strawberry strawberry.

 あ、と思ったときにはもう遅かった。左手の薬指と小指を スチールラックと箱の隙間に挟んでしまった。
「……っ!」
 悲鳴を上げずに済んだのは上出来だった。仕事中にボンヤ リしていて怪我をしたなどと知れたら、上司にどんな小言を 言われるか分かったものではない。細心の注意を払いながら、 できるだけソッと指を引き抜く。ズキズキと疼くソコは、見 事に腫れ上がっていた。爪の中も赤黒く変色してしまってい る。
「…あ〜あ…」
 これは暫く痛むだろう。網野は顔を顰めて溜息を吐いた。



「シュウ、これあげるから、痛くなったら飲みなさいね」
 そう言って木梨が渡してくれたのは、小さな赤い錠剤だった。
「今日、歯医者でもらった痛み止め。ソレにも効くでしょ」
 網野の指の怪我を目線だけで示す木梨に、少なからず驚きを 隠せない。気付かれていたとは思わなかった。
「あ〜。たまたま目に付いただけだから、別に驚くコトもないでしょ〜?  だ〜いじょうぶ、貴明には内緒にしててあげるから」
 片目を瞑ってニッと笑うと、木梨は手を振りながらスタジオ を出て行った。
 実は先程のレッスンが終わった頃から、怪我が シクシクと痛んで辛かったのだ。動き回ったせいで血行が良く なり、指先も敏感になってしまったのだろう。腫れた部分に心 臓が移動してきたように感じる。
 網野は掌の錠剤を見やり、小さく溜息を吐いた。
「……もらっておこうかな…」
 今日もまた石橋に呼び出されている。先日の一件もあり、気が 重かった。だが、石橋は絶対者だ。逆らうことは出来ない。
 どんどん憂鬱になる気分をリセットするためにも、痛み止めは 服用しておいた方が良さそうだ。 そう判断した網野は、赤い錠剤を口の中に放り込んだ。



「ま、座んなさい」
 網野が指定された楽屋を尋ねると、石橋は上機嫌で椅子を勧めて きた。何が彼を陽気にさせているのか見当が付かないので、幾分 不安な気分になる。しかし僅かの躊躇いの後、言われるままに席に着いた。
「今日、差し入れにケーキ貰ったんだけど喰う?」
「…はぁ」
 石橋は今にも鼻歌を歌いそうな勢いで、いそいそと箱からケーキ を取りだして、網野の前に並べた。
「苺とチーズとチョコとムース…こっちは栗と抹茶。どれが良い?  なんならみんな喰ってもいいけど」
 網野でも名前を知っているような、有名な菓子店のケーキだった。 あまり甘い物が得意ではない網野だったが、この菓子店のケーキな ら美味しいと思える。
「…そんなに何個も食えないですよ」
「お前ねぇ、酒ばっか飲んでるからガリガリ痩せてくんだよ。 ほら、喰えっつの」
「はぁ…」
 半ば強引に薦められ、比較的甘くなさそうなチーズケーキを手に取った。
「お前、何飲む?」
 傍らのお盆からカップを取り上げようとしている石橋に気付き、慌てて立ち上がった。
「オ、オレやります!」
 石橋にお茶を入れてもらうわけにはいかない。 そう思ってポットに手を伸ばしたのに、敢えなく奪い返されて、しかもトドメに凄まれた。
「なぁに? オレの入れた茶は飲めねぇっての?」
「い、いや…あの、そう言うワケじゃなくて…」
「い〜から座って待ってなさい! 今、美味〜いのを入れてやっから」
「…はぁ」
そうまで言われては引き下がるしかないが、タレントにお茶を入れさせる スタッフなんて聞いたことがない。どうにも居心地が悪く、落ち着かなかった。
「ほら」
 目の前にトンと置かれたカップからは、仄かな湯気が立ち上っている。 琥珀色の紅茶が芳しい香りを放っていた。
「…あ、すいません…」
「なになになにぃ? 元気無いねぇ、シュウちゃん!」
 石橋が元気すぎるのだ…とは思っても、口にするのは憚られた。 曖昧に笑ってケーキを口に放り込む。
正直なところ、緊張のあまり味など分からなかった。チーズケーキの欠片が 大きな塊に感じられて、なかなか飲み込むことが出来ない。
 たった一欠片のケーキを飲み込むのに、尋常ではない時間を要してしまった。
「なに、それ美味しくなかったの? じゃぁ他のに変えなさい」
 網野の複雑な表情をどう解釈したのか、石橋は別のケーキを網野の目の前に グイグイと押しながら「どれどれ…」と手を伸ばしてきて、 抵抗する間も与えずに網野の手からフォークをむしり取ると、 そのまま食べかけのケーキを自分の口の中に入れてしまった。
「なぁによ、美味いじゃんよ」
 モグモグしながら言い放つ石橋に、もはや何と答えを返せばいいのか分からない。 はい、と返されたフォークを受け取り、石橋の顔をマジマジと眺めてしまう。
「ん? 何、これも喰ってみる?」
「……は?」
 網野の視線に気付いた石橋は、自分が食べていたショートケーキを指さしながら、 ニッと笑った。
「え、あ、いや…あの…」
 慌てて否定しようとした網野の目の前に、ズイッと石橋のフォークが差し出される。 その先には苺がちょこんと乗ったケーキの一欠片。
「ほれ。苺んトコやるからさ。喰ってみ?」
「え…あの…」
「早く口開ける! クリームが落ちるでしょ!」
 その剣幕に驚いて口を開けると、石橋が「あ〜ん」などと言いながら、ケーキを口の 中に入れてくれた。
「……ども…」
 モゴモゴと礼を言うと、石橋は満足げに「うまいだろ?」と笑った。 彼の真意は読めなかったが、そのケーキが美味かったことは事実なので、網野は素直に頷いた。
「いつもそーやって素直だと可愛いのにねぇ、シュウちゃん」
 そう言う石橋の瞳の奥に、何か剣呑な光が過ぎったのを、網野は確かに見た。
「……っ!」
 厭な予感が背中を這い上り、首筋の肌が粟立つのが自分でも分かった。 気持ちを落ち着かせようと、紅茶のカップを手にとって呷る。
「……あつっ!」
 想像以上に熱い液体が舌を焼き、身体が竦んだ反動でズボンにも熱湯が零れた。
「なにやってんの、シュウ!」
 熱いというよりも痛い。鋭く突き刺さるような痛みが腿に走り、軽いパニックに陥った。
「脱げ!」
 言うなり石橋がベルトに手を伸ばしてきたのには驚いた。腿の痛みも一瞬忘れて、 飛び退いて逃げる。
「な、な、なななななな、何ですかっ!?」
「バカ! 火傷冷やさなきゃなんねーだろが!」
「だ、大丈夫ですよ、もうそんなに熱くないし」
「熱くねーワケねーだろ!」
「いや…あの…」
 もう熱い熱くないの問題ではない。ジリジリと逃げを打つが、アッという間に 壁際に追いつめられて後が無くなる。
 いつにも増して石橋が大きく見えて、思わず息を飲んだ。
「ホントに熱くないんです…ちょっとビックリしただけで…」
 それは言い訳ではなく、本当に痛みはもう薄れていた。 呆気ないほど――――不自然なほど、アッという間に痛みが拡散してしまう。 いや、痛くなくなったというよりも……痛みが分からなくなった。
「……あ」
 唐突に、木梨からもらった薬のことを思い出す。確か木梨は、あの錠剤のことを 「痛み止め」だと言っていた。
薬が効いていて、痛みが麻痺しているだけに違いない。


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