■スタンリー・キューブリックの毒
キューブリックの映画といっても3本くらいしか見ていないが、なんとなく音楽の使い方がうまいな、という記憶がある。
『博士の異常な愛情』のエンディングに流れるのはヴェラ・リンの「また会いましょう」。原爆や水爆がチュドーンと爆発するのを背景に

また会いましょう、どことも知らず、いつとも分からないけれど
でもいつかまた晴れた日に会いましょう
シェルターに避難する人たちからのメッセージと言われているが、なんともブラックなジョークだ。
また、『時計仕掛けのオレンジ』ではアレックス(アレックス・ドス・サントスではない)が仲間とともに押し入った住宅で、「雨に唄えば」を歌いながら、夫の目の前で妻をレイプする。
僕は雨の中で唄っている
ただ雨の中で唄っているだけさ
なんて素敵な気分なんだろう
また幸せになれたんだ
これはアレックスを演じたマルカム・マクダウェルが全部歌える歌をこれしか知らなかったからという話があるがそのまま採用してしまうあたりキューブリックはすごい。朗らかな歌詞によって映画の暴力シーンの陰惨さが伝わってくる。
『フルメタル・ジャケット』ではエンディングで若い兵士たちが敵が全滅したあたりを「ミッキーマウスのテーマ」を歌いながら前進する。これもやはり戦場とミッキーという物凄いギャップがブラックだ。
私はいまのところ以上のような点でしかキューブリック作品を見ていないようだが、それでも十分好きだ。
■新しいイギリス映画
といっても古いのに詳しいわけでもない。
『トレインスポッティング』についての話をしたいだけだ。穿った見方をすればただのキレた若者の話と言えなくもない。
が、原作を読むとこの映画は2倍くらい面白くなる。
要は「人生は短すぎる」ということなんだな。
ちなみにロバート・”ベグビー”・カーライルは『フル・モンティ』ではお父さん役(!)。
キレなくてもかっこいい。
こういう映画がもっと増えてジョークの国が復活することを切に願う。
■モンティ・パイソン
ちょっと長くなると思われます。
モンティ・パイソンがギャグコメディ界において何故画期的であり、特別な扱いを受けるのか。
それは彼らが番組をはじめるにあたって定めたお約束が今までにないものであり、これを遵守したからである。そのお約束とは「司会は要らない」「ゲストは呼ばない」「落ちをつけない」「タブーを作らない」「〜流というような型にはまった行動をしない」というような将来のことを何も考えていないかのような、大の大人が考えたものとはとても思えないようなものであった。
もっともこの規則うち、「〜流というような型にはまった行動をしない」だけは破られた。新しく「Pythonic(モンティ・パイソンのような)」という言葉ができてしまったからだ。
モンティ・パイソンが大いに人気を博した理由はいろいろ考えられるが、やはりメンバーのバランスのよさがその大きなものの一つだろう。
体が大きく、高圧的な軍人や役人の役を多くこなし、チャック・ベリーのダックウォーク、マイケル・ジャクソンのムーンウォークと同じくらい有名なシリーウォークを得意としたジョン・クリース。
やはり体が大きく、自身がゲイであったこともあってゲイの役が多かったグレアム・チャップマン。
この二人は論理的に笑わせるネタが得意だった。
素の顔が笑顔のエリック・アイドルは、音楽と言語のネタが多かった。ビートルズ公認のパクリバンド、ラットルズを作ったのもこの人である。
ビートルズがアンソロジーを発売した時にもちゃんと似たようなのを発表していました。
見た目が地味でいい人そうなマイケル・ペリンとテリー・ジョーンズは、知恵遅れとかやたら裸になるネタが得意だった。
テリー・ギリアムは司会なし、落ちなしというメリハリがなくなってしまいそうな原則を夢幻的なアニメーションでつないだ点にその功が大きい。現在はハリウッドで映画監督をしている。
代表作『未来世紀ブラジル』をはじめ、いろんな意味で夢のような映画を作る人である。
つまり、論理的な面、音楽的な面、ビジュアル的な面と、笑いが多方面に渡って繰り広げられている点がそれまでの笑いと大きく異なる点であるといえる。
彼らの活動の最大の功労は、やはり笑いのタブーをなくしたことであろう。
彼らなくしては王室や政府、ゲイや動物愛護団体などを笑うことは考えられなかったし、放送という公共の場でFUCKということもできなかったであろう。
コメディを語る上で外せない存在であることはSNLと同じだが、画期的という点ではモンティ・パイソンの敵ではない、と私は思う。
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