『土師丸屋』
三重県で製造されている、地ビールの銘柄のひとつである。この手の製品は、
製造してからの賞味期限が短いものが少なくない。
「いやあ・・・すっかり忘れていましたよ」
定番のバーテンダースタイルに身を包んでいる、『Bar Dream』のマスターが、カウンターの中へと戻ってきた。
店内には、いつもの常連客が二人。
狭くもなく、広すぎもしないスペースは、心落ち着く空間を作り出している。
時刻は、日曜日の午後十時を少し回った頃・・・大抵の者は、明日に備えて
帰路に着く時間帯である。もちろん、明日に備えない人種も存在している。
その人種に該当している二人は、驚く風もなく、マスターの手の中に抱かれ
たチョコレート色の瓶を眺めた。
「マスター、ビールかい?」
口を開いたのは、日勤通いの常連客ー丘田ー。
「以前、三田さんに頂いた残りをすっかり忘れていました。賞味期限が二ヶ月 過ぎ
ているのですが・・・」
本来ならば、賞味期限の切れている商品は、迷うことなく抹殺される運命だろう。
しかし、『Bar Dream』においては、地ビール『土師丸屋』の抹殺は、回避の道を辿った様子である。
「大丈夫、飲んじゃえ」
限りなく無責任な発言を、提供しているのは、同じく常連客のー円ー。
こちらはまだ、『Bar Dream』歴は浅く、新米である。アルコールと名の
付くものは、長持ちするとでも考えているのだろう。
まさに、素人の浅智恵。
マスターは、円の言葉に少し思案顔で、地ビールの居場所をカウンターへと移した。
「いや、地ビールは安心できないですねぇ。中には、製造日より五日が賞味期 限の
ものまでありますから」
やや薄暗い店内照明と、キャンドルの明かりに照らされている『土師丸屋』は、
少し悲しげにも見える。
忘れ去られていた悲しみは、チョコレート色の瓶の汗となって流れ落ちた。
「ふぅん・・・そうなんだ。知らなかった。でも、せっかくだから飲もうよ」
この場合の「せっかくだから」は、果たして正しい使用法なのだろうか。
マスターは、カウンターに佇む地ビールの瓶を眺め、その視線を円に移した。実験
用のマウスを見つめる、研究者の「それ」と類似しているのは気のせいではないだろう。
「わ、私はビール飲めませんからね!丘田さんとマスターで挑戦してください」 丘
田も半ば諦めた表情で、『土師丸屋』とマスターの顔を見た。
「うーん、大丈夫でしょう」
マウスの選別は終了した。
かくして、地ビール『土師丸屋』は、本格的に抹殺を逃れたのであった。
三人の眼差しに守られて、忘れ去られていた『土師丸屋』の封印は解かれた。
その美しい液体は、キャンドルの明かりに照らされ、マスターの手によって優しく
グラスへ身を委ねる。
「見た目の色には、何も問題はなさそうですが・・・味はどうですかねぇ」
そう、一番の問題は味なのである。小さなグラスの中で控えめに揺れている『土師
丸屋』は、照れ臭そうに表面を輝かせた。
マスターの唇が優しくグラス触れる。
『土師丸屋』は、待ち兼ねた様子でグラスを滑り、唇へ泳ぎ着く。
マスターは、ゆっくりと確かめるように、封印の中身を味わう。そして、広がる香りの余韻に浸る・・・。
マスターと『土師丸屋』だけが、共有しているわずかな時間。
大人しく見つめていた二人も、ようやく口を開いた。
「マスター、どう?」
元々の味わいを知らない円は、興味深くマスターの判断を待っている。
「やはり、味は変わってしまっていますか?」
丘田も気になる様子だ。
マスターは、もう一度グラスの中身を揺らした。そうすることで、より一層香りが立つ。
「そうですねぇ・・・特別に変質しているとは、思えませんが」
「マスター、以前飲んだ時の味って覚えているわけ?」
円は、思いっきり疑いの眼差しで、見つめている。
「いや・・・実はそうはっきりとは、覚えていないんですよ」
その台詞は、真顔で口にする類のものでは無いと思うのだが、マスターの表情は限
りなく真剣だ。こんな人物にカウンターの向こうを取り仕切らせていても、許されるのだから恐ろしい。
「・・・・・・・(やっぱり)」
待つだけ時間の無駄だと悟った丘田は、自分のグラスを引き寄せ、同じく口に含んだ。
こうなると、誰も言葉も信用ならない。
本来ならば、一番信用のおけるはずのマスターの言葉に、真実味を見出せないのだ。
やはり、最後に頼れるのは己ということか・・・。
「私も、一口」
ビールの苦手な円も、挑戦する様子である。自ら実験用マウスに志願するとは、酔狂な事だ。
マスターの手からグラスを受け取り、マスターと丘田の真似をして少しグ
ラスを揺らして香りを楽しんでみた。
「なんていうのかなぁ・・・甘い感じだけど、スモークサーモンの香りがする よ」
信用を失っているマスターは、軽く頷きながら円の感想に答えた。
「そうですね。わかりますよ、その感じ。しかし、これはバナナの香りなんです。
甘くて少し、香ばしさもあるでしょう」
静かに、味わっていた丘田も、納得顔だ。
「ああ、バナナですね。言われてみればはっきりしました。何の香りだろうと考えて
いましたが、中々辿り着きませんでした」
まさに、旅人丘田家路に着く、といった感じだ。円は、不満顔でスモークサーモン
とにらめっこしている。
「どこを探せば、バナナさんに会えるんだろう・・・」
彼女は未だ、地ビール迷子の真っ最中、まさに試練の時である。山は高い程、挑戦
後の感動も大きいものである。しかし、きっと彼女はそのような感動を求めてはいな
いのだろうけれど・・・。
『土師丸屋』の中身も残りわずかになり、底には一口分の液体と澱が眠っている。
それぞれのグラスにも、味わった残りが揺らいでいる。
「のんでいる今現在は、皆さんお元気ですが、時間が経つと吐血して倒れたり したらいやですねぇ」
これでもか、というベタなネタが大好きなマスターは、自分の想像した惨劇に、楽
しげな笑みを浮かべている。もちろん自らも吐血して倒れるのであろうその想像は、
丘田、円を巻き込んで膨らみ続けた。結局、皆その手のネタは嫌いでは無いという事である。
「飲んでいる量から考えて、マスターと丘田さんは絶対に即死だよね」
円の言葉には、誰も訂正を入れない。
「円ちゃんは、重症患者で予断を許さない状態?」
丘田も続いた。
「証言できる、たった一人の生存者ですね」
マスターも負けずと続く。
それぞれのアイデアを組み込むと、一応ストーリーらしき物が姿を見せた。 吐血
案は却下になり、別口としてウイルス説が出現。
『土師丸屋』の液体には、賞味期限切れにより、想像を超えたウイルスが増殖、ワ
クチンも無く感染者には、予告もなく死が訪れるというおそろしい話である。その死
亡原因が特殊なもので、いきなり死後硬直に見舞われるのだ。おまけに、硬直度合い
が最強究極で、一度硬直してしまうと、いかなる手段をもってしても、硬直時の姿を
変える事は不可能なのである。
この案をふまえて、三人の死亡説は続いた。
「丘田さんが、駐車場で、駐車券(お店から渡してもらえる三時間までの駐車サービ
ス券)を差し込む瞬間に、死後硬直して固まっていたら、笑いますよね」「で、お店
を閉めて私たち二人が駐車場に向かったら、丘田さんが車の窓から 手を出したま
ま、硬直して死亡しているんですよね」
事実なら、到底笑う話では有り得ない。丘田は、すでに死亡してしまったので二人
の会話に耳を傾けている。
「出口をふさいでいるから、後ろに車が 渋滞していたりして・・・」
所詮田舎の駅の小さな駐車場が、渋滞するとは思えないのだが、マスターが楽しそ
うなので、丘田も円も彼の意見を放置する事にした。実際のところは、この変り種マ
スターの現実に連れ戻す術を、探し出す事が出来なかったのだ。
彼の脳裏には、丘田の死体と車の列が、鮮明に描き出されているに違いない。 尚
も話は続く。
「丘田さんを発見して、僕が『丘田さん!どうしたんですか』と近づいて、車の窓か
ら伸びている手に触れた瞬間・・・」
マスターは、変わらず楽しそうである。死亡していた丘田も、話に参加してきた。
「マスターも死後硬直してしまうんですよね。しかも掴んだ手は離れない」
変わらず店内には、マスターとカウンター席の二人。夜も更けて来たにもかかわら
ず、腰をあげる様子もなく話に花を咲かせている。おそらく、その花は彼岸花に違い
ない。彼岸花に埋もれて、死出の旅に出る三人・・・想像したくもない不気味さだ。
日曜日とはいえ、新たな客の訪れもなく、平和な時間が三人を取り囲み、ゆっくり
と流れている。
小人数でも優しく、暖かく包んでくれる。
一般的に立ち寄る『Bar』としては、広い店内とはいえないのだが、醸し出す独
特の雰囲気と、「それ」にひとりひとりが、溶け込むことによって、『Bar Dream』の適度な空間は、心地よく維持されている。
その中で交わされる会話が、どのようにばかばかしいものであったとしても、
店内を漂う空気に変化はない。
「三人一緒に、火葬するの?」
素朴な疑問を、円が投げると、少し笑いを浮かべて、マスターが受けてくれた。
「つながったままでは、棺おけに収まりませんよ・・・」
「ダメかな?」
丘田も笑っている。
「三人一度に火葬可能な斎場は、無いでしょうね」
話に夢中になっているマスターは、新たな飲み物を勧めることにまで、意識がまわ
らない様子だ。同じく丘田も円も、自分たちの本来のグラスが空になってしまってい
ることになど気がつく筈もなく、一生懸命に互いを殺しあっている。
「斎場が無理なら、キャンプファイヤーみたいに、皆に囲んでもらって焼いて もらおうよ」
嬉々として話を続ける円を、マスターと丘田は見守っている。
「名づけて、『三家族合同葬儀』!中々いいでしょう、どう?家族や友達皆にお 別
れしてもらうの。皆一緒に火葬するのだ」
本来、葬儀と呼ばれるものは、故人を偲ぶ目的も含んで、親族が集うものではない
のだろうか・・・。円の提案する『三家族合同葬儀』のどのあたりに、故人を偲ぶ時
間が設けられているのだろう。炎を囲んで、親族一同小躍りしそうな勢いを感じる。
読経の声も、さぞかしリズミカルに響くに違いない。
「火葬時の上昇気流に乗って、三人を焼いた灰が世界中に広がると、ウイルス 感染
も広がりますね」
死して尚、世界中に大迷惑を振りまく予定まで立てている、丘田。
「雨が降ると、確実に感染だね」
こうなると、実際に起きてもおかしくは無い事件のように思える。
「そして、全員瞬間死後硬直・・・」
マスターは、一人悦に入ってしまって、異世界から出てきそうにはない。
「誰も、生き残らないのはおもしろくないよね」
もはや、この三人を止めることは誰にも出来ないのだろうか・・・・。
円は、話のまとめにとりかかっている。
「全人類全滅・・・それもまたいいですねぇ」
楽しげなマスターを無視しつつ、円は結末を練り、丘田は静かに沈黙を守っている。
「ひとりだけ、生存者ありだよ!庄司さんは大丈夫」
『庄司』は、マスターと共に『Bar Dream』を支える、女性バーテンダーである。
本日は 用事の為、顔を出してはいないが、円の中では彼女が生存可能な人物として浮上した様子だ。
嬉しそうに、マスターと丘田に説明を始める。
「私たちは、駐車場で一緒に固まっているから、次の日に仕事に行けないでしょう。いつも、先に
お店に来ているマスターが来ていないから、店内は片付 いていない。つまり、
このままの状態で『土師丸屋』の瓶とグラスは置いて ある。やっぱり、味が気になるのが
人情ってものでしょう?瓶の残りを少し だけ口にするの。
実は、その残りの液体の澱には、ウイルスに対抗できる抗 体も含まれていて、上澄み
だけを口にした私たち三人は、全く意味がないけ れども、庄司さんだけは、助かるのだ」
全人類を壊滅状態に追いこんだ割には、あっけない終末を迎えた。
「世界中を恐怖に陥れる病原菌の発生が、小さな日本の都市で、おまけにこん な田
舎の町だなんて、皆びっくりしますね」
毎度の事ながら、マスターのピントはどこかズレを見せている。
丘田も円も、慣れてしまっているため、そのズレをあえて修正はしない。修正出来
る範囲のズレならば、とうの昔に誰かが挑戦しているだろう。
「美味しさを追求せずに、最後まで飲み干してしまえば、笑われも生き残り組 でしたね」
マスターと違って、丘田の言葉はやけに正常に感じる。
「だめだよ、飲み干しちゃったら、誰もウイルスに感染しないし、世界にも広 がらないで終わってしまうもん・・・」
円の意見にも一理ある。三人がウイルス抗体まで手に入れてしまっては、発病もなく、
楽しい『三家族合同葬儀』も執り行われることなく、奇病発生の地として、『堺市』が注目を浴びることもなくなるのだ。
「我々は、三人固まって火葬される運命なんですね・・・」
残酷な無いようとは裏腹に、丘田は笑っている。
店の外は、少しずつ静けさに包まれ、行き交う人も今はいない。車の行き来も減
り、最終電車の乗客を待つタクシーの列が、長くのびている。付近の飲食店は、とう
の昔に閉店時刻を迎え、個々の店内は闇に包まれ眠りにつき始めていた。
「まあ、皆さんお疲れ様でした。これでも飲んで喉を潤してください」
コースターに腰を降ろしたのは、よく冷えた水であった。
「ありがとう、マスター。いただきまーす」
「いただきます」
「どうぞ、どうぞ」
平和な日曜日の一場面である。
『土師丸屋』ウイルス事件の終結を迎えた現在も、新たな客の訪れはない。
静かな店内で、水を喜んで飲む三人・・・。
まるで、真夏の喫茶店の情景にも似た庶民度である。
「では、私はそろそろ」
丘田が戦線離脱を宣言した。
「おや、もうお帰りですか」
「明日も仕事なんでね。帰って備えます」
「それでは、清算いたしますのでお待ち下さい」
マスターは、伝票と電卓を取り出し、計算を始めた。このレトロなところも、円は気に入っている。
「毎度、ありがとうございます」
マスターは、丘田から勘定を受け取ると、軽く頭を下げた。
「それでは、お先に。円ちゃんお疲れ様、またね」
「はーい。オヤスミなさーい。また『Dream』で!」
扉をくぐる丘田に、手を振る。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
マスターは、再度丘田に礼を告げた。
店内には、明日に備えない人種と、ズレたマスターが残された。
「はあ、ずいぶん話がふくらんじゃったね」
「いやあ・・・壮大なドラマを見ている様でした」
夜中にオンエアされる、一部のマニア受けしそうなドラマネタではあるが、壮大な
ドラマと賞賛するには、足りない要素が山ほどあると思われる。
「オチがついて、よかった。最後決まらないと、胸のあたりがモヤモヤして、今夜
眠れないもん」
円は、安堵の表情で水を口に運んだ。
「いらっしゃいませ」
マスターの言葉に反応して、グラスを片手に、入口に視線を移した。逆光で表情は
読み取れないが、マスターと同年代の,男性と思われる。
「まだ、いいかな?」
すこし、遠慮がちに尋ねる来訪者は、久しぶりに顔を見せた常連客である。
「まだ、営業時間内ですから、大丈夫ですよ」
よほどのことが無い限り、閉店間際でもマスターは「そう」答える。
『Bar Dream』の店内は、三人に戻った。
ほとんどの人が、明日に備えて眠りにつく日曜日の深夜。
『Bar Dream』の夜は、再びゆっくりと流れ出すのであった。