の心」であるから、即物的且つ刹那的な心である。
 元来、種の保存は天然の調和力によって行われるのであるが、そこに自己愛に基づいた人為が加わると天然の調和を失い、各種間に喜怒哀楽の念が発生し、所謂「怨念」となり、滅ぼされた物が滅ぼした物に報復しようという働きが起きて来るものである。
人類が物質的に偏った計画を実行し続ければ、「霊」が主の位置から離れるので自然アメーバは念の機関となる。
「言霊の幸倍」は霊を主とする天然の大調和力である。
これが主の位置を離れると喜怒哀楽の心も主を失い、自己愛の闘争と化すのである。
今の心を永続的な幸に繋ぐのは「言霊」であり、今の心を即物的且つ刹那的な闘争へ繋ぐのは「言霊」と離れた時である。
日本人は言霊によって世界を大調和に繋ぐので、言霊以外の知識に繋がっている間は非日本人となっているのである。言うまでもなく「言霊」とは「素の意志」である。
 神の天国建設計画とは不滅の幸を齎す事であるから、永遠に属する天の意志である言霊に依らねば、他の何物に依っても成就される事はないのである。
外国人がこれを理解しても神は働けない。
日本人がこれを理解しなければ「アメーバ」は幸倍う事はないのである。

平成十一(一九九九)年十月二六日 旧九月十八日 記す 



「アダムカドモン」


 旧約聖書によれば「アダム」の語源は「アダマー」で、それは「土」という意味である。
「アダマー」の訓を日本語に当てはめれば東北訛りの「頭」に近い。
「頭」は「一霊四魂」の「一霊」に当たる。これは言霊学上「直霊」と記して「なおひ」と読むのである。
「土」は「つち」「ど」と読むが、「頭」は「とう」「づ」と読む。
「つち」は即ち「頭霊」である。大地を構成するのは「使い神の亡骸の堆積」である。
それは「積み」となると先に記したが「つみ」は「頭体」という事になるのである。
ちなみに「アダムの堕落」は言霊学上「曲霊」と記して「まがつみたま」と読む。
 「カドモン」は原人という意味と別に魂という意味がある。
言霊学上「カドモ」は「コ」に反る。これは「子供」の語源ともなる。
また「カド」とは「角」という事で「モン」は「門、者、物」である。
幾何学では直角は全て九十度で四角形の四隅にある。更に「物」は「体」である。
即ち「アダムカドモン」は「一霊四魂一体」という意味になるのである。
 「素」の常立ちにより始まった大宇宙の誕生は、その手足となった使い神達の活動に依り天地創造に発展した。
「素」は天に一組、中に一組、地に一組の長神を設けた。
これは夫婦一対が一組となり、それぞれの区域の親方になったのである。
この天中地は縦に三段、横に二極に細分化され、総じて三六(ミロク)世界と云う。
天の天国は第一、第二、第三天国に大別され、更に天の霊国は第一、第二、第三霊国に大別される。
中の天国は中有と呼ばれ、政治系(経済系を含む)、科学系、芸術系に大別され、更に中の霊国は神道系(儒教系を含む)、仏教系、キリスト教系に大別される。
地の天国は底の国と呼ばれ、各第一、第二、第三に大別され、更に地の霊国は根の国と呼ばれ、各第一、第二、第三に大別されるのである。我々の住む現界は中有に含まれる。
 中有に最も近い天の霊天国は第三霊天国であり、地の霊天国は第三根底の国である。
天には天のアダム・エバが居り、地には地のアダム・エバが居る。
中有のアダム・エバは生命は「頭霊」に依って創造され、肉体は「頭体」に依って半獣半人的人間として創造された。
中有のアダムとエバは先ず肉体が完成してから、精霊が納まり天の霊天国に向けて主神直々に教育する予定であったが、アダムもエバも供に精霊が収まる前に誘惑を受けて堕落したのである。
アダム二十二歳、エバ十二歳の時の出来事で、肉体の完成する八年前の事だった。
その後アダムとエバの婚姻により子孫が繁栄したが、精霊の不完全な収納状態が続いたのである。
この状態を神の宮という。
 イエス・キリストが人類史上初めての神の子と呼ばれるのは、初めて完全な精霊の収納が成就したからで、犠牲時代の終了の徴として、初めての神の子として自ら捧げ物となり後の世を神の国に復帰させる為の新たなる契約を主と結んだのである。
その事情を知らない後世の支配者達は多くのキリスト教者を犠牲にしたが、それは不滅の霊と無縁な行為であった。
不滅の霊は肉体の死と供に霊界のパラダイスに移住しているのであるから、彼等が地上に復讐的怨念を持つ事は無いのである。
時々ポルターガイストと呼ばれる悪霊の中にこうした復讐的怨念を持ち出す専門家がいるが、それは実は殺した側の自責の念が結晶して動物霊を機関に使い地上に恐怖を現しているのである。
 霊はあらゆる生物に与えられている。
対して魂は神の子にのみ与えれる物で、この魂が正しい霊と結んでいれば善を行い、歪んだ霊と結んでいれば悪を行う。
怨念が動物霊を使うのは魂の代わりにしているのであるが、人魂には懸かれない様になっているのである。
 言霊学上アダムとエバの肉体は男女の区別無く「吾女胞場」となる。
エデンの園で先ずエバが誘惑に負けたという事は、肉体の誘惑に負けた事の比喩である。
序でアダムがエバの誘いに負けたという事は、肉体の誘惑に負けたので直霊が曲霊になったという事の比喩なのである。
だからアダムとエバの堕落からの復帰は、ただ単に女であるエバが男であるアダムを誘った事で天地の順序を失したのだから、全て男を先にすれば成就するという様な問題ではない。
男女が肉体の誘惑に勝利して、曲霊を直霊に立て直し、正しくアダムカドモンの位置に立ち返る必要があるのである。
要するに一霊四魂一体を完成するのである。
 肉体の誘惑は全て大地下の魔王から発せられるので、天上に上昇しようとする精霊を死滅させて大宇宙全体を大地にしようと企んでいるのである。また逆に天上の大王は地下の亡者を天上に復活させて大宇宙全体を大空にしようとしているのである。
しかし素の意志は中有の完成にあるので、場合に依っては大空の大王と大地の魔王を牽制しながら地上に天国を完成させようとしておられるのである。
中有の完成は大霊界大宇宙の完成を意味する。
依ってメシアは地上に降るのであり、地上に於いて神々と魔界からの試練を克服して手間のかかる仕事をして行くのである。


平成十一(一九九九)年十月二七日 旧九月十九日 記す 





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