2.コメヤマの習性
我々は幸か不幸か大学生活の4年間、コメヤマを観察することができた。
コメヤマを姿を見て、コメヤマの声を聞き、そして時にコメヤマと行動を共にした。
そこで我々はコメヤマの様々な習性を発見した。
イキモノの習性には必ず何かしら必然性があるものであるから、コメヤマの習性について研究することはコメヤマ学において何らためらうべきものではない。
2−1.コメヤマは他人の発言を繰り返す。
これはいたるところで見られるコメヤマの習性のひとつであるが、この解釈については現在2つの説がある。
まず第一の説は古くから言われていることだが、コメヤマは「その場の空気に溶け込むため」に言葉を繰り返す、というものだ。
これはコメヤマの社会性及び主体性の欠如から推察された説である。
コメヤマは自ら話題を作り他人と対話する能力に欠けていることから、他人の意見に無差別に同意することで、自分はその場で会話をしている人たちと一緒に会話しているんだ、と自らに言い聞かせ、また、自分をみている人(実際はそんな人はいないのだが)にそう思わせようとしている、という解釈である。
この解釈から派生したのが妄想米学派(コメヤマがコメヤマたる所以は、コメヤマが自分の妄想の中で生きているため、周りの物事が見えていないからである、とする学派)である。
第二の説は神奈川県のコメヤマ学研究者・中村ヒロシ博士が提唱する説で、彼はその著作「コメヤマの家は米屋」で、『コメヤマは「憧れ」により他人の言葉を繰り返す』と述べている。中村博士によると、コメヤマは他人の言葉を繰り返すことで、その人と同意見である、と思い込み、現実では自分より格上の人間(とコメヤマが思っている相手のこと。人類は皆平等である)と自分自身を同列に並べようとしているという解釈である。
この解釈から生まれた学派が卑屈米学派(註2)である。
筆者としてはどちらが正しいとも言いかね、また、どちらも間違っているとも言いかねる。
これら2つの説を織り交ぜて解釈するのが現代のコメヤマ学の主流となりつつあるようだ。
この事例をもっと深く研究してみたい方には佐藤直之博士著「グッチを買うコメヤマ」を読むと良いだろう。
註2:コメヤマのコメヤマたる所以はその徹底した現実認識により自らを卑小に見すぎているところにある、とする学派。シュールコメリズム。
2−2.コメヤマは他人に断りを入れない。
コメヤマが否と言えない性格であるというわけではない。
例えば誰かに物を借りるとき「貸して」の一言がいえないのである。
これはコメヤマの年齢(地球年齢で23歳)を考えると「お茶目」で済まされるものではない(註3)。
借りるとき、もらうとき、普通の人は何かしら一言言うものだ。
それは「サンキュー」かもしれないし「よこせ」かもしれないが、言うものだ。
それは世間一般で言う「礼儀」であり、日本人は特にこれを重視する。
が、コメヤマはそれをしない。
結論から言うと、これはコメヤマの空気を読む力が間違った方向に発達してしまったことの結果である。
別の言い方をするなら「コメヤマがいかに空気を読めないか」のあらわれであるとも言える。
コメヤマは目の前に出されたものに興味を持つと周り(たとえばその場にいる他の人)が見えなくなってしまい、一時的に「俺のものは俺のもの おまえのものも俺のもの(by 剛田剛:註4)」状態になってしまうのである。
このときコメヤマが正常な状況なら目の前のものを借りたり食べたりするために周りの人が起こす行動も見えるのだが、一時的にジャイアン化してしまったコメヤマにはそれが見えないのである。
「木を見て森を見ず」である。
これはコメヤマの大きな特徴である「その場の空気が読めない」と密接なつながりを持つ習性なので、今後も研究を続けていく必要があるだろう。
註3:なにもこの件に限った話ではない。
註4:剛田剛こと「ジャイアン」は、かの名作「ドラえもん」の主人公・のび太のクラスのいじめっ子。歌を歌えば超オンチ。歌声は「ホゲ〜」。野球チームではエースで4番らしい。でも最近ではサッカーをよくやっている気がする。こんなところでもJリーグの影響か?アニメシリーズではいつものび太をいじめる彼も、大長編シリーズでは常に頼りになる存在。でもかあちゃんは苦手。
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