2002年7月 匿名希望Rさんより投稿小説です。
『水面(みなも)の月(つき)』
季節の変わり目というものは、体調に変化を及ぼすと言われているが、体調への影
響は、胸の中にまでその影を残してゆくものなのかもしれない。空が白んでくるのが
早くなった。太陽が雲を染める瞬間は、嬉しくもあり、悲しくもある不思議な風景に
見えた。
杉原湊は、夕べ突然切り出された別れ話が、現実のものとは思えなかった。いつも
と変わらぬ様子で、ふたりは仕事帰りに待ち合わせて食事をし、駅まで歩いた。腕
を組み、なにげない会話を交わし、時折おこる笑いも何もかもが、夕べで終止符を
打たれた出来事だとは、信じられなかった。
「もう、気が済んだ」
あと数分で、いつもの電車の時刻だった。この時間に乗車して、順調に帰宅できた
ならば、23時にはゆっくりと湯船につかることが出来る。3ヶ月の間、変わらず行わ
れてきた行動の最後だけが、今日は違った。白川隆志は、会話の延長にも思える口調
で、さらりとそのセリフを口にした。あたりには、同じく家に向かうために駅へ向か
う会社員たちが、ほろ酔い気分で楽しげに、二人の横を流れていく。湊は、先ほどま
での会話を再生してみた。どこをどう探しても、隆志の返事は理解できない。
「気が、済んだって・・・何の話をしているの」
湊は、かろうじて笑顔で答えた。隆志はもう笑ってはいない。この三ヶ月の間で見
た事のない表情を浮かべて、湊を見つめていた。
「隆志?」
笑顔の消えた二人。他人の目には、別れを惜しむ二人に見えたのかもしれない。塾
帰りらしき制服姿の少女たちが、羨ましげな視線を送りながら、二人を振り返りつつ
通り過ぎた。湊の耳に聞こえるのは、異常なほど耳に響いている鼓動の音と、人々の
足音だけだった。
足元がぐらつく感覚に負けそうになるのを、かろうじてこらえた。
あまりの衝撃に、涙すら出ない。隆志の性格はよくわかっていたつもりだった。子
供みたいなところがある反面、おそろしく冷酷な一面も持ち合わせている。それを素
直と呼ぶべきものかどうかは、今の湊には考えられなかった。
隆志の言葉を理解はしている。しかし、到底受け入れられる類の内容ではなかった。
「ごめん」
隆志は、それだけ言い残して、何もなかったように背中を見せた。そのまま、足を
踏み出し、駅へ向かう。湊には、いつもと変わらぬ、見慣れた後姿にしか見えなか
った。今日のスーツは湊と選んだものだった。靴も、ネクタイも、二人で買いに出
かけたものだった。
今の湊には、それだけの認識が限界だった。
こんなことが、許されていいはずはなかった。一方的な展開をただ受け入れる道し
か残されていないなど、湊には納得がいかない。頭に響く鼓動の音を振り払い、隆
志のあとを追った。定期券を自動改札機に入れようとした右手をつかんで、駅の端
まで、引っ張っていった。
人気の少ない場所まで来ると、隆志に向き直った。隆志は驚く風もなく、湊を見た。
「あなた、あんな一言で、何を終わるつもりなの」
瞳のふちを真っ赤にして、それでも涙はこらえる湊に、隆志は尚も冷たく言い放っ
た。
「言葉通りの意味だけど、伝わらなかった?俺、言葉がたりないからなぁ」
隆志は、悪びれることもなく、淡々と言葉を並べた。湊にしてみれば、こんな別れ
話は経験したことがなかった。
改札から、駅員が顔を出し、「最終が出ますよ」と声をかけてくれた。
「場所を変えましょう」
湊は、最終電車に未練を残す隆志が、心底腹立たしかった。隆志は、人の気持ちを
考えない人間だった。湊は、そんなことを思い出しながら、隆志に言った。
「帰りのタクシー代くらい、私が用意するわよ」
悪意のこもったセリフに、さすがの隆志も湊の怒りを察した。湊は、改札に向かう
駆け足の人々に逆行して、歩き出した。隆志もあとに続いた。二人は、無言で歩き続
けた。どこへ向かっているのかは、隆志にはわかっていた。今日まで、何度も足を運
んだ人口川沿いにある散歩道だ。もう少し早い時間ならば、ジョギングしている人を
目にすることが出来る。川沿いのベンチは、別れを惜しむ恋人たちが途切れることな
くやってきては、語らいあう格好の場所であった。
今のふたりには、不似合いな思い出の場所。
最終電車もなくなると、あたりはいきなり静寂に包まれる。もうしばらくすると、
終電を気にせず遊んでいた学生たちや、タクシーで帰る会社員たちがぱらぱらと、姿
を見せるが、この数十分間だけは、だれの邪魔も入らない。
いつも腰掛けるベンチの前で、湊は足をとめた。隆志は湊が振り向くのを待ってい
た。湊の肩が震えていた。湊は、泣き虫ではあったが、ケンカや小さな言い争いで涙
を見せることはなかった。隆志は、少し驚いた。
「みなと、泣いているの?」
湊は、背中を向けたまま、深く息を吸い込んだ。涙を悟られまいと、こらえている
うちに、呼吸が苦しくなったのだろう。隆志には、そんなことは想像も出来ない。
湊の足元には、背中からの灯りを受けて、黒い影が短く伸びている。その闇の中に、
涙が数滴沈んだ。涙は、とまることなく流れ落ちた。
「わたしと付き合うことになったとき、隆志は何を考えていたの」
皮肉なことに、最後だと思うと、一番聞きたかったことが、口から出てくる。予想
していた答えを耳にすることが怖くて、飲み込んできた言葉だった。ふたりの始まり
は、他愛も無いキスだった。隆志には意味などないものだったのかもしれない。しか
し、湊には十分に心揺るがす事件だったのだ。湊は、数日悩んだあげくに、隆志への
気持ちの整理をつけた。気持ちを確かめるべく、隆志も呼ばれていた飲み会に、参加
したのだった。月二回の割合で、馴染みの居酒屋に集まる仲間たち。気がつけば、交
流は広がり、毎回新しい人間が、顔を出す。湊は、もともとからのメンバーで、学生
時代の友人が大半を占めていたため、気軽に参加していた。家族的な雰囲気の店内も、
優しい店主も、昔から気に入っていた。隆志を連れてきた人物は、湊とは親しくして
いない、ただの知人関係の男だった。それでも、隆志と湊は不思議と会話を交わし、
近づいた。休日前の飲み会だったため、皆は際限なく飲んで、つぶれた。ひとり、ま
たひとりと、眠りにつく様を、隆志と湊は笑いながら見ていた。みんな、陽気だった。
湊も珍しく酔った。二人で話しをしているうちに、湊にも眠気が訪れた。座敷の隅の
壁に頭をよせて、少しうとうとしたその時だった。驚いて目を開けると、目の前に隆
志の長い睫毛があった。
「あの、今なにを」
湊は、いたずらでもされたのだろうと、笑い飛ばそうとしたその瞬間、隆志の長い
睫毛が近づいてきて、その行為は夢ではないことが証明された。
隆志は、おかしそうに笑うと湊の顔をのぞきこんで、「大丈夫?」、とだけ聞いた。
川の流れに、水面の月が揺らいでいる。雲ひとつないとは、まさに今夜の空のこと
をいうのだろう。気持ちの良い風が、頬をかすめていく。湊は、隆志に気がつかれな
いように、指で涙を受け止めた。背中から、煙草の匂いがした。湊には、いつ火を点
けたのかはわからなかった。煙草の匂いに混じって、隆志の香が風に運ばれてきた。
「俺たち、いつから付き合っていたわけ」
湊には、隆志の質問の意味がわかっていた。二人の関係の話ではない。期間や、時
間の話をしているのだった。言葉が足りないにも、限度がある。このことでも、湊は
よく泣いた。疲れ果てるほど、頼み続けて、その結果がこれだった。思っていること
は、ゆっくりでも言葉で説明してほしいと、湊は頼み続けた。そして、諦めた。望む
ことは、体力を消耗するからだ。
「いつからって、今月で四ヶ月目よ」
「四ヶ月!」
湊の言葉に隆志は驚いた声を出した。湊はかろうじて正気を保っていた。今にも貧
血で倒れそうだった。顔色は最悪に違いない。湊は、指先が冷たくなるのを感じてい
た。震えがとまらなかった。
「隆志、どうして私にキスなんてしたの」
「したいからに決まっているだろ」
隆志の言葉に悪気は全くない。返答の速さは、そのことの証明だった。理解してい
る人格とはいえ、湊は我慢の限界だった。今まで、胸にためていた言葉の数々を吐き
出すのは今しかないと、思った。例え、吐き出す相手が聞く耳もたない隆志だとして
も、隆志への言葉は隆志に投げようと、決心した。
川沿いのベンチには、湊達の他に来客はなかった。うつむいた湊を見つめていたの
は、水面に揺らぐ月だけであった。
「あの場にいたなら、誰でもよかった?」
「俺、その手の質問、嫌い」
「嫌いでもいいから答えて、大事なことなの」
「誰でもよかったら、とっくに誰かとしていたよ」
「他の人との色々な話を聞いたわ」
「酒の席での、遊びだろ。いちいち、やきもち妬いていたわけ」
「あたりまえでしょう。遊びだからって、楽しげにほかの人間とのそんな場面、見た
いと思うの?話を聞きたいと思っていたの?どんな神経しているのよ、あなた」
湊は、うるさがる隆志の性格をよくわかっていた。細かなことは、どうでもいい男
だった。そのくせ、自分のことは一番先に考える。湊は、隆志のそんなところが嫌
いだった。隆志が湊に優しくするのは、決まって他の人と何かあった後だけだった。
湊は隆志の行動を耳にしていたが、諦めていた。隆志本人を問い詰めても、嘘をつ
かれて、はぐらかされるのがオチだった。
「遊びだろ。真剣に感情なんて動いてない行動に、意味なんて存在するわけないだろ」
「遊び、遊びって、その場の雰囲気で何でもするの?お酒の席なら、無礼講なわけ?
傷つく人がいないとでも思っていたの?」
「湊、傷ついていたの?」
隆志の言葉に嘘はなかった。本気で問いかけていた。本気で、湊が傷つくことなど無
かったと、思っていたのだ。湊は、予想外の出来事が重なりすぎて、もはや立っている
ことは困難だった。水面の月に向かい合う形で、ベンチに腰を降ろした。隆志の顔は見
ない。
「そうね、あなたはそういう人間だったわ。都合の悪いものは見ない。私の言葉も聞か
ない。何でも知らないふりで、面倒が嫌い。私がどんな気持ちであなたを見ていたか、
どんな気持ちで、あなたの噂話を聞いていたか、気が付くはずもないわ」
湊の言葉には、何の感情もこもってはいなかった。湊は、こんな人間ではなかった。
隆志との付き合いの中で、湊には捨てきたものがたくさんあった。今までの人生で、
何よりも大切だと思い、あたためてきたものは、三ヶ月の間に崩れた。
「あなたに、わたしのことを好きかと、聞いた事があったでしょう」
「あった」
「どう返事くれたか覚えている?」
隆志は、吸い終えた煙草を足元に落とし、軽く靴で踏み、火を消した。
「嫌いじゃない、って」
「覚えていたのね、意外だわ。どうして、好きだと言ってくれなかったの」
湊は、変わらず足元を見つめたままだった。隆志の目を見る気力は残っていない。
湊の瞳には、もう涙は浮かんでいなかった。
「苦手なんだよ、そういうの。それに、そんなこと言わなくてもわかるだろう」
隆志の自分本位な発言は、この三ヶ月間、少しも改善されなかった。湊は、この瞬間
でさえも、ここまで勝手な言い分を通す隆志に、疲れていた。
「私はあなたの母親でも兄弟でも家族でもなんでもないのよ。他人なの。聞かずにわか
ることなんて、わずかしかないわ」
「言葉だけがすべてじゃないだろう」
湊は、その瞬間初めて隆志を見た。隆志の言葉に、また涙があふれた。どこまでも、
自分勝手な男だと、心底感じずにはいられなかった。
「それを、あなたが言うの?」
「?」
隆志は、湊の言葉が理解出来なかった。思ったことを素直に口にしただけだった。湊
の反応に驚いていたのは隆志の方だった。湊は、小さく笑いだした。この場には、不似合
いな行動だった。
「おかしなこと言わないで。言葉だけがすべてではないだなんて、なら、あなたに何があ
ったの?私になにが残ったの?言葉すらなかったわ、望んでも応えてはくれなかったわ」
湊は、こぼれる涙をそのままに、隆志に言葉を投げつけた。
「あなたから、伝わるものといえば、私に対するわずらわしさだけ。私に何を言われても、
何を望んでも、あなたは変わらない。私の言葉がどれだけ返ってきたかしら。いつも、投
げかけるばかりだったわ。いつだって、いつだって、同じ」
隆志は、実際のところ湊の話を真剣には聞いてはいなかった。隆志の中では、もう終わ
った恋だった。言葉通り、気が済んだのだ。
「今だって、そうよ、私の話なんて、耳に入っていないわ。それぐらいわかるのよ」
「わかっているなら、やめたらいいのに」
湊は、言葉を失った。視界まで、かすんできた。気分が悪かった。胸がむかむかして
胃が熱い。湊は、初めて人間に対して、嫌悪感を抱いた。
最愛の者からの言葉にしては、残酷すぎた。
「あなたって、尊敬するわ。その強さは見習いたいくらいよ。話をすることは諦めるわ、
だから、初めの質問には答えて帰って」
隆志は、何本目かの煙草をくわえて、考えていた。人の話を聞かないことが、あらた
めて、証明された。湊は、疲れ果てて落ち込む力すら、残ってはいなかった。ただ、隆志
の言葉を待っていた。それを聞いて、何が変わるのかは、湊自身にもわからなかったが、
原点の疑問は解消したかった。
「好きだなって、思ったよ。一緒にいてみようかなって」
湊は、真っ赤な目で隆志をしっかりと、見つめた。隆志の言葉に嘘はなかった。いつ
だって、湊を傷つけてでも、自分の気持ちには正直すぎる男だった。
「わかった、それであなたは、気が済んだわけね。私は新しいゲームじゃないわ」
隆志は、湊の言葉の意味が理解できずに、ひとこと「じゃあね」と、言い残して去った。
夜空に蜂蜜色の光を満たしていた月も、姿を潜めていた。
「今夜は月がきれいだったわ」
湊はベンチに深く背中を預けて、初めて空を仰いだ。
「本当に、月がきれいだったわ」
湊は、それだけ呟くと、声を殺して泣き崩れた。誰も通らない時間帯でよかったと、
心の片隅で考えながら、美しい月の姿を胸に思い描き、泣き続けた。
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