one's bruised heart.

 平山がドアを開けると、そこには何か書き物をしているらしい成井の 背中があった。心持ち身体を傾けるようにして、一心に手を動かしてい る。まるで、何かから逃れようとしているかのように。
「成井」
 平山が躊躇いがちに声を掛けると、ようやく来客に気付いたのか、驚いた顔で振り向いた。
「あ…れ? いつ来たんですか?」
「今さっき。なんか忙しそうなのに、邪魔して悪い」
「ああ、いえ。別に急ぎの仕事じゃないんで。…あ、何か飲みます?」
 成井は席を立つと、部屋の隅にある小さな冷蔵庫から缶コーヒーを2本取り出し、 1本を平山に差し出してくれた。それを遠慮なく受け取り、プルを上げて一口飲む。 冷たい液体が喉を通っていのが心地良かった。
「いやぁ、デスクワークも辛いですね。じっと座ってるばっかりで身体が鈍りそうです」
 眉根を下げて笑う成井に、苦渋の表情はない。それを見て、平山は少しだけ安心した。
「毎日、何してんの?」
「え〜。伝票書いて、ハンコ押して、また伝票書いて、ハンコ押して。その繰り返しです」
「ふ〜ん」
「ま、仕方ないですね。ココがコレじゃ…」
 自嘲気味に胸を押さえて、成井が笑う。
 今、成井の胸には孔が空いているのだそうだ。それを石橋から聞かされたときは、 俄には信じられなかった。確かに不調を訴えていた成井ではあったが、まさかそんなに 大変な状態になっていたとは、成井自身さえも思っていなかったはずだ。
 医師から絶対安静を言い渡され、数日間の自宅療養を経て、 ようやく職場に復帰したものの、まだ現場に出ることは許されない。 事務所に一人残り、伝票と格闘するしか無いらしい。
 大原に成井の様子を尋ねてみても、大原も黙って首を振るばかりで埒が明かない。 恐らく、どう表現していいのか分からないのだろう。「適当なコト言うワケいかないんで」 というのが彼の言い分だった。表から症状が見えるわけではないので、 彼の言うことにも一理ある。
 だが、居ても立ってもいられなくなった平山は、セットの建て込みを終わらせ、 その足でこの事務所を訪れてみたのだった。
「どうなの、様子は」
「ん〜。やっぱり代々木には間に合いそうにないですね。下手したら大阪も駄目かもしれない」
「…そうか…」
「すいません、迷惑かけて」
「あ、いや。迷惑なんて思ってないよ、誰もさ」
 野猿の撤収を控えた今、成井がステージに立てないと知ったメンバーの 動揺は計り知れない。特に石橋の落胆は目に見えて大きかった。 尊大な態度をとっているように見られがちな石橋だが、本当は誰よりも 繊細で傷つきやすい人間であることは、スタッフの間では周知の事実だった。 石橋は訳もなく責任を感じて落ち込んでいるのだろう。 落胆を表に出さないように平静を装ってはいるが、彼が悄然としているのは 誰の目にも明らかだった。
 今は成井がステージに立てない危険性も考えて、10人でのフォーメーションを練習している。 だが、本当は誰もそのフォーメーションでは踊りたくなかった。 いつも通りの11人のフォーメーションでステージに立ちたい。
 そう思っているからだろうか、メンバーの練習にも覇気が無いように平山には感じられた。
 しかし、誰よりも辛いのは他でもない成井自身だろう。 それが分かっているから、誰も不平を口にはしなかった。
「野猿って、大きいステージの前になると、何かトラブルありますね」
 成井が思い出し笑いを漏らす。
 言われてみれば、確かにそうだ。一回目の紅白出場直前には大原が体調を崩して倒れていた。 二回目の時は石橋が倒れた。香港でも石橋が寝込み、洞爺湖ライヴでは嵐に見舞われた。 他にも小さなトラブルは数知れない。
 だが、今まではどれもギリギリで回避してきた。だからこそ今では笑い話にできる。
「でも何より身体が一番大事なんだから、無理しないでキッチリ休めよ」
「はい、そうですね」
 成井が「平山さんは心配性だ」と笑う。その表情に翳りはなかった。
「そう…か。仕事の邪魔して悪かった。あ、コレご馳走様」
 空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り込み、現場に戻ろうと席を立つ。 その平山の足を、成井の声が止めた。
「平山さん」
「…ん?」
 思い詰めたような声だったのに、成井の表情は相変わらず穏やかだった。
「あの、今、カッター持ってます?」
「え? あ、うん。持ってるけど?」
 平山の仕事道具であるアクリルカッターは、いつも腰ポケットに入っている。
「テープも?」
「あるよ」
 成井の真意が読めず幾分戸惑いながらも、 平山はベルトにぶら下げておいたテープを示してみせた。
「少し借りても良いですか?」
「良いけど…。でもこのカッター、文房具じゃないから切れ味が鋭すぎて、 デスクワークには向かないぞ?」
 そう言いながら、大降りのカッターを手渡す。
「良いんです。切るのは紙じゃないから」
 受け取った成井は、おもむろに着ていたTシャツをたくし上げた。 胸にカッターの刃を当てて、ニッコリと笑う。
「ちょっとココ切るんで、テープで孔、塞いでください」
 何でもないことのように言って、カッターの刃先に力を込める。 成井の肌が僅かに切れて、赤い血がじわりと滲むのが見えた。
「平山さんのRを見たとき感動したんです。単なる"テープを貼る"って作業なのに、 平山さんが貼るとこんなに違うもんか、って。平山さんなら、こんくらいの孔、 綺麗に貼ってくれますよね?」
 成井の顔には翳りはなかった。少しの翳りもなかったのに。
 平山は内心の動揺を押し殺し、ただ僅かに目を見開いただけで、 あとは何も反応を示さなかった。
 成井は笑顔のまま平山を見つめている。胸に押し当てた刃先からは、 少しずつ、でも確実に血が滲み出ていた。
 出来ることなら願いを叶えてやりたかった。テープで貼って治るものなら、 いくらでも貼ってやるのに。
 平山は大きく息を吸い込んで、そして吐き出した。 成井の目に、呆れ顔で溜息をついているように見えていることを願いながら。
「………冗談だろ?」
 殊更声を荒げるでもなく、いつもの調子で言った。 上手く語尾の震えを押さえることができた。
「冗談です」
 成井もあっさりと答えて、カッターを胸から外す。 ティッシュで刃先を拭い、平山に返して寄越した。
「大事な仕事道具、へんなコトに使ってすいません」
 平山の手の中に戻ったカッターは、酷く熱かった。よほど成井は、そ れを強く握りしめていたのだろう。
「なる…」
「悪いけどオレ、代々木には見に行きません。仕事もありますし」
 声を掛けようとした平山の言葉を遮って、成井が早口に言う。
「………」
「そんな顔しないでくださいよ。別に自分だけ出られなくて悔しいとか、 そんなんじゃ無いんです。ただ…」
「うん…」
 その先の言葉は、聞かなくても分かる気がした。だから、ただ頷いた。
 何故、成井じゃなければいけなかったのだろう。他の誰だって良かったはずだ。 いや、例え成井の胸にいつか孔が空いてしまう運命だったのだとしても、 それが今でなければいけない必要はなかったはずだ。せめて、あと2ヶ月後だったら。
 俯いて唇を噛む平山に、成井は笑い掛ける。
「…あのですね。オレ…野猿やってるの、すごく辛かったんです。 人前に出るの大嫌いだし、撤収するって聞いて、正直なとこホッとしました」
「………」
「でも、出られなくなって初めて気付いたんです。まさか………」
 成井は穏やかに笑う。
「まさか、野猿を失うのがこんなに辛いなんて、少しも思わなかった」
 平山はただ頷いた。それはメンバー全員が抱いている思いかも知れない。 番組スタッフとしての仕事を持ちながらの「野猿」活動は、決して楽なものではない。 時間を削られ、体力を削られ、プライバシーを削られ、精神を削られた。 充実した日々ではあったが、楽しいことばかりではなかった。 何故こんなことをしているのかと思い悩んで眠れなかった夜も、一晩や二晩ではない。
 あの突然の「撤収宣言」を聴いた瞬間、平山の胸には一抹の寂しさと共に、 それ以上の安堵感が確かに涌いた。
 けれども、今。
 この感情は未練などではない。ただ純粋に「終わりたくない」そう願う自分が居る。 日に日に、その思いは強くなる。もう少し、もう少しで良いから。どうか、神様。
 だが、その願いを口にしてはいけない。口にした瞬間に…… 願うことを止められなくなるから。
「成井。辛いなら…泣いた方が良いぞ」
 相変わらず穏やかに笑みを浮かべ続ける成井に、もっと別のことを 言ってやれれば良いのだけれど。
「泣きませんよ。ココでは」
 ふいに成井が自分の胸を拳で叩く。何度も、何度も。衝撃で孔が埋まるのだと 信じているかのように。
「成井」
 そっと手を伸ばして、それを辞めさせる。成井の拳は震えていた。 しかし、彼の表情は穏やかだった。不自然なまでに爽やかな笑顔だった。
「泣きませんよ。まだ。最後のステージで泣くんですから」
「…そうか」
 成井の肺は完全撤収までには治らないのかも知れない。平山は直感的にそう感じた。 だが、成井は決めたのだ。最悪の場合、もし病状が好転しなくても、 完全撤収の最後の2公演だけはステージに上がると。 誰に嘘を吐いてでも、絶対にステージ上で最後の瞬間を迎えるつもりなのだと。
 平山にそれを止める権利はなかった。止めようとも思わなかった。
 体か、ステージか、どちらが大事なのかと問われたら、力ずくででも止めるべきなのだろう。 けれども、止められない。止めたくない。止めさせない。
「5月13日…どーしても孔が塞がらなかったら、そん時は… そん時は、オレがコレで胸を裂いて、お前の孔をテープで貼ってやるから」
「宜しくお願いします。約束ですよ」
「ああ」
 平山は片手を上げて事務所を後にした。ドアを閉める瞬間、成井の姿を盗み見る。
 先程と同じように、机に向かって座る成井の背中が見えた。その肩が、細かく震えていた。
 だが、平山は何も見なかったことにして、静かにドアを閉めた。もうすぐ「撤収」と銘打たれた最後のツアーの幕が―――――開く。



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