映画でもテレビでも小説でも娯楽性の高いものには、大抵、善玉と悪玉がいます。
刑事と犯人、正義の味方と悪の首領、政府と庶民、某合衆国と某社会主義国家等など、その類型は枚挙に暇がありません。
しかし、類型が無数に存在するのに反比例、いや、負の正比例か、
兎に角結末はその殆どが正義が勝ってしまうモノばかりです。
言い換えれば悪の敗北、消滅。
つまり、永遠なるマンネリであるわけです。
いくら作品がつまらないと言われようが、悪玉を善玉に勝たせたということはあまり耳にしません。
それをやってはいけないという掟はないのですが、作者は敢えて不文律を犯すことをせずに悪役の個性に賭けることが多い。
個性豊かな悪玉は、時に善玉を凌ぐほどの人気を得るのです。
そこで、過去の名悪役について考えてみましょう。
まず、日本の歴史で名悪役といえば吉良上野介義央(義親・義周)。言わずと知れた忠臣蔵の悪役です。
どの映画でも吉良が意地悪をする場面は必ず入ります。
では、彼は本物の意地悪であったかというと実はそうでもないようです。
地元(静岡あたり)では名君として有名ですし、意地悪とうけとられたのは田舎モノの赤穂藩当主・浅野が当時の習慣であった賄賂を渡さなかったから、というのが実際であるようで、忠臣蔵という作品は四十七士に同情した庶民が作った話なので、話を盛り上げるために吉良を悪者にした、というのが正解のようです。
作品の中での吉良は意地悪な上に相手を罵倒する(相手をキレさせて自分が斬られるほど)のもうまく、さらに何といってもしぶとい。
最期には往生際の悪さも見せ、四十七士の自己陶酔を否が応でも高めるなど、悪役としては最高レベルに達しているといえそうです。
うーん、まさに温故知新。昔の人はすごいなあ。
次に「ガンバの大冒険」のノロイ。
これは主人公たちの恐怖の的。
怖い悪玉ということなら群を抜いてトップです。
殺されるとかではなく、食べられちゃうんですから。
作品の中では悪の権化のように描かれていますがイタチです。鼬。
なかなかお目にかかれるものではありません。
映画「エイリアン」も、悪玉が強いという点では群を抜いているでしょう。
今のところ3〜4回生き返ってきます。あと最低でも2回は生き返るでしょう。
善玉が徐々に減らされていくのもこのタイプの作品の特徴といえそうです。
以上の悪玉たちはいずれもかなり強い。
主人公とその仲間たちはかなり苦戦を強いられ、時に何人か脱落者(死者)を出しています。
これもまた"終"のための布石でもあるわけですが。
強い悪玉に善玉が逆らうことで話が進むので、エンディングの盛り上がりはこのタイプが最も大きいようです。
しかしもっと主人公たちが質・人数ともに制限される場合は、
主人公を脱落させるわけにはいかなくなり、それに従って悪玉は弱くなっていきます。
弱くなった悪玉はどうするかというと、個性を磨くことで自らをアピールします。
その最もわかりやすい例がタイムボカンシリーズの三悪。
ヤッターマンで言うとドロンジョ、トンズラ、ボヤッキーです。
このタイプは悪玉の主要人物の人数を多くすることで悪に必要な強さを分散させ、
なおかつ個人個人が大して強くないので憎めないという効果も生んでいます。
特にこの三悪の場合は彼らの上にドクロベエ様という上司を置くことで、さらに憎めないキャラクターになっています。
オタスケマンの三悪(アターシャ、セコビッチ、ドワルスキー)にいたっては製作者側も気に入っていたせいか、
最終回では自らの命をなげうって地球を救うという、善玉以上の活躍をしてしまいましたが、これは例外中の例外といえるでしょう。
主人公(善玉)が決定的に弱い「ドラえもん」では、基本的にジャイアンこと剛田タケシが悪玉ですが、
隣町の子がのび太をいじめていると助けにいったりもし、いいやつな面も垣間見せています。
しかし悪玉である時の彼の理不尽さには目を見張るものがあることも忘れてはいけません。
主人公が弱いにもかかわらず悪玉が強い、という作品はあまりありません。
「銀河鉄道999」では最初は惨めな境遇にいた小さな鉄郎個人ですが、アンドロメダ星雲に近づくにつれ徐々に強くなっていきます。
映画「スターウォーズ」も、主人公ルークは徐々に強くなります。
善悪の力の差が本当に開いているのは辛うじて政府が敵である作品。
例えば「エネミー・オブ・アメリカ」とか、「ペリカン文書」などがそれで、アメリカの作品に多くみられます。
結論として言えることは、悪玉は強ければ強いほどエンディングは盛り上がるが、
子供向けの番組だと徹底的に悪いやつは存在しない、存在しても稀である、ということです。
現在までに生まれた様々な作品で、善玉と悪玉の関係は出尽くしてしまったような感がありますが、
まだまだこれからも新しい発想が生まれることを期待しています。
では次に悪役というものを別な角度から見てみましょう。
悪役というものは概ね悪の軍団を従えており、その組織力をもって正義の味方と戦い、
首領が期待するほどの組織力をもたないことを露見しつつ敗れ去るものと決まっています。
これに対し正義の味方というものは少数精鋭と相場が決まっています。
常に選りすぐりのメンバー(もしくは一人)で敵にあたるわけです。
機密保持なんかには最適でしょうけど、仮にも悪を倒そうとするものが、こんなことでいいのでしょうか?
正義の味方が圧倒的優位に戦いを進めた上、徹底的に悪を叩きのめすという例は殆どないといっていいのではないでしょうか。
正義の味方の多くは自らの命を賭けてまで悪を滅ぼそうとする、実に見上げた連中です。
また、その多くを占める連中は半端ない強さを持ち、敵もまた人間ごときがかなう相手ではありません。
それはそれとして認めますが、だからといって一般人が何も手を貸さないというのはいかがなものでしょうか。
人類が育んできた武器・兵器の文化というものはこういうときにこそ役立たせるべきではないのでしょうか?
まあ正義の話はいいとして、これは悪についての話ですから悪について語りましょう。
悪といえば正義と戦うことを仕事としているように見えるが、現実(←?)はどうでしょうか。
悪事を働くからこそ正義の味方が邪魔をしに来るのであって、正義の味方のほうから先制攻撃というのはない。
あったとしてもごく稀であろう。ということは悪のほうが能動的であるということがいえる。
では悪役軍団は、常日頃は何をしているのだろうか?
というと、当然悪事である。
悪役だから。
しかし、そんなに毎日毎日悪事を遂行できるものだろうか?
例えば強盗や誘拐なんかを毎日やったとしてみよう。
当然警察だってバカじゃないので徐々に容疑者を絞り込み、
少なくとも秘密基地のありかとおぼしき場所を24時間体制で張り込むぐらいのことはするだろう。
そうなれば困るのは悪役軍団。
大抵の悪役が抱く大いなる野望を、小さな悪事のために駄目にしてしまう事必至だ。
一体何のために悪の組織を作ったんだぁ!ってことにもなりかねない。
強盗や誘拐はパスだ。
ではもっと小さな犯罪はどうだろう?
ひったくり、すり、置き引き、痴漢etc、これなら捕まっても組織ぐるみの犯罪とは思われない。
が、逆に組織ぐるみでこんなことやってどうしようと言うのか?
戦闘員とか愛想を尽かして出て行ってしまわないか?
これではそのへんの不良高校生と変わらない。
う〜ん、なかなか悪事を働くのも難しいですなあ。
大体、正義の味方は悪を倒すから正義という定義の仕方があるが、
悪にとっては正義を倒すから悪という見方はあまりない。
悪の持つ能動性がそうさせているのか、悪は悪を為してこその悪であるわけである。
だから普段も悪いことやってんだろーなーと思い、悪の日常についてふれてみたわけだが、どうもそうではないようだ。
悪の目標(例えば世界征服)を掲げていても、毎日悪いことをしてれば良心が痛むだろうし。
関係ないが日本語には悪心というものがあって、これは悪い人の心とか悪い心構えのことではなく、
単に気持ちが悪いという症状を指す言葉である。以上薀蓄。
ところで、悪役も正義の味方もニ六時中戦っているわけではないから休息もあるだろう。
どちらも機密保持という点では共通しているのでストレスもたまりそうだ。
趣味とかあるんだろうな。それも仕事とは関係のないことだろう。
体を動かす仕事だからインドア派だったりして。
ゲームやったら正義の味方は悪役を、悪役は正義の味方を選んでお互いに鬱憤を晴らしていたら面白いなー。
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