「だいたい予想はついているけど一応聞くわよ。・・・・なにしてるの?」
今宵は満月。月の反射光は太陽ほどではないが十分明るい。
「く、来るな!私にかまわないでくれ!」
かまわないでといわれてもなぁ・・・。
くたびれた服を着た疲労感たっぷりの男が半狂乱で叫ぶ。
年は私の倍ほどだろうか。
茶に濁った目がその絶望の深さを如実に語る。
彼の人生に何があったかわからないがとりあえず幸せな内容ではなさそうだ。
「私自身構いたくはないんだけどね・・・。この状況を見てかまうことが出来ない人間なんて世の中に何人いると思う?」
ちなみに私は一人知っている。
「・・・5人くらいかな?」
私はハリセンでその頭蓋骨を亜音速でぶっ叩きたい衝動に駆られた。
アルコール臭が身に染みついているらしくある程度の距離があるというのに酒臭さが鼻腔をつく。
「誰が数を答えろって言ったのよ。この言葉は反語表現。つまりそんなことは滅多にありえないことを強調してるの。」
「なるほど。君は頭がいいな。」
誉められているはずなのだが、私は妙な偏頭痛を覚えた。
「・・・あまり良くないけど、まあいいわ。それで?もう一度聞くけど貴方はそこで何をしているの?」
「ふむ、君は頭がいいのに想像力が足りないみたいだな。
この状況を見て私のしている行為がわからないとは、なんと最近の子供の想像力の乏しいことか。」
目頭に熱い物を感じたらしくて男は両目に右手をやった。
「確認しようとしているだけよ。
偶然とはいえあまり出会いたくない状況を目の前にしたとき、人は一度だけ確認することでその事実が現実であることを理解する時間を稼ごうとするの。」
「つまり、君はこの現実を認めたくないというのかね?はっ!現実を認めたくないのはむしろ私のほうなのだよ、お嬢さん。」
「それも予想の範囲よ。」
「ほぉ、第一印象に反して随分と想像力豊かなこなんだね君は。」
どんな第一印象だったのだろうか。
「想像じゃなくて推測よ。それもかなり安易なレベルのね。」
「ではその見事な推理を聞かせてもらおうか?」
推理もなにも・・・。
「真夜中の人気のない屋上。一人のくたびれた男が柵の外に立っている。
一歩踏み出せば20mは先の地面に激突するのは間違いない。
以上の3点から貴方は今にも自殺しようとしていると推測できる。・・・間違っているかしら?」
月明かりと満天の星が私達を見下ろしている。
「いや、すばらしい。君の推論どおりだよ。僕は自殺をしようとしている。
本心からいえば君の慧眼を拍手で褒め称えたいのだが、今両手を離したら確実に落ちてしまうので今は許していただきたい。」
男は本心から驚きの表情を浮かべている。私はちょっとカチンときた。
私はその感情の捌け口を冷徹な半眼の視線で睨む事にした。
「自殺したいんでしょう?だったら手を離せばいいじゃない。
ただし、自殺するなら私のいないところでやってね。夢見が悪くなるから。」
「最近の子供はなんと冷たいんだ。ああ、なんと嘆かわしきことか・・・・。
普通なら「何故そんな事するの!?」とか、「はやまっちゃいけない!」とかいって自殺を阻止しようとするはずなのに。」
「止めて欲しいの?」
「いやちがう。」
「じゃあ何?」
「理由を聞いて欲しい。」
男の眼差しは真摯だった。死ぬ直前になって真剣になる必要があるのだろうか。
「わかったわよ。聞けばいいんでしょう?聞けば。・・・何故死のうなんて思ったの?」
感情も何もない棒読みの台詞だ。仮に感情が入っていたとしても、それは呆れという感情だろう。
「ん〜。できればもっと感情を込めて。」
私の頬に血管が浮かぶ。
「何故!?何が貴方にそうさせるの?世界はこれほど幸福に満ちているというのに、何でこんな凶行をするの!?
せめて、私にその理由を教えてくれないかしら?・・・・・これでいい?」
自分でも過剰と思えるほどのオーバーリアクションでクライアントのご要望におこたえしてあげた。
「まあまあかな。ちょっと演技過剰な気もするけど、素人なら十分上出来だろう。」
お気に召したようだ。
「お褒めに預かり光栄だわ。」
なんだか、どうでもよくなってきた。
「こほん。実はね。私は世界に絶望したんだよ。
今、ここにいること、それがそこに存在していること、そしてそれらの無意味さに!」
随分と饒舌に男は熱っぽく語り出した。
「君は絶望したことあるかい?」
「指の数以上経験してるわ。」
「ふむ、それはきっと僕の絶望に比べれば蟻と像ほどのちがいがあるに違いない。
何しろ私の絶望はこの世の深淵よりも深くて暗いのだから。」
「それはすごいわね。」
もうなにもいいますまい。
「私にそれほどの絶望を与えたものは何だと思うかね?」
「さあ?それは私の想像を遥かに超えている上に推測しようにもてがかりが少なすぎるわ。」
「それは甘く、愛しく、煌びやかで、史上最高の甘美な世界にいざなってくれるもの。
私はそれを手にする度に血液をくみ上げるポンプが異常ともいうべき速度で活動し、体温は太陽に焼かれるかの如く発熱する。
その瞬間私はここではない白亜の世界に旅立つことが出きる。
私はそのために存在するといっても過言ではないのだよ。」
目の焦点が合っていない。きっと己の言葉に酔っているのだろう。
「それを聞いた限りでは到底絶望を与えるものではなさそうだけど。」
「そう、それは至高の存在だ。この世のあらゆる宝よりも尊く。美しく。神が創りたもうた極限の芸術だ!
しかし、しかしだ。それはあまりにも儚く。ステンドグラスのように僅かな衝撃で壊れてしまうほど脆い。
私にはそれほど貴重なものを手にするべきではなかったのだ。その危うさを知っているのに必死につかもうと手を伸ばした結果、
それは指の間から零れ落ちていくように消え去り、残ったのは死さえも陳腐なものに見えてしまうほどの終わりなき絶望だけ。
一度壊れたものはもう二度と手に入らないようにそれはもう二度と私の物になることはない。
いや、もしかしたら、最初からそれは私のものではなかったのかもしれないが。失った今ではその判別もつけられないよ。」
その眼は空虚な光を映していた。
「抽象的すぎてそれが何かわからないわ。つまりそれは何?」
「ふっ。確かに子供の君にはわからないだろう。それは大人になればわかる『愛』というものだよ。」
その言葉には僅かな嘲りと憂いそれを覆うような哀れみが含まれていた。
「はぁ・・・そうですか。」
「ああ、マリーナ!君は何故私のもとから去ってしまったんだい・・・?」
要するに失恋したらしい。
「それが理由の全て?」
「うん。そうだね。本当はこの程度の感情じゃないけれども、
私の感情を表現するには現存する言葉では到底不可能だからこれが限界なんだと思う。嗚呼、なんて私は無力で、世界は理不尽なんだ!」
「もう理由も聞いたことだし。貴方が無力で世界が理不尽であることも認めるから、
とりあえず、私のいないところで自殺してくれないかしら?」
もうそろそろこの男を相手にするのがいやになってきた。
「・・・君は私の話を聞いて同情しないのかい?」
「他人の身の上話を聞いて同情するほど私は優しくないのよ。
仮に同情するとしたら、自殺しようとする人間よりも自殺した身元不明の死体を掃除する公安の人を同情するわね。」
「何故?」
経験者は語る。
食前、食中、食後に読まないでください。
非常に危険です。
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