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BIOGRAPHY 20世紀を後にするにあたって、地球上でもっともロックンロールしていた場所がカーディフのミレニアム・スタジアムであった。それからマニック・ストリート・プリーチャーズは、シングル「Masses Against The Classes」(プロモーションは全くせず、ビデオも作らなかった)でボーイ・バンドやガール・バンドを蹴散らしてチャートの首位に駆け上り、華々しく21世紀をスタートさせたのだった。こうして今のロック・フレンドリーな時代の風潮を作り上げた後すぐ、今に至るまで、彼らは公衆の目の前から姿を消していた。そしてそれは、待つだけの甲斐のある沈黙だった。 自分を信じること――それはこのバンドのスタイルにおいていつも重要な要素だった。90年代の初め、マニック・ストリート・プリーチャーズは彼らの途方もない計画を明らかにしてメディアを大いに沸かせた。彼らは他のどのバンドよりも壮大なサウンドと壮大なルックスを求めていた。彼らはものすごいセールスとドラマチックなシーンを生みだしてみせると宣言し、心と知性の両方に働きかけることを目指した。マニックスは自分たちが一生懸命集めたレコード・コレクションの最良のものと肩を並べるほどになりたいという大志を持っていた。それを嘲笑い、惨めな終焉を迎えるだろうと予想した者は多かったが、実際マニック・ストリート・プリーチャーズは以来壮大な発想のほとんどすべてを実現してきた。他のアーティストたちがまるで夢遊 病のようにキャリアを歩んでいるのに対し、マニックスは常に注意怠りなく、一貫して熱意にあふれ、いつも考えながら進んでいるのである。 マニック・ストリート・プリーチャーズは1989年、デビュー・シングル「Suicide Alley」でマンチェスターを中心としたダンス・バンド・ブームの真っ直中に登場した。彼らはパブリック・エネミーのような論争的なヒップホップと、ガンズ・アンド・ローゼズのような激しいロックンロールに育まれ、スミスやジョイ・ディヴィジョンといったイギリスのグループならではの暗めのトーンに味付けされていた。「Motown Junk」や「You Love Us」といった一連のシングルを発表した後、コロンビアと契約してダブル・アルバム『Generation Terrorists』を発表。それに続くアルバム『Gold Against The Soul』と『The Holy Bible』は、更に厳然たる揺るぎのないものになっており、殊に後者ではその傾向が強まっていた。そして1995年2月、バンドのギタリストであるリッチー・ジェームスがアメリカ・ツアーの前夜に行方不明になった。 マニック・ストリート・プリーチャーズは1996年に3人組として戻ってきた。「図書館が我々にパワーを与えてくれた」と始まるシングル「A Design For Life」はイギリスの福祉制度の(どんどん減少しつつある)可能性を糾弾していた。この圧倒的なバラードはアイヴァー・ノヴェロ・ソングライティング・アウォードを受賞、1996年4月に全英チャートの2位になった。4枚目のアルバム『Everything Must Go』はバンド史に近年起こった騒動を捉えて明らかにしたもので、ますます広い層を惹きつけることになった(そして、初めてブリット・アウォードでベスト・アルバムとベスト・バンドの2冠に輝いている)。 5枚目のアルバム『This Is My Truth Tell Me Yours』のタイトルは、ウェールズの社会革命家であり福祉国家の設計を担ったアニェリン・ベヴァンの言葉から取られている。アルバムにはスペイン内乱(「If You Tolerate This...」)、1989年にヒ ルズバラで起こったサッカー場での災難(「S.Y.M.M.」)、リチャード・バートンやディラン・トーマスといったウェールズのアーティストたちのパッと咲いてパッと散る傾向(「Ready For Drowning」)などが歌われている。これもまた、普通のレコードではない。 アルバムの発表直前に、マニックスはBBCテレビのドキュメンタリーで取り上げられた。精細な調査をもとにした番組は彼らの過去を明らかにして掘り下げている。カメラはサウス・ウエールズにあるブラックウッドというかつての炭坑の街を訪れ、幼なじみだった(シンガー/ギタリストのジェームス・ディーン・ブラッドフィールドとドラマーのショーン・ムーアは従兄弟同士)バンドの成り立ちを追いかけた。80年代半ばの炭坑ストライキ、そのストライキが失敗に終わったときの地域の政治状況 やそれに続く幻滅など、彼らの形成期の出来事を背景にして、その音楽を吟味するという番組だった。 マニック・ストリート・プリーチャーズは98年末の様々な人気投票に全面的に登場、多くの部門でトップに立った。Qマガジンの読者は彼らを「現在世界最高のバンド」に選んだ。98年12月のソールド・アウトとなったアリーナ・ツアーは、カーディフ・アリーナにおける3回のクリスマス直前公演で最高潮に達した。1月にはブリット・アウォードに3部門(「ベスト・ブリティッシュ・グループ」、イギリス人アーティストによる「ベスト・アルバム」と「ベスト・シングル」)にノミネートされた。 1999年初頭、マニック・ストリート・プリーチャーズはオーストラリア、日本、ヨーロッパをツアーし、彼らの信望は真に全世界的なものとなった。1999年のブリット・アウォードにライブ出演するために短期帰国した彼らは『This Is My Truth Tell Me Yours』で「ベスト・ブリティッシュ・アルバム」、そして「ベスト・ブリティッシュ・グループ」のダブル受賞を果たし、1997年の成功をそっくりそのまま繰り返して、この最も権威ある賞をアルバム2枚続けて受賞した初のバンドになったのである。 1999年夏も精力的なヨーロッパでのフェスティバル出演(グラストンベリー、T・イン・ザ・パーク、V99でのヘッドライナーを含む)、3年ぶりの全米ツアーと続いた。これまでのマニックスの歴史通り、こうした活動は様々なカオスと論争と多くの批評を巻き起こした。 1999年末までにマニック・ストリート・プリーチャーズはこれまでのキャリアで最も活躍目覚ましかった一年間を振り返っていた。マニックスはインスピレーションや愛憎、献身を引き起こし、ロック神話を生みだし、歴史を作りながらこの10年間を過ごしてきた。ニュー・ミレニアムの前夜にミレニアム・スタジアムを支配できるミレニアム・バンドが他にいるだろうか。ビデオ『Leaving The 20th Century』(2000年3月発表)は栄光に満ちたその夜の華々しさを見事に捉えている。 マニックスは人々のバンドだ。この最も伝説的なイギリスの現役ロック・バンドは、かつて「イギリスの至宝」と呼ばれた以上のものを有している。彼らは2001年春、新しいアルバムとシングル、ツアーを伴って戻ってくる。「一年間のオフ」にも関わらず、イギリスのメディアは相変わらず彼らの言葉のひとつひとつに飛びつき、バンドの新作についての熱心な推測は相変わらず人々の関心を掻き立てている。マニック・ストリート・プリーチャーズは自分たちの素晴らしさを公言することでキャリアをスタートさせ、以来長い間ハイプ(メディアを通じての大言壮語)の遙か上を行っていた。3月には更なる凄いことが起こるのだ…。 マニック・ストリート・プリーチャーズの新曲が初めてライブ演奏されるのは、2001年2月17日、ハバナのカール・マルクス・シアターとなり、3月にはアルバム・リリースが続く。1999年12月31日以来初のイギリス公演は3月、4月に行われることになっている。 |