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「神波も…?」 収録が終わったら、網野と食事に行く約束をしていた。その網野に「一緒に連れて 行きたいヤツが居るんだけど」と尋ねられて二つ返事で了解したものの、同行者の名前 を聞いてから後悔した。 「そんな顔するなよ。たまには良いだろ」 「あ…まぁ…良いけどさ…」 「お前さぁ、大抵のヤツには親切モンなのに、なんでカンだけは駄目なわけ?」 呆れ顔の網野にそう尋ねられても、平山自身にだってそんなことは分からない。た だ、訳もなく苦手なのだ。あの小柄な姿を目にするだけで腹の底が苛々してしま う。 恐らく幼い頃から甘やかされて育ったのだろう、愛されるのが当然と信じている風 が鼻につく。年端も行かない子供だったらそれもまた可愛らしい思い込みと言えなく もないが、三十を間近に控えた成人男性でそれを信じているのだとしたら、ただの莫 迦ではないか。 尤も、彼は到底三十近間には見えない。どんなに頑張っても二十代前半に見られる のが良いところだろう。元々身体の造作が幼いせいもあるだろうが、そこまで幼く見られる のは、偏に内面から滲み出る幼稚さ故なのではないかと平山には感じられた。 「苦手なんだよ、あーゆータイプ」 「そんな事言ったって、ちゃんと話したことないだろ? 意外と話、合うんじゃ ないかと思うんだけどなぁ」 「そうとは思えないけどな。向こうだって、オレのことは敬遠してるみたいだし」 誰にでも子犬のように懐く神波は、平山にだけは決して尻尾を振ることはなかった。これまでも型式ばかりの挨拶ほどしか交わしたことがない。そんな相手とどうやって話を合わせるというのだろう。 網野は溜息にも似た笑みを漏らし、「ま、今夜な」と言い残してスタジオに入っていった。 ※ ※ ※ ※ ※ その居酒屋は以前からの行き着けで、彼らが「野猿」としてブラウン管に姿を現す ようになってからは、自動的に個室に通してくれるようになった。いつもならその気 遣いが有り難いものだが、今日に限っては店員の笑顔を恨めしく思う。 どうやら個室に案内してくれた女性店員は神波のファンだったらしく、頻りに彼の 顔色を窺っていた。隙あらば話しかけようとしているのが、傍らの平山にさえ分かっ たのに、当の神波はそれに気付いていなかったらしい。野猿のアイドルだ何だと騒が れ過ぎて、人の目に鈍感になっているのだろう。そういう無神経さが酷く神経に障 る。 「とりあえずジョッキ生三つね。あと盛り合わせ適当に」 網野がオーダーを告げ、個室のフスマを閉めた途端、気まずい沈黙が広がった。 平山は小さく溜息を吐いて、神波に貌を向ける。いくら気にくわないからと言って 無視を決め込むのも大人げないし、ここで神波に食ってかかって神経を磨り減らすの も馬鹿馬鹿しい。上辺だけでも話を合わせていれば、この場は穏便にやり過ごすこと が出来るだろう。 「お疲れさん」 「あ、ども」 神波も首だけで会釈をしながら、小さく応えた。そんな仕草もやけに子供っぽい。 そのくせ、強い煙草に火を点けて紫煙を吐き出す様は年相応にも見えて、存在自体が アンバランスだと感じた。 網野が「ちょっと便所」と席を立つと、神波と二人切りになってしまう。 店が混んでいるのか、オーダーした品物はなかなか来ない。間が持たなくて、ただ ただ灰皿に吸い殻の山を築くことに専念した。 「…あんまジロジロ見ないで下さいよ」 神波がポツリと漏らす。言われて、無意識のうちに彼を観察していた事に気付いた。 「悪い」 「…そーゆーの、失礼じゃないですか?」 確かに悪いと思ったから素直に謝ったのに、なお言い募るその口調にカチンときた。 「だから謝っただろ」 「それが謝ってる態度なんですか」 「尻尾を踏まれた犬でもあるまいし、いつまでも拘らないで欲しいね」 吐き捨てるように言うと、神波の頬にカッと血が上るのが分かった。言い過ぎた か、と思ったのも束の間、神波は平山の額に指を突き付けて凄んできた。 今までは笑っているか泣いているか、そのどちらかの貌しか見たことがなかったから、意外 に良い目をする神波に対し、心の中で尻上がりの口笛を吹く。 「今日はシュウさんに誘われたから、シュウさんの貌を立てるために来ましたけど、 やっぱり止めとけば良かったです。来るんじゃなかった、こんなトコ」 網野に誘われたも何も、元はと言えば平山と網野が約束していた食事に、神波を同 席させてやっているに過ぎない。神波の子供染みた台詞には、筋が通っていないよう に思えた。 「そりゃ、こっちの台詞だ。お前は後から割り込んできた立場だって事、忘れんなよ」 「割り込んできたも何も、オレはちゃんとシュウさんに誘われて来てるんですから。無理に仲間に入れてくれって頼んだ覚えはないです」 「其処に居れば同じ意味なんだよ」 「オレが気にくわないなら、平山さんが席を外せばいいじゃないですか」 「何でオレが」 「だってそんな言いがかり付けるなんて、大人げないです」 言いがかり、と表されて頭に血が上る。何のことはない、図星だからだ。言葉に詰まった平山は、口ひげを歪めて神波から目を逸らした。 「なんだ、結構盛り上がってるね」 個室のフスマを開けるなり、そう言い放った網野も大した玉だ。ふと見れば、手に ジョッキを持っている。用を足しに行っただけにしては時間が掛かると思ったら、ど うやらオーダーした品が出来上がるのを、厨房に入り込んで待っていたらしい。 「メインボーカルの2人が口論してる場面なんか目撃されたら、後々問題になるかも 知れないしね」 そう言いながら大皿をテーブルの上に押しやる。先ほどの神波ファンらしき店員 が、他の店員にも平山達の来店を話しているであろう事は想像に難くなく、オーダー 等の理由を付けて頻繁に覗き込まれる可能性もないとは言い切れない。興味本位の視 線をシャットアウトする意味もあって、網野は厨房に釘を刺してきたに違いない。 だが、そんな面倒なことをするくらいなら、最初からこんな席など設けなければ良 かったのだ。気が利くのか、利かないのか、平山には判断出来かねた。 「ま、乾杯しよう」 平山と神波の間に流れる険悪な空気を端から無視して、網野はごく普通に「かん ぱーい」と告げた。平山も渋々ジョッキを持ち上げたが、決して陽気とは表現できな い網野の音頭では、場の雰囲気も盛り上がらなかった。 不機嫌に唇を歪ませた神波は、ジョッキに口を付けるなり一気に呷った。其れを目 にした平山は、慌てて彼の手からジョッキを奪い取る。 ビールは既に三分の一しか残っておらず、半分以上が神波の胃に流れ込んだ計算に なる。 「何すんですか、返して下さいよ」 「お前、なんつー飲み方してんだよ! 昼から何も食ってないんだろーが。空きっ腹 に一気飲みする莫迦があるか」 そういえば…と、平山は眉を寄せた。以前、野猿の宴会で飲んだときも、神波は無謀 な飲み方をしていたように記憶している。同じく暴飲した飯塚や高久と一緒になって 大暴れした挙げ句、オードブルの皿を割り、畳にビールを吸わせ、御大に大目玉を食 らったはずだ。あれだけ戒められても、まだ懲りないのだろうか。犬でも教えれば覚 えるのに、学習能力がない莫迦は酒を飲むなと言いたくもなる。 しかし平山の怒りなど知ったことではない神波は、平山の手からジョッキを奪い返 すと、わざと見せつけるかのように残りのビールを一気に飲み干して見せた。 平山を鼻で笑い「…アンタ俺の保護者か!」と顎をしゃくる仕草には、テレビで見 せる笑顔など欠片も残っていない。 これには平山も気分を害し、胃の腑に苦い感情が広がった。 網野はピッチャーを持ち上げ、空になった神波のジョッキに2杯目を注いでいる。 訳もなく苛苛した雰囲気に押されるように、平山もジョッキを呷った。空きっ腹に酒 を入れるな、と自分で言ったにも拘わらず、同じ事をやっている。これでは神波と同 レベルの莫迦だ。自嘲的な気分も手伝って、ろくに料理にも手を付けないまま、杯を 重ねた。 ※ ※ ※ ※ ※ 平山が杯を傾けて泡まで残さず飲み干すと、続けて神波も一気に杯を空ける。負け じと平山もまたジョッキに口を付ける。 いつしか飲み比べの様相を呈してきて、何故こんな無茶な飲み方をしなければなら ないのかと自問しつつも、ここまで来ては引き下がれない。平山も腹を据えて飲みに 徹する覚悟を決めた。 網野はこの状態をどう思っているのか、いつもの飄々とした貌のまま、空になった ジョッキにビールを満たしてくれる。 もう止めたほうが良い、そう平山の理性が判断したときには既に遅かった。座って いる筈なのに、景色がグルグルと廻っている。視界の中に極彩色のネオンのような光 が混ざり始め、奥歯の辺りが鈍く痛んだ。急激に喉の乾きを覚え、ジョッキに残った ビールを呷る。 「う…」 気持ち悪い…。 揺らぐ視界の中に、テーブルに突っ伏したまま動かなくなった神波の頭が過ぎる。 大きな事を言っていた割には、やはり口だけだったのか。大して飲めもしないクセに 勝負を挑んでくるんじゃない…莫迦め。 平山は精一杯の努力と見栄で、傾いだ己の身体を真っ直ぐに引き戻した。……つも りだったのだが。 「…あり……?」 そのまま地球の重力に引かれるように、仰向けで畳に沈んだ。 一度倒れてしまうと、再び自力で起きあがるのは難しい。手足に力が入らず、瞼が重かった。 ああ、眠い…。こんなところで寝たらダメだ、でも眠い…。 必至に眠気と戦う平山の目に、何故か見知った顔が見えた。 「…なる…?」 網野の背後の襖が開き、隣の個室から成井と大原がヒョッコリ貌を出す。 「潰れちゃいましたね」 成井が貌を覗き込んでいるのが気配で分かるが、瞼が重くて目が開かない。起こし てくれ、と言ったつもりだったが、喉の奥で声が費えて、意味不明の呻き声しか出て こなかった。 「外で星野さんに待機して貰ってますから。じゃ、運びますね」 「うん、頼む」 網野が頷くのを聴いて、これは初めから仕組まれた罠だったのだ、と気付いた瞬間、何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、平山はあっさり意識を手放した。 ※ ※ ※ ※ ※ 平山が目を覚ましたとき、見知らぬ天井が彼を迎えた。今ひとつ状況が把握できず に、寝ころんだまま首を傾げる。 「…うがっ」 途端に鈍い頭痛に襲われ、平山は呻き声を上げた。以前にも経験したことがある痛 み……二日酔いだった。身体を少し動かしただけで、頭が破裂するのではないかと疑う ような痛みが、脳髄から突き上げてくる。 おまけに身体中の関節が酷く軋んだ。背中に感じる感触は、柔らかい布団でもなけ れば、せめてものカーペットですらない。固いフローリングの上に直接転がっている のだ。これでは身体が不満を訴えてくるのも当然だ。 しかし、そもそもの発端―――――何故、痛い頭を抱えながら床に転がっているの か、その理由と経緯が全く分からない。 頭を動かすと頭痛に苛まれるので、手探りだけで眼鏡を探した。とにかく視界をク リアにしなければ何も始まらない。 手の届く範囲内に平山の求める物は存在していないようだったが、代わりに何か変 わった感触の物が指先に触れた。掌で撫で回してみても、何なのか分からない。手も とに引き寄せて確かめたい、そう考えた平山は、意外に重い其れを、頭痛から来る苛立ちも手伝って、力任せに引き寄せる。 「………あ、し…?」 それは人間の踵によく似ていた。踝から脹ら脛に続くラインも、まさに足。クラク ラと目眩がする。こんな所に足が有る理由が、全く持って分からない。もしや酔った 勢いでどこぞのオネーちゃんを連れ込んでしまったのか、と血の気が引きかけたが、この臑 毛は紛れもなく男の足だ。一瞬、ホッと安心したが、足の持ち主が女だろうが男だろ うが、現実問題として由々しき事態であることに大差はなかった。 とりあえず、この足が誰の物であるか確認するのが先決だと思い立ち、少しでも揺 らすと脳が煮崩れそうな錯覚に苛まれながら、平山はそっと細心の注意を払いつつ上体を 起こした。 眼鏡がないために視界が滲む。目を眇めて、足の持ち主の頭がある辺りを睨め付け た。あいにく頭部は毛布の中に埋まっていて貌の判別は不可能だったが、腕の間から 漏れ覗いている赤い髪を目にした瞬間、全て得心がいった。 平山の知る限り、好んで髪を赤く染め上げるようなお調子者は、ただ一人。神波しかい なかった。何故彼がここで転がっているのかと言えば、大方網野が運び込んで、置い ていったに違いない。というよりも、この部屋は神波のアパートなのだろう。網野は 以前にも何度か、酔いつぶれた神波を送って帰ったことがあったはずだ。おそらくそ の時に合い鍵の隠し場所でも聴いていて、元より承知の上で平山と神波にしこたま酒 を飲ませ、潰した挙げ句にここへ放り込んで行ったのだろう。 意識を失う直前、成井や大原の貌を、確かに見た。 それに、星野の車がどうとかいう会話も、朧気ながら記憶に残っている。初めから全 て網野が仕組んだことだったのだ。 網野の言葉が耳底に蘇る。 ―――――意外と話、合うんじゃないかと思うんだけどなぁ。 本当に気が合うのかどうか、話し合いの機会を強引に作ってくれたというわけだ。 平山は嘆息を漏らして、己の脇に転がる小柄な身体を見やった。 「う…ん…」 神波が小さな呻き声を漏らしながら、寝返りを打とうとして―――――…「あ がっ…」と声を上げるなり、硬直した。 神波をアイドルと崇める女の子達には、絶対に見せられない姿だろう、と平山は 思った。赤い髪は寝癖でボサボサ。床で寝ていたために、頬にフローリングの木目模 様がくっきり付いている。顎には伸びかけのヒゲが疎らに生え、Tシャツは縒れて肩 が出そうになっていた。その薄汚い恰好のまま、床に転がって苦悶の表情を浮かべて いるのである。 恐らく、先ほどの平山と同様に、自分の置かれている状況が理解できずにいるのだ ろう。おまけに彼も、平山に負けずとも劣らないほどの二日酔いに陥っているらしい。 首を動かさないように目だけで平山を見つめ、必死に瞬きを繰り返していた。まる で、そうしていれば目の前から平山が消え去るものと信じているかのように。 「…うス」 平山が声を掛けると、神波はビクッと身体を引いた。だが、まだ彼の足は平山が掴 んだままだったため、少しも距離を広げることが出来ずに、神波はただ頭痛に呻く結 果となった。 「薬、ねぇの?」 平山が問いかけると、神波はノロノロと腕を伸ばし、スチールラックの上段を指差 した。しばし無言で彼の指差す先を眺めていた平山は、諦めたようにゆっくり腰を上 げる。床に突っ伏したまま身動きすらとれないでいる神波よりも、自分の方が幾分症 状が軽いように思えたからだった。まるで盗人のように足音を顰めながら、たっぷり 時間をかけてラックに近付き、救急箱らしき小抽斗を手に取る。中を探ると、すぐに 見覚えのある薬のパッケージが見つかった。二人分を手に取り、また元来た道をソロ ソロと戻る。 「ん」 「ども」 二人とも、無言で二日酔いの薬を飲み干した。しばらく酒は飲むまいと誓いなが ら。 「…悪いけど、オレ、も〜ちょっと寝かせてもらうわ」 とてもじゃないが、今すぐ帰れと言われても、帰れたものではない、と平山は思っ た。満足に歩くことすら出来ないし、何やら胸の奥がムカムカと蠢いている。今、下 手に歩き回ろうものなら、昨日の食事が一気にリバースしてしまうだろうことは想像 に難くない。 遠慮もなく床に転がった平山に対し、神波も何も言わず上掛けの半分を投げて寄越 した。彼も悪態を付くまでの元気すら残っていないのだろう。 「神波…今、何時…?」 左手首に填めていたはずの腕時計も見あたらなくなっていた。眼鏡を失った平山に は、壁時計の針は見えない。 神波は気怠そうに首を回し、喉の奥で「くじ…」と言った。 「オレ…今日は仕事、夜からなんですけど、平山さんは…?」 「あ〜…、休み〜…」 「じゃぁ、も少し寝ましょ〜…」 頭を揺らすと頭痛がするので、寝返りさえ打てない。動き回ると胃がグルグルと厭 な音を立てるので、こんな時はただジッと床に転がって、酒精が身体から抜けていく のを待つのみだ。 「うぇ〜、こんななンの久しぶり…」 目を瞑っていても、瞼の裏が極彩色に瞬いて、酷く眩しい。エレベータが急降下し ているときのような、不快な浮遊感がある。身体が廻っているのか、部屋が廻ってい るのか、それともただ目が廻っているだけなのか、平山にはもう判断できなかった。 せめてもの救いは、今ここで苦しんでいるのが自分一人ではないということ。ヨッ パライが二人になったところで何の役にも立たないが、隣に転がっている神波も同じ 苦しみを味わっているのだと思えば、少しは気が紛れる。一種、連帯感に似た感情ま で沸いてくるから不思議なものだ。 やがて薬の効果が現れたのか、瞼が重くなってきた。眠ってしまえば楽になる、過 去の経験からそう判断した平山は、あらゆる面倒な思考を半ば強引に断ち切って、眠 りの縁へと身体を沈めた。 ※ ※ ※ ※ ※ 「コーヒー入りましたけど」 平山は肩口に軽い衝撃を感じて目を開けた。衝撃の理由は神波が肩を踏みつけて いたからだったが、これは悪意からの行為ではないらしい。彼は両手に一つずつ、湯 気の立ち上るカップを持っている。 「あ、サンキュ…」 まだ開ききらない目を瞬かせながら、神波が差し出すカップを受け取った。 「眼鏡、テーブルにありましたよ。はい」 愛用の眼鏡を手渡されて、口の中で小さく礼を言いながら其れを受け取る。視界がクリアになって、少しだけ目が覚めた。眼鏡があったというテーブルに目をやれば、其処には無くしたはずの腕時計も置いてある。平山を部屋に運び込んだ成井達が、気を利かせて外して置いてくれたのかも知れない。 熱いコーヒーは、酒に爛れた胃に大層美味かった。身体の隅々にまでカフェインが行き渡っていくのが分かる。 「風呂…入ります?」 「あ、借りて良いなら」 平山は気怠い身体を起こして、神波の申し出を有り難く受けることにした。身体中 から、酒だの煙草だの汗だののニオイが立ち上っているような気がして気分が悪い。 シャワーだけでも浴びられれば、随分スッキリするだろう。 「シャンプーとかは勝手に使って下さい。ひげ剃りは…これ、新しいのありますから」 買い置きらしきひげ剃りを手渡され、風呂に向かう。衣装ケースをゴソゴソ漁って いた神波は、振り向きざまにグレーのTシャツを投げて寄越した。 「それ、わりかし大きいんで着替えに使って下さい。流石にズボンはサイズがないん で勘弁してもらわないとダメですけど」 「洗って返すよ」 「いーです。あげます。どうせ着古しだし」 「サンキュ」 「…いえ、別に大したことじゃないし…」 不機嫌そうに横を向く神波の貌を見て、平山は首を傾げた。いつも通りの生意気な 仕草なのに、何故か腹が立たない。むしろ、微笑ましいものさえ感じる。 己の思考回路に疑問を抱きつつも、そこでボンヤリ立ちつくしていても仕方がない ので、神波に「お先」と一声掛けて浴室に入った。 貌を洗い、髭に剃刀を当てる。まだ酒が残っているのか、鏡に映る頬が仄かに赤 い。掌でゴシゴシと擦ってみて、ふとあることに気が付き、平山は小さく声を上げ た。 「…照れてやんの、あいつ」 先ほどの神波の態度に腹が立たなかった理由が、今、突然に分かった。神波は平山 に礼を言われて、照れていたのだ。其れが直感的に分かったから、平山も腹を立てな かった。たった其れだけの事なのだ。 「…やっぱガキくせぇ」 唇を尖らせる神波の表情を思い出し、平山は喉の奥でクツクツと嗤った。 神波は自分に好意を示してくれる相手には徹底的に懐く。生まれながら、他人に愛 されることに慣れているのだ。 平山にとっては、その無防備さが苛立ちの原因になっていた。 「ま、オレも大人げなかったけどね」 鏡の中の己に向かって、小さく呟く。必要以上に神波に冷たく接した自覚はある。 神波も其れを敏感に感じ取っていたからこそ、互いの間に軋轢が生まれていた。 分かってしまえば詰まらない理由だった。 「意地っ張りだからねぇ…」 アイツもオレも。言外にそう呟いて、平山は堪えきれずに嗤った。 ※ ※ ※ ※ ※ 浴室を出ると、神波が怪訝な貌で平山を見ていた。 「さっき風呂ン中から、変な笑い声が聞こえてきたんですけど…」 どうやら先ほどの嗤い声が漏れていたらしい。一人で入っている筈の風呂から爆笑する声が聞こえてきたら、神波でなくとも驚くだろう。 少々バツが悪かったが、それはおくびにも出さず、平山は不敵に嗤って見せた。 「あれしきの声が漏れるなんて、随分お安いアパートだな」 「なっ…!」 神波の頬にカッと血が昇ったのが分かった。 「あ、あんた人の世話になって礼の一つも満足に言えねぇのかよ!」 「それもそうだな。風呂もシャツも助かった。サンキュ」 素直に礼を告げると、神波の貌が見る見るうちに赤く染まった。分かりやすいヤツ。そう思ったが、何故か憎めないような気がした。腰に両手を当てて「分かれば良いんだ、分かれば」なんて偉そうに呟く姿が、却って微笑ましい。 平山の脳裏に、ニヤリと嗤う網野の貌が浮かんだ。なるほどね、と平山は思った。 ※ ※ ※ ※ ※ 「偉そうにすんな、ヒゲメガネ!」 「オレの方が年上なんだから、少しくらい威張ったって別に良いだろ」 「無駄に歳とっただけのクセしやがって」 「悔しかったら年相応の貌になってみろっての」 「ムカつく! そこまで言うなら勝負ですよ、平山さんっ!」 「は! ホンキでオレに敵うと思ってンのかよ。これだからチビは…」 「チビ言うな! 良いですね、今度のオフに勝負ですから! 負けた方がメシ驕るん ですからね、覚悟してろよ、オヤジ!」 平山の鼻先に指を突き付けて宣言し、神波は衣装室へと走り去って行った。残った 平山は肩を竦めて、その後ろ姿を見送る。 「相変わらず元気ですね〜」 「ん? 成井、いつから居たんだ?」 いつの間にか成井が平山の真後ろに立っていた。 「ヒゲメガネ、のちょっと前あたりから」 どうやら一部始終を見守っていたらしい。吹き出すのを我慢しているような貌をしている。 「平山さん、最近仲良いじゃないですか、カンと」 「冗談じゃないね、あんな山ザル」 「……でも、今の、勝負とか何とか叫んでたけど、結局は一緒にスノボ行くって話でしょ?」 的確に状況を判断しているな、と平山は思った。先ほどの会話は、口論しているよ うでいて、実は休日の約束を交わしたに過ぎない。おまけに、勝負の形を取ってはい るが、夕食も一緒に採ることになっている。 平山は眼鏡の奥の目を細めて、ニヤリと笑った。 「ま、こーゆーのもアリっしょ」 成井はついに我慢できなくなったらしく、盛大に吹き出した。 |
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