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1 「…オレ、平山さんに会えて良かったな〜って思うんだよね」 ぼんやりとテレビを見ていた神波が、突然ぽつりと呟いた。床の上に腹這いに寝そべって、両手の上に顎を乗せたままの姿勢で。その声は小さく、テレビの音にかき消されそうな位だったから、もしかしたら、ただの独り言だったのかも知れない。 「……ん? オレもカンに会えて良かったよ?」 平山がそう応えると、神波は弾かれたように顔を上げた。目を見開いて、平山の顔を凝視している。 最近の神波は少し情緒不安定だった。突然笑い出したり、そうかと思えば鬱ぎ込んだりを繰り返している。番組の収録中でも、時折笑顔が消えるのが気がかりだ。 「どした? カン。そんなにビックリした顔しなくても良いだろ? オレ、何か変なこと言ったか?」 神波の顔を覗き込んで、安心させるように笑って見せた。頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、そこはグッと堪える。神波は小柄な上に童顔で、実年齢よりもかなり若く見えるが、実際には三十を間近に控えた立派な成人男性だ。そんな子供扱いをしたら、きっと怒るに違いない。 「……ううん、違うよ、平山さん」 「うん?」 神波の顔がクシャリと歪む。今にも泣き出しそうな表情に胸を突かれた。彼の言葉の意味が分からなくて、平山は戸惑う。 「何が違うんだ?」 「平山さんと、オレは違うんだよ…だから……」 そのまま口を噤んだ神波に、何と言葉を掛けてやればいいのか分からない。神波はそのままゴロリと転がって平山に背を向け、膝を抱えて丸くなった。その姿は、まるで平山を拒絶しているようで、胸が鈍く痛んだ。 「……カン、そんなトコで寝たら風邪ひくよ。寝るなら布団入って…」 平山の部屋に神波が遊びに来るのは初めてではないし、泊まっていくことも今までに何度かあった。 大家族の中で育った神波は、一人暮らしに憧れていた反面、きっと寂しい事も多いに違いない。だから上京してきてすぐ親しくなった平山の部屋へ、足繁く通ってくるようになったのだろう。平山にとっても、無条件で懐いてくれる神波がまるで弟のように思えて、彼が訪れてくれるのはささやかな楽しみの一つとなっていた。 「ほら、カン…」 出来るだけ優しい声を作って、神波をベッドに誘った。神波の兄をイメージして、大事な弟に接するような手つきを心掛ける。 以前、神波が彼の兄について話してくれたことがあった。神波は自他共に認める「お兄ちゃんっ子」なのだそうだ。得意げに頬を上気させて、兄の話をしていた。 以前、神波の実家へ遊びに行った際に会った彼の兄の顔を思い出す。流石に兄弟だけあって、よく似た顔立ちをしていた。神波の兄が弟を溺愛しているという事実など、彼の眼差しを見れば、どんなに鈍いヤツだって一発で見抜くに違いない。そして、神波が兄に対して全般の信頼を寄せているということも。 「カン…、寝ちゃったのか?」 いつまで待っても返事がない。ここしばらくスケジュールが混んでいたし、いくら元気な振りをしていても、心身共に疲れが溜まっているのだろう。 平山自身も猛烈な眠気に襲われた。壁に掛けられた時計を見上げれば、日付が変わる時間は疾うに過ぎている。 「ヤベ、オレ明日早出だった…」 神波は何時に出勤なんだろう? こんな時、時間に不規則な仕事は不便だ。だが、平山の部屋に遊びに来るくらいだから、少なくとも朝一番の仕事は入っていない筈だ。それなら平山が出勤するときに起こせば、充分間に合う。 そう勝手に当たりをつけて、丸くなったまま眠る神波に手を伸ばした。ベッドに運んでやらなければ風邪をひいてしまう。 「…よ、っと…」 神波を抱え上げて、その軽さに驚いた。小柄だから、という理由では片付けられないほどに軽い。眠る神波の首元に目をやれば、細い肩に鎖骨が浮き出ていた。 心なしか顔色も青ざめている。 「…なんか悩んでんなら…なんで言ってくんないんだよ」 眠る神波に言葉をかけても、当然ながら返事はない。だが、それが神波の答えのような気がして、平山は唇を噛み締めた。 2 局内の喫煙ブースで、平山は大きく溜息を吐いた。久しぶりに早起きをしたので、頭が重い。煙草を銜えて、虚ろに天井を見上げる。 「あ〜……」 脳裏を掠めるのは小柄な友人のことばかり。今朝の神波は、いつも通りだった。昨夜のことなど忘れたかのように、元気に手を振って帰って行った。聞けば、仕事は夜から予定されている「野猿」としての仕事のみなので、一旦自分の部屋に戻ってから出直すという。一度帰るのは手間になるから出勤の時間まで部屋にいても良いと告げると、彼は首を振って「だって、鍵どーすんのさ」と笑った。合い鍵を渡す、と平山が提案したら、神波は泣き笑いのような顔をして「要らない」と応えた――…。 「…要らない……って、結構クるな〜…」 火を点けるでもなく、銜えたままの煙草のフィルターをガシガシと噛む。ほろ苦い味が口の中に広がって、平山は眉を顰めた。 「なにが要らないって?」 突然、背後から声をかけられて驚く。首だけ回して声の主を確認すると、そこには星野が立っていた。 「あれ、早いですね」 「おぅよ。ちっと余裕あったかんな。たまにゃ早く来て普通のスタッフのお前らを見んのも、ま、一興かと思ってよ」 ロケバスの運転手である星野は、所謂美術スタッフの平山達とは違って、野猿活動以外ではスタジオには殆ど用事がない。 星野は平山の隣に腰を下ろし、自分も胸ポケットから煙草を取りだした。 「んで? 何が要らないって?」 平山が差し出したジッポを受け取り、心持ち首を傾げて火を付ける。立ち上る紫煙が、ゆらりと天井付近に溜まった。 「いえね、合い鍵渡そうとしたら、要らないって言われちゃったんですよ」 「ああ? お前、そんな簡単に合い鍵なんか渡したら入り浸られんぞ」 「今でも入り浸られてるんで…」 「そりゃ、お熱いねぇ!」 星野の言葉には、思わず苦笑してしまった。星野は合い鍵の相手が女性だと思ったらしい。何となく、相手が神波だということを言い出しにくくなり、曖昧に言葉を濁す。 「平山ちゃんに彼女が居たたぁ知らなかったぜ。まぁ、あんだけモテてりゃ選り取りみどりだろーけどな」 「いやぁ、そんなんじゃないんですけどね」 「合い鍵云々っつー話題が出るくらいなら、相当なモンだろーよ。…ああ、もっとも、フラレたんだったか?」 「え…?」 意外な台詞に驚く。いつの間に、そんな結論になったのだろう? ビックリした拍子に口から煙草が落ちた。それをノロノロと拾う平山に対して、星野は「あ、悪ィ悪ィ」と口先だけで言って笑った。全く心が籠もっていない。 「だって、お前。合い鍵断られるっつーことは、相手は『そーゆー関係』を望んでねーつーこったろ?」 後頭部をハンマーで殴られたようなショックを受けた。星野の言う『そーゆー関係』がどんな関係なのかは別として、神波に合い鍵を断られたと言うことは、神波は平山のことをさほど親しい友人だとは思っていない、ということになるのではないだろうか? すぅっと、胸の裡が寒くなった。手の中のジッポが奇妙に重い。 言われてみれば、なんとなく心当たりがあるような気もする。近頃の神波は、平山の部屋に居ても殆ど喋らず、ぼんやりと考え込んでいることが多い。 それに、そうだ、昨日の言葉―――――…。 ―――――「平山さんと、オレは違うんだよ…だから……」 それは、『友情』に対する認識の違いだったのか? 平山は神波のことを無二の親友だと思っていたのだが、彼はそうは思っていないという意味なのだろうか。 人当たりが良い神波は、友人も多い。神波にとっての平山は「沢山いる友人の中の一人」でしかないのかもしれない。 「あ、成る程…そ、そーですね…は、はは…」 「平山ちゃん、笑い声が渇いてんぞ」 星野は人の悪い笑みを口の端に浮かべている。そんなポーズも、こんな時は変に同情される方が辛いものだと知っているからこその、星野なりの気の使い方だと分かっているから、別段腹は立たない。 ……しかし。 自分でも驚くほどのショックを受けた。情けないことに、気を抜いたら涙が出そうだった。 「ま、元気出せや」 「…はぁ……」 もう煙草に火を点ける気分にもなれない平山は、フィルターに歯形の残るそれを、緩慢な動作で灰皿に押し込んだ。 3 神波は小さく溜息を吐いた。廊下のリノリウムに蛍光灯が白く光る。 今朝、平山の家を出てからというもの、胸の裡が重い。その理由は分かっている。 「平山さんが悪いんじゃん。あんなコト言うからさ…」 平山の笑顔が恨めしかった。「合い鍵あげるよ」なんて気軽に言ってのける迂闊さが憎い。平山が純然たる好意で言ってくれていることは分かっていた。彼が誰かを陥れたり欺いたり出来るほど器用な大人ではないことは、もう知っている。 だが、だからこそ平山の申し出を素直に喜ぶことは出来なかった。 「…誰にでも言ってんじゃないの、あーゆーこと」 口の中で呟くと、それが事実であるように思えてくる。手先は異常なほど器用な癖に、こと対人となると驚くほどに不器用な平山のことだ。頼まれれば厭とは言えない性格だけに、他にも合い鍵を渡している相手が居るのではないかと疑いたくもなる。 平山が誰に合い鍵を渡していようと神波には関係ないし、拘わる権利もない。それは百も承知の上で、胸に沸き上がる暗雲を払うことが出来ずに、神波は唇を噛んだ。 上京してきて直ぐに平山と知り合い、面倒見の良い平山に甘やかされるような形で仲良くなった。あの頃は、初めての一人暮らしで不安と寂しさに潰されそうになっていた。だが兄の反対を押し切って家を出てきた手前、おめおめと逃げ帰るわけにも行かず、殊更平山に頼っていたことは否定できない。何かにつけて理由をでっち上げては遊びの計画を持ちかけ、食事に誘い、泊まりに行った。 だが、いつまでもこのままで良いはずがない。誰からも頼りにされる平山にとっては、神波など手の掛かる友人という立場でしかないに違いないのだ。 神波は肩を落としたままレッスン室に入り、部屋の隅に置かれていた椅子に腰掛けた。 「はぁ…」 無人のレッスン室は酷く広く、嘘寒い。少し早く来すぎたのかも知れない。壁一面に貼られた鏡が、背中を丸めて座る神波の姿を無機質に映している。 「背ちっちぇんだから、せめて背筋伸ばしてろ…って、言ってたっけ…」 昔、兄に言われた言葉を思い出す。兄も神波同様さほど上背はないが、何故かいつも大きく見えた。常に前を向き、胸を張って立つ兄は、神波の憧れだった。 今、鏡の中に写る自分は、兄の姿とは似ても似つかない。親戚や友人、ファンの子たちからは「似ている兄弟だ」と言われ続けてきたが、あの兄と一体どこが似ているというのだろう。どんなに頑張っても、兄には近づけない。追いつけない。 もしも自分が兄のようだったなら、平山に面倒を掛けずに済んだのだろうか。「合い鍵あげるよ」なんて言わせずに済んだのだろうか…? 考えれば考えるほど、自己嫌悪の波に飲まれそうになる。慌てて頭を振り、思考を切り替えようと努めた。他のメンバーが練習に出てくる前に、いつも通りの自分に戻っておかねばならない。 「あれ、カンナミさん早いっスね」 間一髪。入ってきたのは大原だった。 大原の長い手足。どうして自分には其れが与えられなかったのだろう。人を羨んでも仕方のないこととは分かっている。でも頭と心は別物だ。 鼻歌を歌いながらゴソゴソと着替え始める大原の脇腹を軽く小突いた。ささやかな八つ当たりだ。大原は脇腹を撫でながら「何スか? 今の」と首を傾げる。それには笑って誤魔化し、神波も着替えの入ったバッグを開けた。 ※ ※ ※ ※ やがて徐々に人が集まり、レッスン室は俄かに活気づく。なにしろ野猿だけでも11人。その上、ダンスの先生や番組スタッフの仲間達、興味半分の見物人などが入り交じり、雑多な声と軽快なリズムが部屋中を満たした。 神波の視界の端に、部屋に入ってくる平山の姿が見えた。慌てて目を逸らしたが、結局は正面の大きな鏡に部屋中全てが映っているのだから意味がなかった。 いつも通りの柔和な笑みを浮かべながら、幾人かと挨拶を交わしている。平山を慕う者は多い。彼を知る人ならば、誰でも彼には好感を抱くだろう。平山と初めて会ったときの神波のように。 自分以外の誰かと談笑する平山を、これ以上見ていたくなかった。そして無意味に嫉妬心を燃やす自分が後ろめたかった。 「別に独り占めしたいワケじゃないんだけどさ…」 いつの間にか、平山と一番仲が良いのは自分なんだと自惚れていた。けれども、そうでは無いことなど少し考えれば分かることだ。平山の周りには常に誰かしらが居たし、平山はいつも笑っていた。独りぼっちで肩を落とす姿など想像もできない。例え、もしも神波が今日限りで姿を消しても、平山には何の痛手も与えることは無いだろう。 そう考えると無性に惨めな気分になった。そんなことばかり考える自分が厭になった。こんな自分だから平山には釣り合わないのだと思った。 4 いつもなら元気いっぱいでレッスン室を走り回っているはずの神波が、休憩時間ともなると部屋の片隅で陰気に煙草をふかしている。誰もがそれに気付きながらも、神波の思い詰めた表情に圧され、彼に話しかけられずにいた。その分、問いは平山に向けられることとなる。 「平山さん、カンどーしたんです?」 成井に尋ねられ、平山は曖昧に笑って首を捻って見せた。 「さぁ…、俺にもサッパリ。腹でも痛いのかねぇ」 そんな答えで成井を誤魔化せたとも思えなかったが、彼なりに何かを察したのか、それ以上の追求は無かった。 誰に何を聞かれても、そんな程度にしか答えられない。それは仕方が無かった。平山にさえも、神波は悩み事をうち明けてはくれなかった。彼にとっての自分はその程度の友人でしかなかったのかと思うと、力の及ばない己が無性に腹立たしく感じた。そして合い鍵を断られたことを思い出し、同時に星野の要らぬ台詞まで思い出して、思わず唇を噛みしめる。それが口惜しさからなのか、寂しさからなのか、もしくは怒りからなのか、平山自身にも分からなかった。 そんな平山の胸中を知ってか知らずか、網野が近付いてきて目の前で大仰に溜息を吐いてみせる。 「んなトコで突っ立ってても、何も変わんないんじゃねーの? 早いトコ謝っちまえ」 「別にオレら、喧嘩してるってワケじゃ…」 「だったら尚のことだろ。カンが元気無いと、みんな調子狂うんだから」 お前の管轄だ、とばかりに肩を叩かれ、平山は複雑な思いで網野から目を逸らした。 網野の目から見ても、自分たちは無二の親友に映るらしい。勿論、自分もそう思っていた。だが、あの小柄な友人にとっては自分の存在など採るに足らない物かも知れないのだ。 そう考えると胸が痛んだが、確かに網野の言う通り、ここで突っ立っていても何も始まらない。帰りに神波を捕まえて、話を聞こう。考えるのはその後だ。平山は腹を据えた。 5 練習が終わっても、神波はレッスン室でぐずぐずと時間を潰していた。先ほどから平山が何か話したそうにこちらを窺っているのが分かったのだが、今は何も話したくない。今、平山の前に立てば、醜い自分をさらけ出してしまいそうな気がする。 まさか「他の誰とも話さないで欲しい」と懇願する訳にもいかず、自分を一番に扱って欲しいと願うことさえ愚かなことだとは分かっていた。 やがて他のメンバーに促されるようにして平山の姿も廊下に消えると、ようやく神波の肩から力が抜けた。 「何やってんだろ、俺…」 鏡を覗けば、怯えた目をした男がこちらを見返している。 こんなことはくだらない。逃げ回っていても、同じ職場に居る以上、いつか平山と顔を合わせねばならないだろう。だが、今すぐは駄目だ。もう少し心構えが出来てからでなければ。平山に切り捨てられたとしても、耐えられるだけの覚悟を決めるまでは。 神波はノロノロと服を着替え、帰路に就いた。町はすっかり宵闇に包まれ、汗に濡れた身体に夜風が冷たい。 「さむ…」 首を竦めたところで、何か微かな音に気付いた。細い声…? 子供の泣き声にも聞こえて一瞬背筋が凍るが、直ぐに子猫の鳴き声だと分かった。道端に潰れかけた箱が置かれ、中に薄汚れた毛玉が入っている。よく見るとその毛玉は小刻みに震え、時折首を上げて弱く鳴いた。 「捨てられちゃったのか?」 神波は箱の上に覆い被さるようにして座り込み、その小さな生き物を掬い上げた。手の中に収まってしまうほど小さな猫。薄汚れてはいるものの、恐らくは白い毛並みなのだろう。持ち上げると痩せた猫の骨が感じられ、小刻みに震えるその弱さと、なま暖かい体温に胸が痛んだ。こんなに小さいのに。頭が小さく、鼻先が丸いその猫は、まだ生まれたばかりのように見えた。運命に抗う術もなく、ただ身体を丸めて眠るしかできない小さな猫。その姿は、誰かに似ている―――――…。 一度手にしてしまった温もりは離し難く、神波は観念するように溜息を吐いて、猫を上着の胸元に入れた。上着の上から軽く撫で、「安心しろよ」と小さく呟く。 アパートはペット禁止だったが、せめて大家に見つかるまではこっそり飼えるだろうと考えた。これだけ小さければさほど場所も取らないだろうし、猫を飼うのは初めてだったが、実家では犬を飼っていたから世話も何とかなるだろう。 なにより、今ここで置き去りにすれば、数時間も持たずに死んでしまうのではないかと恐れた。猫は似ているのだ―――――神波に。 例えば、身体を丸めて震える姿が。 「何してんだ?」 背後から肩を叩かれ、心臓が膨れ上がるほど驚いた。反射的に振り返り、そこに平山の姿を見つけて、今度は一気に心臓が縮み上がる。 「そ、そんなに驚かなくても…」 神波の様子に平山の方が驚いたのか、眼鏡の奥で目を瞬かせている。 「な、な、なんでこんなトコに…」 「何でって、カンを待ってたに決まってるっしょ。遅かったなぁ」 それは平山が出ていってしまうのを待っていたからで、遅くなった理由を説明することもできず、神波は口の中で言葉にもならないような単語をモゴモゴと噛んだ。 「カン、今日元気なかったからさぁ。シュウに様子見てこいって言われたから」 網野に言われなければ来なかったと言うことだろうか。そう考えるとまた胸が痛む。 「別に、普通だけど」 「そうかなぁ、顔色悪いぞ?」 採るに足らない存在なら、そんなに優しくしないで欲しいと思った。誰にでも親切な平山だから、彼にとっては別段意味のない行動なのだろう。けれども好意を受ける方は誤解してしまう。自分だから…自分にだけ優しくしてくれるのではないか、と。 「もし、どっか具合が悪いんだとしても、平山さんには迷惑かけないよ」 だから、もう構わないで欲しい。平山の心配そうな表情を目にするだけで、愚かにも期待してしまうから。 平山に背中を向けて歩き去ろうとした神波は、後ろから首根を掴まれ、引き戻された。 「うわっ…!」 突然の出来事に、抗議の声すら上げられなかった。背後から引いたのは平山には違いないのだろうが、彼が直接行使に出るとは想像しなかったので驚いた。どうやら平山自身も驚いたようで、自分の掌を眺めて口を開けている。 「す、すまん…カンが行っちゃうと思ったら、つい…」 「つい…って」 「あ〜、ビックリした」 それはこっちの台詞だ。咄嗟に懐の猫を庇おうとしたために大きくバランスが崩れ、地面に転がらずに済んだのは偏に日頃の鍛錬の賜に他ならない。 だが、その平山の台詞には思わず気が抜けた。平山には人をリラックスさせる特殊能力がある。 観念して、改めて平山に向き直った。最後通牒を渡されるのは気が進まないが、遅かれ早かれその瞬間が来るのなら、早く済ませてしまった方が気が楽になるかも知れない。 「……………分かりましたよ。何か話があるんですね」 そう切り出すと、平山の眉が寄せられたのが分かった。やっぱり楽しい話題では無いらしい。 神波が小さく溜息を吐くのと、平山が意を決したように口を開くのは同時だった。 「あのさぁ。何でオレんちの鍵、要らないの?」 「…………は…?」 その台詞はあまりにも意外過ぎて、神波は呆然と平山を見上げた。 「鍵だよ、鍵。お前、要らないって言ったから」 確かに言った。合い鍵など受け取れないと。だが、それが一体何だというのだろう。平山のアパートの合い鍵を欲しがる人など山ほど居るだろうし、神波が受け取らなかった分は他の誰かに渡せば良いではないか。 そう考えると胸が痛んだが、務めて平静を装い、そのままを口にした。 「他の誰かにあげれば良いじゃないですか」 「…え? ……………誰に……?」 途方に暮れた表情で首を傾げる平山に、またも胸が痛む。気を緩めると涙が出そうだった。 「誰でもですよ。欲しがる人なんか多いでしょ」 「ヤダよ、何で他のヤツに鍵やらなきゃなんないの」 「………え? 誰にでもやってんじゃないの?」 「やらないっしょ、普通」 「………」 「………」 一瞬、奇妙な沈黙が流れた。 神波の脳はフル回転で今の会話の意味を理解しようとしていた。何か、自分にとって都合の良い言葉を聞いたような気がする。それは気のせいではないか? 都合良く取り違えただけの、別の意味を持つ言葉ではなかったか? 考えすぎて耳から煙が出てくるのではないかと思った。神波は、ただ一言しか言えなかった。 「………は……?」 ※ ※ ※ ※ 奇妙な沈黙が流れた後、神波の口から漏れた間抜けな一言に、平山は軽い目眩を感じた。朧気ながら、全体像が見えてきたように感じる。どうやらお互いに、何やら些細な齟齬をきたしていたようだ。 「えっと…状況整理しよっか…?」 平山が小声で提案すると、神波は力無く首を横に振った。今更、という意味らしい。 「じゃ、鍵、要る?」 何故、神波に鍵を手渡すことに拘るのか、我ながら可笑しいとも思ったが、やはり神波には持っていて欲しかった。鍵は己の分身だ。神波が鍵を拒絶したとき、まるで平山自身を全否定されたように錯覚した。 あれが神波以外の誰かだったとしたら、あれほどまでショックを受けたりはしなかっただろう。 神波は緩慢な動作で手を出し、小さな声で「ください」と言った。 平山はその掌に用意しておいた合い鍵を乗せ、無くさないように念を押す。 「ウチに泥棒が入ったら、カンのせいだからな。オレんちの鍵、オレとカンしか持ってないんだから」 「……平山さんが無くすかも知んないじゃん」 「それはない」 「何で」 「オレ、今まで無くしたことないもん」 「何の根拠もない自信じゃん、それ」 ようやく神波も笑った。早速、キーホルダーに平山の部屋の鍵をつけている。 全く、網野の言うとおり。突っ立ってるだけでは何も変わらない。話してみれば何のことはなかったのに。平山は大きく息を吐いて、空に向かって伸びをした。 ※ ※ ※ ※ 「……ところでさぁ、さっきから気になってたんだけど、お前ハラに何入れてんの?」 「あ…」 神波の上着の中で、猫はすっかり眠っていた。起こさないように覗き込むと、小さく身じろぎをする。 「さっき、そこで拾って…」 「拾って…って。お前ンとこ、動物ダメじゃなかったっけ?」 「そうなんですけど…だって、いっぺん目に入っちゃったらもう置いとけませんって。死んじゃうもん、こんな小さいのに」 今更、元の箱の中には戻せなかった。安心しきった顔で眠る子猫に、情が移ってしまった。 「そりゃそーだけどさぁ。大家さんに見つかったらどーすんの」 「見つかってから考えます」 「あのな…」 呆れ顔の平山に、神波は慌てて背を向ける。猫を取り上げられるのではないかと恐れたのだ。現実的には、猫を持ち込んだことが大家に知れれば、その時点でアパートを追い出されるだろうとは分かっている。けれども、それならそれで仕方がない。誰が何と言おうと、たとえ平山が正論を吐こうとも、絶対に猫を手離す気はなかった。 「イヤですからね! こいつオレんですから。連れて帰るって決めたンですから!」 「ダメだよ。ルールは守らなくちゃ」 「でも、ヤです! じゃぁ、コイツが死んじゃうのもルールだから仕方ないって言うんですか」 「死んじゃうとは限ンないじゃん。逞しく野良になるかもしれないし」 「死にますよ! こんな小さいのに!」 「何で悪い方に決めつけるかな〜…」 「だって…」 平山の言うとおり、猫が自然界で立派に生き延びる可能性も無いとは言い切れない。だが、絶対ではないのだ。生き延びることができない可能性だって、何パーセントかは残っている。そう考えると、もう駄目だ。この小さな生き物を手放すことはできなくなる。 唇を歪めて神波を睨んでいた平山は、ふいに両手を上げた。まるで「降参」とでも言うかのように。 「んじゃ、こーしよう。カンはその猫を拾う…と」 平山は猫を覗いて、ニッコリと笑う。安らかに眠る子猫を目にして、顰め面で居られる人は少ないだろう。 「んで、オレはコレ拾う。ね。一件落着〜」 言いながら、神波の首根っこを猫掴みし、平山は一人でコクコク頷いた。 「……ちょっと、平山さん…」 「何」 「コレ、って…」 「見ての通り」 「オレ?」 「そう」 当然至極とばかりに頷く平山の腕を振り解き、神波は牙を剥いた。 「オレ、猫じゃないっスけど?!」 「そんなことは知ってるよ」 「じゃ、何でオレを拾うンですか!」 「…落ちてたから」 「落ちてねぇよ!」 「落ちてたっしょ〜。気持ちが、さ」 指先で胸元を軽く突かれ、二の句が継げなくなる。平山の言うとおり、ついさっきまで気持ちがドン底に落ち込んでいた。しかし、だからといって「コレ」呼ばわりは無いだろう。 「元気なのは結構だけどさ、そう怒るなよ」 平山は神波の懐からヒョイと猫を取り上げ、その顔を間近で眺めた。 「まだ起きないよ、コイツ。根性座った猫だなぁ」 「返して下さいよ」 「だ〜め。カンはオレが拾ったんだから、カンのものはオレのモノね。ほら、オレんち大家さんも猫飼ってるからさ、交渉すればコイツも飼えると思うんだよね。つーことで、オレんとこ置くって事でどう?」 どう? も何もなかった。 「合い鍵が早速役に立つじゃん。コイツに会いたくなったら、いつでも会いに来られる」 後日、平山に依って「カギ」なるストレートな名前を付けられることになるその猫は、ようやく目を覚まして小さく「にゃあ」と鳴いた。 |
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